資料を渡して怒られた、その夜は、月を見上げて酒をあおる。どうでもいいことをこうして酒で流せるのはいいことだ。
仕事なんて人生のついでに過ぎない。仕事が誰よりできたところで自分の人生を謳歌できなきゃ意味ないだろう。
だから小さなミスなんて気にする必要はない。それにそんな事があった夜だからこそ、こうして酒を飲める喜びを感じられるじゃないか。
思うに、どうして自分がそんなに言われなきゃいけないのか甚だ疑問なのだ。そもそも書類の確認は上司の仕事だ。人間ミスなんて誰にもあるのだし、怒られるのは話が違うのでは。それを直すのが上司の役割だろう。
それにこの書類だって自主的に渡したものだっていうのに。それを怒鳴られ嫌味を言われ、散々だ。
まあ別に、気にしているわけじゃない。買ってきたツマミもうまい。ああ美味い。
人生はたっぷり幸せだ。こんなつまらないたった1日の失敗なんかで不幸を気取りたくなんてない。
夜空を見上げて宇宙を思う。宇宙は広く、人の悩みなんてちっぽけな、ほど、……うう。
テーマ:やるせない気持ち
タイトル:消えぬ棘
夢が叶った。川の中で新たに目を覚まし、それを実感する。体を動かせば光の差し込む美しい水中を自由に移動できる。両脇を通り過ぎていく同僚達は流れに従って下って行った。
私は魚になったのだ。
嫌なことから逃げるために魚になったのだ。
ここには私が嫌いなものは何もない。照らされた新緑の藻にまあるい石、それらは私の心を高らかに躍らせてくれた。
水中をたゆたいながら私は自由を謳歌する。水流の音だけが心地よい。
しかしそれは不意に雑音によって掻き消された。人の声、ああ忌まわしき人の声だ。
私は逃げるように水流に沿って前へ進む。煩わしいノイズから逃げる、ああ、逃げるのだ。かつてそれを悪と謗られたことを思い出して、記憶を振り払うように泳ぎ続けてる。
もっと先だ、人の居ない場所がいい。もう誰の声も聞きたくないんだ。
私が悪い、甘えている、何もできない、必要ない、価値がない。耳の蛸は海に流してしまおう。
声なんて誰にも届かない。陸じゃ声なんてあっても、誰も聞いてはくれない。声を奪われずとも、誰も、誰にも。
ああ、ならいっそ、このまま私は泡になろう。
はるか先の、その先へ。
海へ、
テーマ:海へ
タイトル:
憧れた人魚姫のような人生は、呪いだけが眼の前に
何でも入るカバンを手に入れた。
文字通り何でも入るカバンだ。何をどれだけ詰めようと入るし、重さも変わらない。手提げかばんほどしかないので実用性はバッチリ。
豚の刺繍がややダサいが、どこに行くにもこれがあれば平気だろう。あと中古らしいのでやや古ぼけているのが気になるくらいだろうか。
取り出す時もすごく簡単だ。取りたいものを思いながら手を突っ込むだけでいい。
しかし、なんでもは誇張じゃないかって、妹に言われた。
そう思われるのは癪なので、これを引っ越しに使ってみようと思う。
まずは服。それぞれ10着以上あるコートやシャツ、ズボンに、と詰め込んでみたがまだ入る。
続いてテレビ。入るとも。
タンスに机、もちろん入るとも。
あまりにも気持ちよく入るものなので気分が良くなってきた。
そんな折にドアホンが鳴る。声から妹であることが分かると、ふと悪戯心が湧いてきた。
そうだと思いついて、鞄の中に自分がはいる。ここから飛び出して驚かせてやろうと思って。
「ちょっと、もう引っ越し終わったの?」
妹の声が聞こえてくる。にししと笑い声が漏れそうに鳴るのをこらえてじっと底で待ち続けた。
「なにこれ、鞄? だっさ。……なんにも入ってないし」
妹はカバンを裏返す。そこは裏地だけが広がっていて、ボロボロだった。裏返した拍子に左右がやや裂けてしまったが、彼女は気にも止めず、探し人を探すのであった。
テーマ:裏返し
タイトル:裏返しても荷物を溢さない、安心設計です!
世界一賢いを自称する奇妙なカラスがいた。
人同様に話し、思考し、人をからかうのが大好きなカラスはいつものように公園で菓子パンを食べる中年男性からそれを拝借していた。
無気力な男は昼になるとここに来て人気のないベンチに腰掛けるとこのカラスに餌をやるものだから、ある日を境に話すせることを暴露する中になるまでそう時間はかからなかった。
ある日の折、男は徐ろに大きなため息を吐いた。人の不幸は蜜の味、カラスはケタケタと笑いながら不幸話を笑い飛ばしてやろうとした。
「君と同じになりたい」
ところがどっこい、男が溢したのはこれまた奇天烈な夢であった。
「カラスに? 冗談だろ、オッサン」
カラスは野生の苦悩を熱烈に彼に伝えてきたものだから、いまいち彼の言葉を理解できなかった。
カラスは知っている。人間が生きるのに戦う必要なんてないことを。毎秒毎に死が過る瞬間も、震えて眠れぬ夜も、朦朧とする昼も、なにも。
「自由になりたいんだ。翼が生えて、どこまでも飛んで」
カラスは空いた口が塞がらなかった。
飛んでどこに行くのだろう。この空に自由なんてない、あるのはただ寒いだけの場所だ。
夢見る男は微笑み語るが、賢いカラスは、何も語らなかった。つくづく幸せな夢の泡を割る趣味はこの黒い鳥は持ち合わせていないのである。
テーマ:鳥のように
タイトル:賢人の見る景色
涼しげな空が広がっている。茜色の空、散りゆく銀杏の木、真っ赤な絨毯で敷き詰められた並木道。
僕の隣に君は歩き、無言のまま幾ばくの時が経っていた。
「もうお別れね」
隣で恋人が寂しそうに笑う。僕はそれを否定したかったが、返す言葉が思い当たらない。
少し前から感づいていた。僕等の間に吹く風がどんどん冷たくなっていることに。
決めては君の格好だった。普段から見せていた僕の好きな服が様変わりしていくのを見て見ぬふりをしていた。
「ごめんなさい、もう私、限界だわ」
君の潤む瞳に僕は微笑み返す。心の内を隠すには笑顔が一番だ。
「もうこうして歩くこともなくなるんだね」
僕の言葉に彼女は俯く。それを同意と取って、僕も本心を口にした。
「僕もだ。もう、ここに居たくないくらいなんだよ」
彼女は一瞬目を見開いて、くすっと笑った。
「じゃあ、もう終わろうよ」
「……ああ」
名残惜しく、この並木道を進む。もうこうして歩くことなんてないのだろうか。
僕は彼女と手を繋ぐとともに体温を分け合った。
「こうすればせめて寒くない、かなぁ……」
「もう。だからもう少し着込んできたらって言ったのに!」
君の言う通りのすればよかったと後ろ髪を掻きながら、僕は心の内でため息をつく。
昨日までちょちょ暑いくらいだったのに。
秋よ、サヨナラを言う前に、そろそろお暇するって言えないものだろうか。
テーマ:サヨナラを言う前に
タイトル:あまりにも 寒くなるのが 早すぎる