「……スズ?」
イヤホン越しに聴こえた声に、振り返る。だが、そこにはゆらゆらと蜃気楼を浮かばせるアスファルトと、蝉の声しかない。ほう、とため息をついて、俺は外した片方のイヤホンを耳につけ直した。
全く、仕方がないな。いつまで経ったって、ここには君が立っているような気がする。君の色が、においが、記憶が。……君の声がする。
「おーい、兄ちゃん!」
「……お、来たか。」
ぶんぶんと、遠くから大きく手を振りながら駆け寄って来る影。弟であるそいつは、俺の目の前まで来ると、「早いね」と笑った。
「まだ待ち合わせの時間の二十分前だっていうのに。ほんと、兄ちゃんはあの人のことになると、人が変わるよね。」
「そりゃあそうだろ。……あいつは、どうなっても俺の恩人だからな。」
「…………そっか。」
騒々しい蝉の声に、弟の微かな微笑みと二人分の足音が溶けていく。俺の手には、大きな花束がある。手向けとして……あいつへの、贈り物として。
なあ、まだお前の声は聞こえてるよ。だからさ、俺からもせめて、何か受け取ってくれよ。
この花でも、話でも、俺の声でもいい。
どうか、ひとつでも、届きますように 。
それは耳に残るようで、すぐに溶けて消えて無くなって、ひどく得難く感じて。であるのに、急にぽんと言われて、驚きに上手く拾えないこともある。
(……あー……やっぱ、もうちょっと遅くに来るべきだったか。)
教室に充満する、様々なにおいいつも以上に混じりあったそれに、頭がぐらりとした。クラスの女子が朝の間にチョコを渡し合う、なんて話を聞いたから、割と遅めに来たのに。誰かが朝ご飯代わりにファストフードでも持ち寄ったのか、あまいのに混じってどこかしょっぱい。ただでさえ、いつも化粧や香水の匂いがするのに、ここまで混ざったら凶器だ。くらくらする。
「……おい、頭抱えて大丈夫か?チョコが貰えなさそうで失望したのか?」
「するかよそんなこと。馬鹿らしい。」
「一介の男子高校生とは思えねえセリフだな。」
扉の前で突っ立ったままの俺を、一緒に登校してきた友人は吐息混じりの笑い声を漏らしながらに、廊下の方へと引っ張った。俺の手首を掴んだ方とは逆の手が、ぴしゃ、と扉を閉める。
「ほら、そんなんじゃ授業もまともに受けれないだろ?お前鼻良すぎるんだからさあ。今日は学校サボろうぜ、な?」
「……一限だけ保健室にいるから、大丈夫だ。」
「あとは出る、って?お前、それで去年廊下で蹲りだしたの忘れてねえからな。」
「…………今年は大丈夫だ。」
「じゃあ、オレが今日は帰りたいから、一緒に付き合ってくれよ。」
顔を、あげる。手首を掴んだままの手はあたたかく、見上げた表情はいつも通りだ。
優しくはない。気が遣えているわけでもない。こいつはこいつがそうしたいから、俺にこう言うのだ。なんと忌々しいことか。
「…………仕方が、ないな。一緒に、サボってやる。」
歯切れの悪い返答に、それでも、彼はふっと笑った。
「ありがとな。」
ありがとう、なんて。一体どちらが言うことなのか。言葉なんてすぐに消えてしまうのだから、そんなこと関係ないか。
ただ、その時の俺は。なんだかその言葉が無駄に貴重なものである気がして、耳に残したくてたまらなくなった。
日頃の感謝を。好意を。友情を。秘めた愛情でもいい。面と向かって口にするのは恥ずかしいというのが、大半の人の言うことだろう。
であるから、「形」にする。想いを物に換算して手渡す。値段や手間に想いの大きさが比例するとは限らないが、口で言うよりはよっぽど気が楽なのだろう。多分。
……というかそもそも、その行動は、本当に相手のためなのか。
「バレンタインチョコ?」
「そう。あげようと思ってさ。何がいいかな、って。」
「……誰に。」
「え?そりゃ、彩芽に決まってるじゃん。」
そういうのって本人に聞くのか?普通。
騒がしい昼休みの教室で、菓子パン片手に向かい合う友人。私はきらきらと目を輝かせてこちらを見る彼女に、ふっと小さくため息をついた。
「別に、何も要らないよ。作るの面倒でしょ。」
「っえー、別に面倒じゃないよ!だって、日頃の感謝を伝えるために作るんだから。」
「……今間接的に伝えてるじゃん。私はあなたに感謝してます、って。」
「いやまあ、それはそーなんだけどさあ。」
ああ言えばこう言う。むすっ、と頬を膨らませて、友人は机の下で足をぶらぶらさせた。机が揺れる。
「言葉で伝えるのも良いけど、物でも伝えたいの!」
「チョコは食べたら消えるし、言葉とそう変わらないでしょ。」
「消えるか消えたいかの話じゃないよ。私が彩芽にあげたいからあげる。」
それだけ!と笑って、彼女は足を揺らすのを止めた。代わりに、ぱくりと大口で菓子パンにかぶりつく。ディベートはおしまい、だからちゃんと答えてね、というところだろうか。
「……じゃあ、すっごい甘いもの以外がいい。生チョコとかは多分……無理。」
「ん!」
くちいいっぱいに頬張ったままに、彼女は親指を立て頷いた。その顔が満面の笑みを浮かべていて、ついでにぼろぼろ砂糖の皮を落とすものだから、思わず笑ってしまった。ああ馬鹿、すぐ拾おうとするな、もっと落ちてくるだろ手元のやつから。メロンパン食べる時は気をつけろって、あんなに言ったのに。
仕方が無いな、なんて言いながら、机の上を片付ける。彼女は慌てながらも、ありがとう、と言って眉を下げた。
人に物をあげることなんて、感謝を伝えることなんて、結局は自己満足にすぎない。友人もそれを知っているけど、その上で私に渡したいと言う。返すも返さないも貰ったものをどうするかも私次第。彼女は「渡す」という行為さえ成せれば良いのだから。
きっとそんなものだ。他人の事を考えているようで、結局は独りよがりだ。
それでも、こんなちいさな自己満足で友人が喜ぶのなら、それはそれで良いのかもしれない。
受け取る事だってきっと、想いをそっと伝えることのできる、贈り物だ。
ここに残そう。君が本当に死ぬ、その日が来るまで。
「呪いがかかってるんやってさ、うち。なんか、不死?みたいな。それで、記憶の継承の条件が、生きてる間にあんたと1回会っとくことらしいんや。」
せやから、これからよろしゅうな。
そう言って笑った、妖祓いの家系に生まれた彼女は……もう、私のもとへは来ない。「来ることができないように、」私がそう仕向けた。例え同じ時間を繰り返す事になっても、君の中に死の記憶が残らないように。
「その不死は、どこで効力を無くすんだ?まさか、永遠に繰り返すつもりではなかろう。妖を滅ぼすために、先代から受け継いだものであるなら。」
「あー……それなあ。なんか、殺してくれる人を決めて契約しなあかんらしいわ。普通は婚約者とかに頼むみたいなんやけどな。うちはあのクソ親父の言いなりになりたない言うて、もう婚約破棄してしもうたしのう。」
うーん、と彼女は首を捻った。それから、石段に腰掛ける私を見やって、「あ、」と小さく声をあげた。
「なあ、それもあんたがやってくれん?」
「…………え?」
困惑した。それはつまり、だって、そういうことだ。いづれ訪れる未来で、私は……
「だって、どうせ記憶を継ぐために会いに行かなあかんもん。ちょうどええやろ?」
妖を殺すために、彼女はその呪いを受けたはずなのに。それが家業であって、彼女にとっての不本意だったとしても……その解呪を同じ妖に頼むなんて。
わからなかった。だが、信頼されていることが、素直に嬉しかった。
嬉し、かったんだ。君が、私を選んでくれたことが。
「……君が、いいなら。」
過去の私はその日、彼女と契約を結んだ。そして、彼女は一回目の死をその身に受けた。私は、彼女に会うことがないよう、隠れ通した。彼女は2度目の死を受け、記憶を継ぐことなく、死の呪いのことも忘れることなった。
…………それでいい。私が君を殺す未来が消えずとも、その未来の記憶が、永遠に彼女に訪れることはないのだから。
人間に顕著な精神作用を総合的に捉えた称。
対象に触発され、知覚、感情、理性、意志活動、喜怒哀楽、愛憎、嫉妬となって現れ、その働きの有無が、人間とほかの動物とを区別するものととらえる。
古くは、心臓がこれを司るものとされた。
(新明解 国語辞典より 「こころ」)
それは果たして、自分に存在しているのだろうか。
「ほら、とっとと行くぞ。こんなとこにいたら、ニンゲンに捕まっちまう。」
「…………。」
自分の手を引く、ひどくあたたかい体温。感知機能によって脳に伝わるそれは、鉄と電子盤で組み立てられた自らの心臓に、届いているだろうか。
「……なあ、」
手を握り返し、荒廃した世界を背景にこちらを振り返る彼を見やる。Android hunter。その名を背に負っているはずのその人は、まだ俺の手を握っている。
「なんだ?」
続かない言葉に、首を傾げられた。ああ、きっと、そのココロには今「困惑」という名があるのだろう。俺にはそれが分からない。分からない 、から。
「…………いや、なんでもない。」
「……なんだそれ。」
彼は笑った。俺も、笑うことにする。
ココロを持たないロボットを守って、一体何になるのだ、と。この世界でアンドロイドは敵であるのに、なぜ共に逃げようとしているのか、と。
……聞いたとて理解できないのだから。
だから、今日もまた自分を欺いて、彼の手を握り返すのだ。