黒尾 福

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8/19/2023, 12:33:28 AM



 鏡の中の私が微笑んでいる。
 この鏡を見るたびに思い出せる。私はとても幸福な人間なのだと。
 怪しい商人が売ってくれた鏡はたしかに本物だった。それがあるだけで私はずっと笑顔でいられた。
 だからもう他の鏡は不要になった。全ての鏡を叩き割ると実に清々しい開放感が私の淀んだ内側に駆け抜けていくのを感じることができた。
 飛び込むようにベットに転がり込むと私は速やかに寝息を立てる。風呂にも入っていないし、夕食をとってもいないがもう深夜だ。社会人として規則の悪い食事は避けたい。
 しかしふと、先程置いた帰宅したばかりで片付けもされていないバックのことを思い出して身を起こす。明日の準備だけはしておかないと早朝の会議に間に合わない。
 私は体を引きずって鏡の横を素通りした。
 鏡の中で笑顔の私が、私をじっと見つめていることを、まだ私は知らない。


テーマ:鏡
タイトル:笑顔の絶えない生活

8/18/2023, 3:26:25 AM



 いい加減に断捨離という言葉を覚えたほうがいいだろう、自分にそう言い聞かせた。そうでなければ眼の前の景色はいつまで経ってもゴミ屋敷だ。せめて溜まった書類だけでも片付けないか。
 そう思い立った大晦日の大掃除、大量に溜まった請求書やらなんやらを整理していると、引き出しの底からぼろぼろになった手紙を見つけた。
 ピンクのチェック模様の封筒をキラキラしたシールで封してある。とはいえ風化したシールはもはやその役割を果たさず、封筒は常に口を開いているのだが。
 きっと小さな頃、誰かに貰ったものだろう。今となっては不要のそれを丸めてるとゴミ箱に捨てようとして、ふと湧いた好奇心にかられて止める。
 くしゃくしゃになった紙を再び開き、中に入った1通の手紙を開く。読みづらいがラブレターのようだった。
 拙い字で綴られた告白に微笑んでしまう。思えばこんな頃もあったのではないだろうか。
 掠れた宛名は送り主を教えてくれなかった。すっかり昔のことだから誰にもらったのかもわからず、頭を悩ませる。
 今声をかけてもらったらきっと断ることもないだろうに、そんな空想は叶うはずのない現実だ。この熱烈な恋を告げてくれた勇気ある少女は、きっともう結婚して幸せに暮らしているに違いない。そう思ってないとやってられない。
 もう1度手紙を丸めると、捨てようとして、いやしかしと再び戻す。
 もしこの子が再び声をかけてきてくれたらどうだろう、あのときのラブレターの話をされた時、さっとこれを手渡せたら。
 きっとその子は大喜びするし、自分も嬉しいに決まってる。まるでドラマ、運命の出会いだ。
 そうして2人は結ばれて、ハッピーエンドだ。歌詞の理解ができない洋楽を流しながら結婚式場でキスをするシーンまで想像すると、その手紙はキューピットのように思えてきた。
 そうだ、たった1枚の紙なのだ。置いたままでもかさばりはしないだろう。
 再び引き出しの中に手紙を押し込むと再び片付けを再開する。個人情報の載るものをシュレッダーに掛けながら、目につくものを眺めていると、次は学生時代にとった写真が目に入る。乱雑に散らばったそれをかき集めて眺めると薄っすらとその時の記憶が蘇ってきた。
 この写真はデータでパソコンに保存してある。わざわざ印刷した意味を思い出せないままこれも捨てようとして、いやまたなにかに使うかもと首を横に振るのだ。
 同級生が急に訪れてこれを見せれば喜ぶかもしれない、なんて考えて、それも引き出しへと押し込まれる。
 あれもこの後使うかも、これも必要になるかも。そうやっているうちに片付けは終わったというのに、眼の前はゴミ屋敷から何も変わっていなかった。
 この世には捨てられないものが多すぎる。まったく、もう。



テーマ:いつまでたっても捨てられないもの
タイトル:儚き希望