私は今エリコの家の前に来ている。
学校でのエリコの特徴を上げるならお嬢様だ。
たまに常識知らずな所があるけれど、取り上げて言う程ではない。
緩いウェーブの掛かった綺麗な髪、 姿勢、言葉遣い。
何処を見ても気品溢れる出で立ちに、高嶺の花として少し浮いた存在。
家に招待された時は、お嬢様の家に入れると期待に胸を膨らませていたのに、これはどういう事?
明らかに貧乏屋敷。
ペンキの剥がれかけた壁。
手作りの柵。
地面に竹を打ち込んで麻紐を使って十時に綺麗に結んであるけど、これ畑以外で見た事無かったわ。
それと何故トイレの横から煙突が生えてるの?
サンタトラップなの?
窓ガラスなんて、ノックしたら割れてしまいそうだ。
とは言っても汚い訳じゃない。
雑草は一つも生えてないし、物が散乱してもいない。
むしろ物持ちの良さが伝わってくる良い家だ。
ただ、お嬢様のお住いにはとても見えないというだけで。
家の周りを見回していると玄関が開けられた。
「どうぞ上がって」
「お……お邪魔します」
「散らかっていて申し訳ないわ」
「いえ、お構いなく」
今までそれ程仲が良かった間柄でも無かったし、変な緊張感から敬語で応えてしまう。
昭和感が漂う家で、セレブ感を感じさせるお嬢様が中へと招き入れてくれる。
散らかってないし。
むしろ我が家の方が汚いまである。
居間に入ると、丸テーブルの横に置かれた座布団へと案内された。
変な緊張感から正座してしまう。
「飲み物を用意してくるわ」
そう言って部屋を離れたエリコは、お盆を持ってすぐに戻ってきた。
紅茶と牛乳と……納豆!?
何故に納豆が乗ってる?
茶請けか?
茶請けのつもりか?
当たり前のようにお盆に乗ってくる納豆に視線が奪われる。
そんな私の視線なんか気にも留めてなさそうなエリコは、隣の座布団に正座すると納豆を混ぜ始めた。
混ぜたけど!
私やだよ?
紅茶の茶請けに納豆は嫌だよ?
それにしても姿勢良いな!
茶道のように納豆混ぜてるよこの人。
軽く混ぜると納豆をお盆に戻した。
紅茶を手に取ると、牛乳を注ぎ入れる。
余りにも凝視し過ぎた所為で、エリコが私の視線に気付いた。
「あら、もしかしてミルクティーは苦手だったかしら?」
「ううん、全然そんなことないよ」
首を振りながら否定した。
良かったわと言いながらミルクティーにガムシロップを入れてくれた。
ありがとうと言ってコップを受け取ろうと思ってたのに、エリコの手はまだ止まらない。
コップをお盆の上に戻して、代わりに納豆を手に持つエリコ。
次の瞬間、私の世界は急速に加速する。
エリコがミルクティーに納豆を入れ始めたのだ。
何故!?
止めてー!
どうしたエリコ!?
ボケてんの?
ツッコミ待ち?
パックからコップに垂れ落ちる納豆を見ながら、私の思考は何倍にも加速するけど、一言も声を発することが出来なかった。
「はい」
エリコがコップを渡してくる。
は?
私に飲めと?
私がコップを受け取ったままの姿勢で固まっていると、エリコは自分の分の納豆ミルクティーも用意していた。
硬直している私を見てエリコは
「ふふっ乾杯♪」
チンッと綺麗な音を立てて合わさるコップ。
違うから!
乾杯したくてコップを持ってたんじゃないから!
「かん……ぱい?」
釣られて乾杯とは言ったけど、何これ、飲むの?
「はい、マドラー」
いや、箸!
それマドラーじゃなくて箸だから!
「いや、え? 使わない……かな?」
「あらそう?」
エリコは不思議そうに箸を自分のミルクティーに突っ込んで混ぜている。
完全に納豆まぜまぜしちゃってるよ。
ツッコミ待ちか?
ツッコミたくても頭の処理が間に合ってないよエリコ、お前どうした?
エリコは太めのストローを渡してくる。
タピオカミルクティーを飲む時に使うやつだ。
ちょっと待て、ストローは違うだろ。
「エリコ……、これ何?」
「我が家秘伝タピオカミルクティー」
ニコッと笑う笑顔が可愛い。
小悪魔的だ。
いや、悪魔かも知れない。
悪魔的だ。
エリコがストローを自分のミルクティーに突っ込むと、飲み始める。
マジで?
お断りなんですけど?
そんなことを考えていると、家の玄関が開けられる音がした。
「ただいま」
「お母さん、おかえりなさい、今お友達が来ているのよ」
「あ、お邪魔してます」
助け船が来た!
助かった!
それとなく、納豆ミルクティーご馳走になってますとでも言えば、エリコお母さんも察してくれるだろう。
「あ〜喉乾いた、エリコ少し飲んでいい?」
エリコお母さんがそう言うと、エリコが納豆ミルクティーを差し出す。
勝った!
そう思った私だったが、考えが甘かった。
「ご馳走様!」
お前もか!
それにしても美味しそうに飲むな。
案外美味しいのか?
そう思って私も覚悟を決めて一口飲んでみた。
ゴクリ。
ぎゃあああああ!
水、水は無いの?
水をくださいって言いたいんだけど。
納豆ミルクティーお前邪魔だよ!
お前の所為で、水も頼めやしねえ!
「どう?」
エリコが小首をかしげて聞いてくる。
可愛いなくそっ!
ドッキリパネルはどうした!
私は恐る恐る聞いてみた。
「もしかして醤油入れた?」
そう聞くとエリコは人差し指を唇に当てて言った。
「隠し味♪」
隠せてねぇからな!?
紅茶と牛乳と納豆と醤油が、思い思いに個性を主張し合ってるわ!
そこから私は納豆ミルクティーをちょびちょびと二時間掛けて飲む事になった。
「それじゃあ私そろそろ帰るね」
納豆ミルクティーのおかわりを出される前に。
「今日はありがとう、とても楽しかったわ」
立ち上がろうとした私は、立ち上がれずに横に倒れる。
二時間も正座していたから、足が痺れて動けない。
「痛ててて、足痺れて立てないや」
「あら、大丈夫?」
「あはは、ごめんちょっと休憩させて」
少し待てば動けるから、と思っていたのにエリコが何故かエリコお母さんを呼ぶ。
「お母さーん、足が痺れて動けないって!」
「はいよー」
え?
どうしてお母さん来たの?
「ずっと正座してたから血行が悪くなっちゃったんだよ、ちょっと我慢してろよ」
腕まくりをしながら近づいてくるエリコとエリコお母さん。
ちょっと待って!
止めて!
ホント今逃げられないから!
触らないで!
お願いだから!
『優しくしないで』
目を閉じている。
舟に当たる波の音がチャプチャプと、耳を優しく刺激する。
ずっと遠くからカモメの鳴き声が聞こえてくると、体が自然とソワソワしてくる。
私は、これから今という時間を満喫するのだと実感している。
ゆっくりと目を開けると、目の前には海と空が光り輝いていた。
吸い込まれそうになる私の意識を上に向けると、雲が二つだけ浮かんでいた。
親子だろうか。
後ろを振り返る。
仲間たちが私を見ている。
水面の揺らぎに合わせて、光の粒がキラキラと踊る。
“いってきます”と手でサインを送る。
“いってらっしゃい”と返してくる。
私は静かに海へと潜った。
透き通った海の世界は、私の心を簡単に鷲掴みにする。
水深十メートル程潜ると、珊瑚礁の団地。
色とりどりの珊瑚の屋根から顔を出す小魚たち。
太陽の光が海底まで差し込んで、ポカポカと暖かい。
ここは立派な水中都市だ。
様々な住人たちの様子を見ながら遊泳していると、小さなオブジェが目に付いた。
そのオブジェをよく観察してみると、その正体はすぐに分かる。
苔がビッシリと張り付いた岩。
その岩の周りを鳥のように飛び回っているのは、鱗がキラキラと光るとびきり小さな小魚たちだ。
天然のアクアリウムを発見したこの喜びを仲間たちにも伝えたくて、上を見上げた私の目に飛び込んできた光景。
それは酸素ボンベから出た空気の粒が、水中都市を明るく照らすシャンデリアのようにピカピカと光っていた。
『カラフル』
「たっだいまー!」
玄関を開けるとAmazonと書かれたダンボールが、所狭しと積み上がっている。
「その内お前らも開封してやるからな」
そんな心にもない約束をして、パンパンッとダンボールを叩く、それだけで気分が良い。
バックを玄関に投げ捨てると、そのまま台所へと向かう。
棚を眺めてみると、そこには様々なカップラーメンが並べられている。
何にしようかなっと考えてはみるが、やはりここはカップヌードルしか勝たん。
仕事終わった後はラーメンのスープまで飲みたいのだ。
ペヤングくん、ごめんよ。
「チャララララララ〜♪」
曲名も知らない音楽を口ずさみながらお湯を注ぐ。
ストップウォッチをピッと押したら、始まりのゴングだ。
仕事着を脱ぎ捨てたら急いでシャワーを浴びる。
ピピピピッとタイマーが鳴る頃に、シャワーを終えて台所に辿り着いて鼻を鳴らす。
「ふふんっ」
無駄に洗練された無駄のない動きで、無駄に勝ち誇る私。
パンツ一丁に肩に掛けたバスタオル姿、体が熱いのはシャワーの所為か仕事終わりの所為か、私は絶賛クールダウン中なのだ。
散らかったテーブルの上に、開かれたノートパソコンがある。
こいつをパタンッと閉じればテーブルの完成だ。
熱々のカップヌードルと、冷蔵庫から取り出したビールをノートパソコンの上に置く。
雑誌の下からリモコンを取り出すとエアコンを付ける。
若干寒めの二十二度にするのがポイントだ。
リモコンを元の位置に戻すと、その上に雑誌も戻す。
これぞ定位置。
両の手のひらをパンッと合わせる。
「いただきまーす」
熱々のカップヌードルをフーッと息を吹きかけて、一気に頬張る。
熱い。
スマホを開くと母からラインだ。
“野菜送ろうか?”
カップヌードルの肉を箸で摘むと、パクッと口に放り込む。
“大豆肉食べてるから大丈夫”
軽く返事を返して、肩に掛けたバスタオルで汗を拭くと、もう一口啜った。
遂にここで本命の登場、ビールをプシュッと開けてゴクゴクと喉に流し込む。
「きっっっくぅぅ」
床にゴロンと仰向けに転がり、私は天井を見ながら言った
「あ〜……ここにあったわ」
『楽園』
ここは街から少し外れにある、高台の花畑。
街を一望するこのロケーション。
風に乗って舞う花弁は星屑のブーケトスのようで、街ゆく人々へと舞い落ちる。
「コホッ……コホッ……」
「病気、早く治ると良いわね」
私は息子と2人で来ていた。
高台から見下ろす見慣れたはずの街並みは、どこか知らない土地のようで不思議な気持ちになる。
小さな屋根の一つ一つを観ていると、私の悩みなんて本当はちっぽけな物なのかも知れない……そう錯覚する。
「具合はどう?」
「うーん、昨日よりは平気……? でも、まだちょっと熱っぽいかも」
息子の療養も兼ねて、今日は1日この花畑で過ごすつもりだ。
隣町で流行っている感染症が、ついにこの街にも来た。
その感染症の第一被害者が息子だ。
「それよりお母さん、今日は仕事でしょ? こんな所に居ていいの?」
「うん、いいの、息子が病気で苦しんでる時に働いてなんていられないでしょ」
嘘だ。
「心配しなくても、僕は昨日より平気だって」
「大丈夫! 今日から暫くはお仕事お休みにしてもらったから、しっかり看病してあげるから!」
私は嘘を付いている。
本当は仕事をクビになった。
理由は、息子が流行病に掛かったからだ。
濃厚接触者である私は解雇されるだけではない、暫くは新しく仕事を見つけることも出来ないだろう。
流行病が街を飲み込むまでは。
「そんなことよりも、ほらこの花の匂いも嗅いでみて!」
明るく振舞って、手に持っていた花を息子の鼻先に持っていくと、息子はスーッと鼻で息を吸う。
「コホッコホッ」
手に持った花に咳が掛かる。
「あ、ごめん、また咳出ちゃった」
「全然良いのよ」
私は手に持った花の葉っぱと花弁をブチブチと引き抜いて、空に向かって投げ捨てた。
ここは、街から少し外れにある、高台の花畑。
街を一望するこのロケーション、風に乗って舞う花弁は星屑のブーケトスのように、街ゆく人々へと舞い落ちる。
「コホッ……コホッ……」
「病気、早く治ると良いわね」
『風に乗って』
「1週間ぶりー! あれ、そのお腹どうしたの?」
「ああ、食い過ぎた」
『刹那』