真岡 入雲

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7/21/2024, 3:57:22 AM


カーテンの隙間から差し込む光の所為で、心の深いところで微睡んでいた意識が強制的に浮上させられた。
ベッドサイドに置いていたスマホを探し出し、電源ボタンを軽く押し込むとぼんやりとした灯りと共に、【04:13】と数字が表示された。

朝と呼ぶには早すぎる時間。
自身の身体に乗っている腕をゆっくりと下ろし、同じベッドに横たわる人間の眠りを妨げないように静かにベッドを降りた。
そっとカーテンの隙間を覗く。
まだ眠っているはずの街の通りを一匹の猫が歩いている。
少し歩いては立ち止まって辺りを見回し、暫し佇んでまた歩き出す。
その後ろ姿は、何か大切なものを探しているような、ただ自分のナワバリのパトロールをしているだけのような、又は何も考えていないような、それでいて何処か誇らしげに見えるのは、彼か彼女が生きるということに精一杯だからだろうか。
野良猫であるなら、彼か彼女には名前はないのだろう。
それでも、猫として、個として正々堂々と生きている。
そんな姿が少しだけ、ほんの少しだけ羨ましいと思った。

乾いた喉を潤すため部屋を出て、キッチンに向かう。
一人暮らしには大きい冷蔵庫を開け、中からよく冷えた水を取り出す。
青い硝子のコップに注いだ水は、薄暗い部屋の中でもキラキラと輝いていた。

関係を持つようになって、既に5年の月日が経った。
3年付き合った男に、『自分より稼ぎのいい女はプライドが許さない』的な事を言われ別れた直後、たまたま入ったBARで会った男。
最初は成り行きで、誰でもよかった訳では無いが意気投合したのが一番の理由。
それから、時折BARで会って一緒に飲んで、ホテルに行って一緒に朝を迎えて。
半年も経たずに、自分の部屋で朝を迎えるようになった。

この関係が、倫理に反している事は言われなくてもわかっていた。
彼は決して私の名前を呼ばない。
会えるのは彼から連絡があった時だけ。

「⋯⋯⋯泥棒猫、かぁ」


3日前、仕事帰りに駅の改札を出たところで声をかけられた。
私を呼び止めたのは女子高生、しかも有名な進学校の制服を着ていた。
取り敢えず、近くの行きつけの店に入ることにした。
残業をして、お腹も空いていたし。
個室に通して貰い、料理と飲み物を注文する。
少女曰く、父親と別れて欲しい、と。
その父親というのが誰なのかは言われずともわかっている。
理由を聞けば一言、『泥棒猫』と呟かれた。
まぁ、自覚はあったのでどうということは無く、別れるのも続けるのも自分達が決めることだと言えば彼女は俯いた。
ぽたぽたと零れ落ちる涙に、心が痛む。

でも、ごめんなさい、貴女にはもっと辛い現実が待っている。

彼に私以外の女がいることを知ったのは、関係を持って一年経った頃。
それも1人2人では無い。
けれど同じ数だけ、彼の妻にも男がいる。

1度だけ、とても酔っていた彼が話してくれた奥さんとの馴れ初め。
どちらかと言えば、彼の方が奥さんを愛している。
そして奥さんはそれを承知しているからこそ、何も心配することなく遊んでいる。
そしてもうひとつの重大な事実は、彼が子供を作れない身体であること。
つまりこの少女、そして今、小学二年生の息子くんは遺伝子的には彼の子供では無いということ。

彼は、自由奔放な奥さんが好きなのだと言う。
ただ奥さんの愛は常に彼に向いているわけではない。
それでも夫婦という形で居られるのならば、奥さんのすることに口は出さないと約束し結婚したのだと。
彼が私や他の女を抱くのは、奥さんの代わり。
だからそこに私たちに対する愛情はない。
あるのは奥さんへの愛情だけ。

それに気付くのに2年かかった。

もう、その頃には戻れない所まで私の恋心は育ってしまっていた。
でもそれも、そろそろ終わりにしよう。
私もいい歳になった。
いつまでもアリもしない未来にしがみついていられない。

彼女は知っているのだろう。
自分の両親が世間一般とは異なるということを。
彼女はそれで納得して今日まで来たに違いない。
ただ、自分は良くても弟の事を思えば、両親には普通の親になって欲しいのだろう。
ただ、それは叶えるのがとても難しい願いだろう。

別れ際、私は彼女に連絡先を教えた。自宅の住所も。
それをどう使うかはあなたの自由よ、と言って。
狡い大人で、ごめんなさい。
私に出来るのは、こんなことくらいだから。
でもこれには感謝の意味もある。
私に決心をさせてくれた。


コップの水を飲み干して、私は再びベッドに潜り込む。
すると、もぞもぞと動いて彼が目を開けた。

「 」

酷い人、それは私の名前じゃないわ。
酷く優しい声で、私ではない女の名前を呼ぶ。
酷い大人、成人もしていない子供に、あんな涙を流させて。
次に目が覚めた時、私は彼に言った。

「ねぇ、もう、終わりにしましょう?」

顔は見れなかった。
見れば決心が鈍るから。

「⋯⋯⋯わかった」

たった一言を残し、昨夜脱いだ服を着て貴方は部屋を出る。
酷い人、理由すら聞いてくれないの?

『待って』

言いそうになる自分の口に、手で蓋をする。
カチャ、とドアが開き、朝の清々しい空気が部屋の中に流れ込んできた。
代わりにあなたの存在が私の部屋から去っていく。
静かに閉まったドアは、小さくカチリと音を鳴らしまた元のように外とこの部屋を隔てた。

「⋯⋯ふふっ」

涙と共に笑いが込み上げる。
あの人は最期まで私の名前を呼ぶことはなかった。


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(´-ι_-`) 少女、頑張れよ。


7/20/2024, 1:41:17 AM


不思議とわかる

例えば走行中の電車の中
出入口のガラスの向こう側
友達と笑い会いながら
通り過ぎていく貴方

例えば授業中
校庭を周回している中
遅れ始めた友達の隣で
ペースを合わせて
フォローしながら
並走する貴方

例えば廊下
ずっと向こう
校舎の端と端
友達と肩を組んで
はにかんだ笑みをみせる貴方

例えば雨の昇降口
ごった返す生徒たちの中
土砂降りの空を見上げ
大きなため息をひとつ
走り出そうとした貴方の隣に
傘を持つ友達が一人
顔を見合せて
二人で傘をさして駆けていく

例えば街中
いつもと違う服装
友達と三人で歩く後ろ姿
店先で鞄を手に取り
持ち上げてみたり
肩にかけてみたりしている友達に
別の鞄をオススメする貴方

どうしてだろう
何故だろう
遠くにいても
人混みの中にいても
貴方だけはすぐわかる
私の目は
いつもあなたを映し出す

例えば真夏の夜
夜空に大輪の花が咲く
お祭りの日の神社の境内
私の親友と手を繋ぎ
友達には見せない優しい笑顔で
楽しそうに屋台を廻る貴方

どうしてだろう
何故だろう
貴方と会えて嬉しいはずなのに
親友と会えて楽しいはずなのに
私の心は複雑で
何だか上手く呼吸ができない

私の視線の先にはいつも
友達と笑う貴方がいて
貴方の視線の先には
私の隣で笑う親友がいて

大丈夫
邪魔なんて絶対にしない
ただチョット、苦しいだけ
大丈夫
ずっと前から知っていたよ
ただほんの少しだけ
自分に都合のいい
夢を見てしまっていた

でも、もう暫くは⋯
私の視線の先に
貴方がいることを許して欲しい


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(´-ι_-`) お話にするには、時間が足りぬ⋯。

7/18/2024, 8:24:19 PM


その日は委員会の仕事が長引いて、教室に戻る頃には夕日も沈みかけていた。
オレンジ色に染まる廊下を、今から帰ると家に着く頃は真っ暗だな、とか考えながら歩いていた。


図書委員が不人気なのは、当番の日の下校が遅くなるからだ。
それでもいつもはもう少し早い時間に帰ることが出来るのだが、今日は違った。
放課後の図書室開放時間も残り5分となった時、3人の生徒が慌ただしく駆け込んできた。
彼らはバタバタと図書室の奥の方へ入って行くと、数冊の本を持って貸し出しカウンターに来た。

「良かった、間に合った」
「ギリギリの時間でゴメンね。どうしても今日、必要だったんだ」
「図書委員の仕事も大変だよね」

と、生徒会の面々が貸し出し処理を行っている私に声をかける。
私は作り笑顔を浮かべながら適当に相槌を入れつつ、手元は慣れた処理を行っていた。
秋に行われる学祭の計画準備に必要とか何とかで、過去の学祭資料が必要だったと話している彼らを他所に、ペアの当番の子が私に挨拶をして図書室を後にした。

「あれ?あの子先に帰っちゃうの?」
「はい。バスの時間があるので。この時間のを逃すと1時間待ちか、バスを降りて30分以上歩く羽目になるそうなので」
「あぁ、それは大変だね。君は大丈夫なのか?」
「自転車なので平気です」

片道9分、それが私の通学時間だ。
実際には登校5分、下校13分で、学校よりも高い場所に建っている我が家への帰り道は緩やかな登り坂が続く。
入学した当初は下校に20分近くかかっていたので、これでも短縮されている。
おかげで太腿が若干発達したように思う、今日この頃。

「そうなんだね、良かった。じゃぁ、気をつけて帰ってね」
「はい。ありがとうございます」

彼らを見送って一息つく。
後は残っている人がいないか、忘れ物がないか、窓の戸締り、棚に返し忘れている本はないか等の最終確認を行って、放課後図書の仕事は終了となる、はずだった。
おそらく、あまり借りる人が無い棚でギュウギュウに詰められていた場所の本が、ごっそりと抜き取られた結果、残された本がバランスを崩し流れ落ちたという所だろう。

グラウンドが見える面の窓の鍵が閉まっているのを確認し、遮光カーテンを閉めた瞬間、バサバサバサと音がした。
少しドキドキしながら音のした方に向かうと、埃っぽいような、黴臭いような感じがし、狭い通路に本が重なり合うように落ちていた。
左右の棚合わせて5段分、直すのに1時間弱の時間を要した。


「⋯⋯⋯」

どうしよう。

それが最初に思ったこと。
夕焼け色に染まった教室の窓際の後ろから2番目、私の席に人影があった。
そっと近付くと、すーすーと規則正しい寝息が聞こえてくる。
腕を枕にして、机に突っ伏して寝るその様子は、日中の彼からは想像できない。
色素の薄い髪は天然だと、入学式の翌日、校門で生活指導の先生に捕まった彼が言っているのを見たのが最初。
その後、同じクラスだけど会話らしい会話を交わすことなく今日まで過ごしている。
見た目がそうさせるのかどうか、彼の周りには活発な生徒が集まってくる。
中心にいるのはいつも彼で、彼の周辺はいつも楽しそうだ。
そんな彼が何故私の机で寝ているのかわからない。

あ、睫毛長いなぁ。

彼の切長の目を縁取るまつ毛も髪の毛同様色素が薄い。
クラスの女の子達が話しているのを聞いた限りでは、北欧の方の血が混じっているとか何とか。
だから、という訳ではないが肌も白く彫りも深くバランスの取れた顔立ちをしている。
そして体型も、手足が長く顔も小さいのでモデルでもやっているんじゃないかと噂されている。

あ、ホクロだ。

耳の後ろ、生え際との境目あたりに、小さいホクロがある。
それも等間隔に3つ並んで。
何だろう、ちょっと楽しいかも。
人の顔をこれほど間近で観察できることはまずないから、と、好奇心が勝ってしまったのがいけなかった。


すごいなぁ、肌綺麗。
ニキビとか全然見当たらない。
へぇ、眉毛も色、薄いんだ。
ほぅ、やっぱり瞳の色も薄いなぁ。
あれ?少しブルーグレー入ってるのかな?
あれ?肌の色がほんのり赤くなってる?
夕焼けのせい?

「⋯⋯⋯⋯あんまり近くで見られると、流石に恥ずかしいんだけど」
「⋯⋯⋯へっ?」

むくりと起き上がった彼に対して、私は一歩後ずさった。

「これ、君のだよね?」

そう言った彼の手に乗せられていたのは、私の自転車の鍵。
父がくれたとある市のマスコットキャラクターのキーホルダーが着いている。
世間的には気持ち悪いと言われてはいるが、私個人としてはこの気持ち悪さがたまらない。
ただ一般的に、賛同を得るのが難しいことも知っている。

「そ、デス」

突然の出来事に動揺しまくりの私は、そう口にするのが精一杯で、そんな私を見て、彼は肩で笑っている。

「駐輪場で拾ったんだ。こいつが着いてたから君のだと思ったんだけど、間違いじゃなくて良かった」

私が無言で首を縦に振ると、彼は自転車の鍵を差し出した。
私が鍵を受け取ると。立ち上がって大きく伸びをする。

「アリガト、ございます」

首をコキコキと鳴らして、彼は廊下側の1番後ろの自分の席へと歩き出す。

「委員会の仕事だって聞いてさ、少ししたら戻って来るかなって思って待ってたら、いつの間にか寝てた」
「あ、ハイ」
「まぁ、さすがに目が覚めた時に、顔をジッと見られてたのには驚いたけど」
「え、あ、ご、ゴメンなさい。つい⋯」

綺麗だったから

の、言葉は呑み込んだ。

「いいよ、俺も君の席で寝ちゃってたしね。じゃぁ、お先に」
「あ、はい、気を付けて」

彼が挙げた右手に返すように、私も手を挙げてヒラヒラと振る。
そして手の中の自転車の鍵をじっと見る。
この皆に気持ち悪いと言われるキャラクターが着いている鍵のおかげで、彼と話すことが出来た。
これはやはり、私にとって幸運のマスコットなのではないだろうか?

「あ、そうだ」
「ひゃいっ」

教室の出入口から身体半分だけ覗かせた彼が、家の鍵らしきものに着いているキーホルダーを振ってみせる。
そこには私のキーホルダーと同じものが着いていた。

「俺もこいつ好きだよ。でも、皆には内緒な?」

そう言って、彼は去っていった。
パタパタと廊下を走る靴音を残して。
再度手の中の鍵を見つめる。

「内緒⋯⋯」

同士がいた嬉しさと、彼がこのマスコットを好きな事を私だけが知っているという優越感で、その日私は下校タイム10分と言う記録を打ち立てた。
まぁ、次の日筋肉痛で苦しむ事にはなったんだけどね。



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(´-ι_-`) 甘酸っぱいのも、スキです。

7/17/2024, 6:19:03 PM


「佳奈美、大丈夫か?」
「今のところは」
「待ってろ、すぐ連れて行ってやるからな」
「安全運転でお願い」
「おぅ、任せろ!」

父が3ヶ月前に買い換えたワンボックスカーの後部座席。
そこに仰向けになり、私は定期的にやってくる痛みと戦っていた。

視界は四角く切り取られた空しか見えず、時折、電線と電柱がちらちらと端を掠めて行く。
実家のある町はかつての賑わいを失い、過疎化の一途を辿っている。
一企業によってもたらされていた町の繁栄は、企業の業績悪化による規模縮小で陰りをみせ、私が子供の頃に比べ人口は半減した。
そうなれば、町は寂れる一方だ。
まず、働き口がない故に、若者が町から流出する。
若者が居なければ、子供の数も減る。
そうなると、小児科、産婦人科等の病院は経営が厳しくなる。
経営が成り立たなくなれば個人病院は閉院するし、大きい病院は対象の科がなくなる。
これとは別に医師不足の問題もあり、診察日が減ったり、紹介以外は受付けないなど対応が厳しくなってくる。
この町も例外ではなく、産婦人科に関しては3年前に個人病院の医師が高齢で引退してからは、高速を使って1時間弱かかる総合病院が最も近い産院となってしまった。

初めは里帰り出産を諦めようかとも思った。
病院まで1時間弱かかるのならば、自宅のある街の方が産院が近いし良いのではないかと思っていたけれど、タイミング悪く夫の遠方への赴任が決まってしまった。
夫も何度も会社に掛け合ったのだけど、大口の取引先からの指名となれば会社としては夫を行かせない訳には行かなかった。

「仕方ないよね」
「何か言ったか?痛いのか?」
「ううん、平気、何でもない。お父さんちゃんと前向いて運転してね」

どうするか夫と何日も相談した。
夫の両親は海外で生活しているため、頼ることは難しい。
また夫の兄妹も遠方に住んでおり、同様の状況。
私の実家は病院の問題を除けばサポート体制は良かった。
母は小学校の教員のため仕事を休むのは厳しいが、妹が実家住みで仕事の時間も融通が効くので心強い。
それに父も自営業のため、時間には融通が効く。
ということで、私は病院の問題はあるものの里帰り出産を決めた。
まぁ、誤算だったのは妹が3日前に階段から落ちて足首を捻挫してしまったことだろうか。
全治10日と診断され、今現在多少不便な生活を強いられている。

「あっ⋯⋯っ」
「痛いのか!」
「ちょっとだけ。大丈夫、まだ我慢できる」

病院まであと半分くらいだろうか。
私は下腹部の鈍痛から気を紛らわすため、空を眺めた。

『お父さん、アレ、東京タワー?』
『うん?アレは違うな。アレは鉄塔だ』
『じゃぁコレ?これが東京タワー?』

子供の頃の私はとても車に酔いやすく、車に乗ると同時に後部座席に横になって寝る準備をしていた。
何故なら寝るのが一番車に酔わないで済む方法だったから。
だから私の子供の頃の車の記憶は、窓から見る空や雲が殆どだ。

そしてその日はテレビで東京タワーの話題が出ていた。
だからか私は車の窓から鉄塔が見えると、『東京タワー?』と確認していた。
今ならわかる、東京から数百km離れたこの田舎に東京タワーがあるはずがない。
そもそもここは東京では無いのだから、東京タワーは無くて当たり前だ。
それでも仰向けになって、強制的に切り取られた視界の端に鉄塔が掠める度に聞いていた。

「とう、きょ、タワー?」
「違うぞー、アレは鉄塔だ。佳奈美、後ちょっとだ、頑張れ!」
「うぅぅ、痛ぁいっ」
「もう少しだ!アレも東京タワーじゃないぞー!」

初めて自分の目で東京タワーを観た時は凄く感動した。
鉄塔なんか相手にならないくらい、大きくて立派だったから。

「そうだ佳奈美。産まれてくる子が歩けるようになったら、皆で東京タワーに行くか!」
「なん、えっ、ど、して」
「今思い出した、佳奈美との約束」
「やく、そ、くぅぅっ、?」

眉間に深く皺を刻み、一際強い痛みを堪える。
痛みの間隔が徐々に狭くなってきているのは気のせいではないはず。

『お父さん、東京タワー見たいー!東京タワーに行こう!』
『東京タワーは遠いなぁ』
『東京タワー、みーたーいーっ』
『うーん、じゃぁ、佳奈美がもう少し大きくなったら連れて行ってやる』
『本当?ヤッター!』

それは、遠い日の記憶。
遠すぎて自分の都合の良いように、改ざんされているかもしれない古い記憶。

「おと、さん。こん、ど、こそ、っぅ、やくそ、く、まもって、ね」
「おぅ、任せとけ!」

そこからの記憶は曖昧で断片的にしか残っていないけど、生まれてきた孫を抱き、ただでさえ皺だらけの顔を更に皺くちゃにして泣きながら笑っている父の姿と、母が手にしたスマホの画面の中で父と同じように泣きながら笑っている夫の姿が、最も新しい家族の記憶。



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(´-ι_-`) 東京タワー、スキです。

7/17/2024, 4:35:02 AM


「で、俺は何でせっかくの連休にお前と二人でグランピングなんてさせられてるんだ?」
「⋯⋯キャンセル料が勿体なかったからだなぁ。当日キャンセルは100%なんだよ」

三連休の初日、天気はこれでもか、という程の晴天で絶好の行楽日和だった。
午前中に家を出て、途中、親友の梶原を拾って高速を走ること2時間弱。
予約していたイタリアンレストランで少し遅い昼食をとり、辿り着いたのがここ。
雑誌で特集が組まれるほど評判もよく人気があって、半年前でも予約が難しいと言われるグランピング施設。
去年の年末に運良くこの三連休に予約が取れて、半年以上かけて色々と準備をしてきた。

「あのな、そういう事じゃなくて⋯⋯。はぁ、俺には理由を聞く権利があると思うんだが?」
「⋯⋯あぁ」

施設に着いて、取り敢えず温泉に入ってひと息ついた。
夕食は豪華なバーベキューを腹いっぱい食べ、再度温泉に入って身体の疲れを癒すとすっかり日も沈み、眼下には夜景が広がっている。
梶原は焼酎、俺はワインを片手に、テント外に備え付けられたソファに座りゆったりと時間を過ごしていた。

「夜中いきなり『明日11時頃迎えに行く。泊まりで旅行しよう』なんて、俺にだって予定ってもんが⋯」
「予定⋯」
「⋯⋯⋯ねぇよ、ハイ、すみません、見栄張りました。予定なんてこれっぽっちもありませんでしたぁ」

高校からの仲である梶原とは時折こうして二人で出かける。
いつもは予定の一週間前には連絡を入れてはいるけれど。
梶原は俗に言うニートってやつだ。日がな1日、いや一年中好きなことをして生きている。
本人曰く、一生遊んで暮らせるだけの金があるなら、あくせく働く必要は無いだろう?とのことで、都心から少し離れた場所のファミリーマンションを購入して、ひとりで生活している。
梶原は高校の頃からバイトに明け暮れていた。大学生の頃にはバイトで貯めた金を元に、投資を始め見る見るうちに元手を増やし、卒業する頃には一般サラリーマンの生涯年収の十数倍にあたる資産を保有していた。
もちろん今でも投資はしているが、資産の十分の一程度で長期のものに絞ってやっていると言っていた。
最近は陶芸にハマったらしく、近くに作業場を借りて黙々と器を作っているらしい。
その前はDIYに嵌り、家を1軒購入してひとりでリフォームし、売りに出していた。
凄いのはリフォーム時に、電気配線の工事をするのには資格が必要だ、とか言って、業者に依頼するのではなく、その資格を自分で取ってしまうところだ。
俺はいつも梶原のそういう所に憧れてしまう。

「別れたんだ、昨日」
「え?あの、ボンキュッボンの彼女と?」
「あぁ」
「⋯3年目、だったよな?この間指輪も買ったって言ってなかったか?」
「買った。給料3ヶ月分まではいかないけど」

俺は徐ろに上着のポケットに手を突っ込み、手のひらに収まる小さなラッピングされた箱を取り出した。
白と青の2色のリボンがかけられた白い箱を、梶原に手渡す。
その中には少し大きめのダイヤモンドとサファイアを使ったデザインの指輪が鎮座している。

「もしかして、今日ここで?」
「そのつもりだった、けど、お前にやる」
「あのな、貰っても嬉しくねぇよ」
「捨てても良い。流石に自分では⋯捨てられない」

梶原は暫く手のひらで箱を弄ぶと、ポケットにしまい込んだ。

「話せ。少しは楽になるだろ」
「ありがとう」

話せば、自分が情けなくなる。が、誰かに聞いて貰いたかった。
俺は、ぽつり、ぽつりとここ最近のことを梶原に話した。

「彼女が言うには、俺はキープだって」
「キープ⋯⋯」
「ここひと月くらいかな、具合が悪いとか、忙しいとかで会えなくてさ。でも、前もそんな事あったから、あんまり気にしてなかったんだ。けど2日前に同僚が見たって言うんだ。取引先の社員と彼女が腕組んで楽しそうに歩いてたって」
「他人の空似とかじゃなかったのか?」
「だったら良かったんだけどさ、バッチリ彼女だった」

同僚は咄嗟に動画を撮っていた。
同僚の持つ小さな長方形の画面に映っている女は、誰が見ても、どこからどう見ても彼女でしかなく、しかも最悪な事にふたりが向かった先はそういうホテル。
ホテルに入る手前で濃厚なキスを交わし、お互いの腰に手を回しながらホテルに入っていくのを見て、俺の目の前は真っ暗になった。
それからの記憶は曖昧で、ただ俺は昨日の夜に彼女と会う約束をした。
彼女は明日会うのだから、と、乗り気ではなかったが、俺はどうしてもと頼み込んだ。

俺は彼女に否定して欲しかった。
あの時の俺は、ほんの少しの1%にも満たない希望に縋り付いていた。

待ち合わせた店で、同僚の撮った動画を彼女に観せると彼女はひとつ溜息を吐き出した。
そして、そこには俺の知らない女の顔があった。

『そうよ、これ私よ。彼は本命なの』
『ほん、めい?』
『あなたはキープ。でも、もういいわ。私、彼にねプロポーズされたの。見てこれ。凄くイイ指輪でしょう?』

彼女が鞄から取り出したのは、俺が買った指輪よりも大きなダイヤモンドがあしらわれた指輪。

『それに私、妊娠してるの。勿論、彼との子よ。あなたのはずないじゃない、何時もゴムしてたでしょう?』

俺は目の前にいる女が、自分が結婚したいとまで望んで愛した女だとは思えなかった。
彼女は運ばれてきた飲み物に口もつけず、椅子から立ち上がり

『あ、私のアドレス消しといてね。じゃ、サヨウナラ』

と言って、振り返ることなく店から出ていった。
俺は支払いを済ませ、店を出て、家に帰り、風呂に入った。
少しづつ頭の中が整理されてくると、胃がムカムカするような怒りと共に、何もかもどうでもいいという感情が湧いて来た。
ただそんな中、予約したグランピングの事を思い出して、キャンセルするくらいならと梶原に連絡を入れたのだった。

「女は怖いな」

ポツリと呟いた梶原の言葉には重みがあった。
梶原は大学在学中に修羅場を経験している。
まぁ、梶原が悪い訳ではなく、梶原を巡って女の子達が勝手に行動した結果の出来事ではあるが、それでも梶原の心に傷を残した事には変わりない。
誰が漏らしたのか梶原が随分な資産を持っていることが学内でも有名になっていて、梶原の周りには砂糖に集る蟻のように、男も女も集まっていた。
だが梶原はそんな奴らを相手にはしなかった。
元々人との付き合いが得意ではなかったこともあるのだろうが、梶原には俺以外に友達と呼べるような人間はいなかった。
基本的に無視を決め込んでいた梶原に対し、周りは勝手にヒートアップして行った。
そして、ある日の事件によって大勢の人間の体に消えない傷が残り、数人の人間に前科がついた。
幸いだったのは、その現場に梶原がいなかったこと。

「あぁ、怖いな」

手にしたワインをひと口飲んで、俺は空を見上げる。
東京では見られない多くの星と、夜空を分断する天の川の微かな光。
画面を通してみると、それはただの光でしかないが、自分の目でみる星の光は儚くも力強い。

「あぁ、会社行きたくねぇ」

本命と婚約した彼女は早々に退職するだろう。
仕事に対して真面目に取り組んではいたけれど、今の仕事が好きな訳ではないようだったから。
俺と彼女の事は、同じフロアの人間なら誰でも知っている程だったから、残される俺は皆から同情の念を贈られるだろう。
そう思うと、今から気が重い。

「辞めればいい、会社なんて」
「⋯お前なぁ」
「我慢して働きたいほど、そんなに今の仕事が好きなのか?」
「そういう訳じゃないが⋯」
「人生なんて短いんだ。その短い人生の中で悩んで傷ついて我慢して生きるなんて勿体ないだろう」
「そりゃそうだけど」
「ほら、見てみろ。宇宙のなんと偉大なことか!こんな広い宇宙の片隅の、小さい小さい星に住む、小さい小さい人間なんて、砂粒以下の存在だ。だったら、自由に好き勝手生きたっていいじゃないか!」

ミュージカル俳優みたいに大袈裟な身振り手振りを加え、ソファから立ち上がった梶原はグラスを持った手を空に突き上げる。

「親に心配させたくない」
「会社に勤めていれば安心するのか?」
「少なくとも無職よりは安心だろう?」
「ふむ。まぁ一般的にはそうか。ならば、会社を立ち上げよう」
「⋯⋯⋯は?」

梶原はくるりと踵を返して、満面の笑みをみせた。
その後ろには街の灯りと、満天の星。

「お前ひとりくらい、一生食わせてやれるだけの資産が俺にはある。だから、お前の人生を俺に寄越せ」
「はぁぁ?」
「やりたいことをやるのは楽しいが、やっぱり独りだと限度がある。だから、お前が必要だ」
「⋯⋯何だかプロポーズみたいだな」
「ん?そうか、なら指輪を贈らないとな」

そう言って、梶原はポケットから俺が渡した箱を取り出した。

「おい、それ⋯⋯あっ!」

梶原は器用に片手でラッピングを外すと箱を開け、中から指輪ケースを取り出しキラキラと光る街の灯り目掛けて放り投げた。

「捨てて良いんだろ?」
「⋯⋯あぁ、問題ない」
「安心しろ、ちゃんと新しい指輪買ってやる」
「要らねぇよ」

本当、いつも梶原には助けられる。

「そうか?じゃぁ、取り敢えず、俺たちの未来に乾杯だ!」
「ん?⋯あー、おう、乾杯だ!」

二週間後、会社で皆から哀れみの目で見られ、居心地の悪い思いをしていた俺のスマホに梶原からメッセージが届いた。

「マジか⋯」

画面には満面の笑みで書類を手にした梶原と、『お前の席も用意してあるぞ』の文字。
俺は休憩室のはめ殺しの窓から空を見上げる。
ビルの隙間の狭い空に浮かぶ白い雲が、風に流され形を変え、やがて視界から見えなくなっていく。
頭の中で再生される、星空と街の灯りに向かって叫んだ、偽ミュージカル俳優の言葉。

『宇宙のなんと偉大なことか!こんな広い宇宙の片隅の、小さい小さい星に住む、小さい小さい人間なんて、砂粒以下の存在だ。だったら、自由に好き勝手生きたっていいじゃないか!』

「よし、決めた!」

俺は休憩室のドアを開ける。
その先に彼女がいたような気がしたが、今はどうでもいい。
確か有給はたっぷり残っていたはずだ。
大きな仕事は終わったばかり。
今手元には重要な案件はない。
居室のドアを開け、目的の人物を探す。
窓際でモニターに向かい険しい顔をしているその人の名前を呼んで、満面の笑みで俺は近づく。
あの日星空の下で見た、偽ミュージカル俳優のように俺は自分勝手に生きることにする。

「居心地が悪いので、退職します」
「⋯⋯は?」

その後少し色々あったが俺は無事居心地の悪い会社を去り、そして今日、親友が立ち上げた会社へ入社する。
親友との楽しい未来に乾杯だ!



━━━━━━━━━
心じゃなくて頭に浮かんだことになってしまった (´-ι_-`)



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