〝さよならという前に〟
何をしようか。
私は〝さよなら〟と言う事が少ない。
別れを告げることがほとんど無い。
〝またね〟ならよく使う。
〝さようなら〟は
〝左様ですか、それならば〟
という。もともとは接続詞である。
それが〝ごきげんよう〟、〝のちほど〟
と言った別れの表現と結びついた形で用いられたと言われている。
これは私の独断と偏見だが、
〝またね〟
と言うと、その人にまた会う約束をしている気がする。
〝さようなら〟
これは私の中では関係を切る言葉に聞こえる。
だから私はこの言葉を使うとしたら
関係を切る時だろう。
しかしまあ、
私は人の断捨離はよくするもので
その言葉を言う前に切るから
その言葉を使うことがないな
今、ふとそう思った。
久しぶりの投稿となった。
〝空模様〟が今日のテーマだそうだ。
私は空を見るのが好きだ。
時に青く、時に赤く。
季節、時間で違う空が好きだ。
小さな頃は雲で何かに例えるのが好きだった。
〝龍〟、〝犬〟、〝大きな魚〟
などなど。
夏の今はより一層に青く澄み渡る空が見える。
北向きの部屋で空を眺めては、アイスを食べていた昔の記憶。
とある昔の話でもしようか。
その日はとても暑かった。
その家は2階の1部屋で、
窓を開けて涼し気な風が入っていった。
その風は優しく私を撫でて通り過ぎていく。
私は好きな音楽をぽつりぽつりと呟くように口にする。
〝この世から存在ごと消えてしまいたい〟
そう願いながら。
そう思った理由も原因すら誰も知らない。
死にたいかと問われれば別に死にたいとも思えず、
生きたいかと聞かれてしまえば何も答えれず。
そんな淀んだ心は次第に私を蝕み、
何も出来ずにただ呼吸するだけの生き物と化した。
親に帰ってこないかと言われ、帰り支度する余裕もなく、
泣いて帰れなかったことを謝罪する。
親も只事ではないと思い、車で5時間。
私の住むアパートにきた。
久しぶりに外に出た時には空や外の光景なんか覚えておらず、
治療して自分の意思でやっとの思いで外に出られても足元しか見れず、
常に下を向いて歩いていた。
今は前を向いて歩いて行ける。
今日の空も青かった。
〝病室〟が今日のテーマだという。
私ほど病室に色々な思い入れがある人もそうそうなかろう。
昔はよく病室に居た。
隣に居るのは父でも母でもなく点滴だった。
繰り返し流れるアニメーション映画をみて、
飽きたら点滴から落ちる雫を数えて、
疲れて眠る。
そんな生活だった。
私が通っていたのはクリニックだ。
つまり病床はあれど入院できないのだ。
毎週水曜日~金曜日のどこかしらで朝から点滴を打って、
夕方までずーっと1人だ。
もちろん、母はそばに居た。
母よりも近くに居たのが点滴だった。
小学校に上がる前にクリニックでは手に負えなくなり市立病院へ転院した。
良い悪いを繰り返し、
診察室の隣のベッドで横たわる日もあった。
小学5年で病気は急に牙をむき出した。
〝死ぬ〟ということを本気で覚悟した。
私は気管支喘息だ。
喘息持ちの人ならばわかって頂けるだろう。
あの吸っても吸っても酸素が回らないアレが永久になるのだ。
そう、
つまり酸素が吸えないのだ。
呼吸困難とはそうなのだ。
吸っているのに来ない。
息したいのに息が出来ない。
陸に居るのに溺れている。
そんな感覚だ。
そして、レントゲン撮って血相変えた看護師さんは
【今すぐ入院してください!手続きや準備は後でいいから、もう今すぐ入院してください!】
と声高に叫ぶように言った。
肺のレントゲン写真は撮ることはあってもそうそう見ないのかもしれない。
私はその時、肺が白いモヤモヤで覆われていたのだ。
肺が認識出来ないくらいの白い影だ。
それはそれは只事ではない。
通されたのは6人部屋のドアに近いベッド。
私に点滴した看護師さんが祖父と仕事をしたことがあると言っていた。
私の祖父はその市立病院の創立メンバーかつ副院長だった。
若い男性の看護師さんは驚いていた。
「おじいちゃん有名人?」
私は聞かされた話をした。
「おじいちゃんはお医者さんだった。」
するとその看護師さんが大層、祖父を尊敬していたようで
「おじいちゃんはお偉い先生だったんだよ。」
と言っていた。
その通された病室は私以外居なかった。
母はテレフォンカードのようなものを買ってきた。
*今どきの子はテレフォンカードすら知らないかもしれないが。
そのテレフォンカードのようなものを挿入口にさすと、テレビと冷蔵庫が動いた。
それからしばらくして私より2歳ほど下の男の子が入院してきた。
その子は何度か入退院を繰り返してるようだった。
その後に齢2歳ほどの小さな女の子がやってきた。
とても人懐っこい性格で、私をすんなり受け入れてくれたのだ。
日中は小さな遊び相手と遊んで、
夜は病気が牙を剥く。
小さな遊び相手の母親が私の母に言った。
【本当につらそうな咳をしてて……苦しそうで……】
つらそうでも苦しそうでもない。
牙を剥く発作が来る度に、夜を越せないと思っていたのだ。
白い壁に白い天井、
隣は点滴。
そんな病室は懐かしくはあるものの
二度と帰りたくは無い。
昨日は初めて投稿を休んだ。
まあ、私の投稿なんてただのひとりごとようなもの。
待つ人なんて少なかろう。
今日のテーマは〝澄んだ瞳〟だと言う。
人は歳を重ねるごとに色眼鏡をつけ始める。
偏見をしたり、物事に過剰になったり。
純粋無垢な人間はどれほどいるのだろう。
この世に生まれ、親・友人・恋人などと過ごす中で色々な考え方の相違で苦しむことがある。
私のこの投稿を貴方は初めてだろうか。
それとも割と読んでくれている人なのだろうか。
私は鬱だ。
それ自体が既に色眼鏡で見られる対象だ。
【心が弱い】【甘え】【やれば出来る】【頑張れ】
私の父も例に漏れず、こういうことを平気で言ってきた。
私はもう限界だった。だから言った。
【これ以上、死ぬ気で頑張らなければならないのなら、私は死を選ぶ】
そう言った時の両親の顔はかなり引きつっていた。
そして、父は本で理解した気になっている。
私が歌をうたえば
【鬱だからこんな歌が好きなんだ。】
私が本を読めば
【鬱だからこんな本を読むんだ。】
そう言ってくる。
私はその【鬱だから】が嫌いだ。
私は私だ。
鬱だろうか鬱でなかろうが。
私は1人しか居ない。
その私が好きな物を病気だからと決めつける。
それの思考がどんなに愚劣極まりないか。
〝澄んだ瞳〟を持つ純粋無垢で優しい人は
誰も否定せずに、優しく接してくれるのだろう。
嗚呼、これも偏見なのだろうか。
〝祭り〟というワードが今日のテーマだ。
私自身が人混みを嫌う
暑い気温が大の苦手
この2つが合わさって
祭りというものは基本的に思い入れがない。
夏祭りといえば
祭囃子に屋台だ。
出店が並び、浴衣を来た人々が行き交う。
わたあめが好きだった記憶はある。
あと、りんご飴は夏祭りで買ってもらった記憶がある。
祭りというものを連想させる時はだいたい夏祭りだ。
中学~大学生ならば文化祭というものあるな。
あれも祭りというものだろう?
私は中学1年の時に3.11 通称、東日本大震災で被災した身だ。
海が近いところでは無かったから津波は無かったものの地震よる影響が顕著に出ていた。
通っていた中学校の校舎が全壊したのだ。
二学期から仮設校舎だったが、
一学期は朝6時半に中学の駐輪場に自転車を止め、バスに乗り、他校へ行く。
学年ごとに違う中学の空き教室を借りて過ごしていた。
それでも学校は行事をなんとかして開催した。
合唱コンクールと文化祭が同日開催だったので、少し大変だったが。
私の学年は毎年、劇をしていた。
私の学年は6クラス。劇に出れるのは他の出し物に参加しない生徒のみ。
私は弦楽部で演奏するので客席から見た事しかないが。
この劇がなんとも面白いとウケていた。
1年は竹取物語。
しかし、翁が光を帯びた竹を気味悪がって火をつける。
そしたら竹の中の姫がビックリして出てくる。
「なにすんだ!てめー!家燃やしたんだから、お前が養え!」
とかなんとか言い、翁の暮らす家に居候する。
2年時は白雪姫。
ただし、この白雪姫、性格に難アリ。
「どうして私に彼氏が出来ないの!?」
と問えば小人の1人が
「そんな性格だからじゃね?」
と辛辣なコメントをする。
早く恋人が欲しい姫は家を飛び出す。
小人の1人が
「そもそも白雪姫ってどんな話だっけ」
とメタイ発言をする。
何故か一緒にいた魔法の鏡がご丁寧に説明する。
カオスすぎる。
3年時は浦島太郎
内容は分からない。
理由は私は弦楽部だと先に言っただろう。
そう、この3年時だけ、弦楽部がチューニング(音合わせ)してる時にやっていたのだ。
高校の文化祭は、高校では美術部だったので
ラミネート加工した栞をプレゼント+その年に描いた絵を展示した。
他の部活を見たりまわったりしたのだろうが、あまり記憶ない。
一般OKの文化祭より生徒のみの文化祭が楽しかったせいだろう。
3日くらい文化祭があったのだ。
クラスの出し物とかカラオケ大会とかなんとかそんな感じのことをした。
けれどやっぱり私に祭りというものは記憶に薄いのだ。