カーテンの隙間から差し込む光の所為で、心の深いところで微睡んでいた意識が強制的に浮上させられた。
ベッドサイドに置いていたスマホを探し出し、電源ボタンを軽く押し込むとぼんやりとした灯りと共に、【04:13】と数字が表示された。
朝と呼ぶには早すぎる時間。
自身の身体に乗っている腕をゆっくりと下ろし、同じベッドに横たわる人間の眠りを妨げないように静かにベッドを降りた。
そっとカーテンの隙間を覗く。
まだ眠っているはずの街の通りを一匹の猫が歩いている。
少し歩いては立ち止まって辺りを見回し、暫し佇んでまた歩き出す。
その後ろ姿は、何か大切なものを探しているような、ただ自分のナワバリのパトロールをしているだけのような、又は何も考えていないような、それでいて何処か誇らしげに見えるのは、彼か彼女が生きるということに精一杯だからだろうか。
野良猫であるなら、彼か彼女には名前はないのだろう。
それでも、猫として、個として正々堂々と生きている。
そんな姿が少しだけ、ほんの少しだけ羨ましいと思った。
乾いた喉を潤すため部屋を出て、キッチンに向かう。
一人暮らしには大きい冷蔵庫を開け、中からよく冷えた水を取り出す。
青い硝子のコップに注いだ水は、薄暗い部屋の中でもキラキラと輝いていた。
関係を持つようになって、既に5年の月日が経った。
3年付き合った男に、『自分より稼ぎのいい女はプライドが許さない』的な事を言われ別れた直後、たまたま入ったBARで会った男。
最初は成り行きで、誰でもよかった訳では無いが意気投合したのが一番の理由。
それから、時折BARで会って一緒に飲んで、ホテルに行って一緒に朝を迎えて。
半年も経たずに、自分の部屋で朝を迎えるようになった。
この関係が、倫理に反している事は言われなくてもわかっていた。
彼は決して私の名前を呼ばない。
会えるのは彼から連絡があった時だけ。
「⋯⋯⋯泥棒猫、かぁ」
3日前、仕事帰りに駅の改札を出たところで声をかけられた。
私を呼び止めたのは女子高生、しかも有名な進学校の制服を着ていた。
取り敢えず、近くの行きつけの店に入ることにした。
残業をして、お腹も空いていたし。
個室に通して貰い、料理と飲み物を注文する。
少女曰く、父親と別れて欲しい、と。
その父親というのが誰なのかは言われずともわかっている。
理由を聞けば一言、『泥棒猫』と呟かれた。
まぁ、自覚はあったのでどうということは無く、別れるのも続けるのも自分達が決めることだと言えば彼女は俯いた。
ぽたぽたと零れ落ちる涙に、心が痛む。
でも、ごめんなさい、貴女にはもっと辛い現実が待っている。
彼に私以外の女がいることを知ったのは、関係を持って一年経った頃。
それも1人2人では無い。
けれど同じ数だけ、彼の妻にも男がいる。
1度だけ、とても酔っていた彼が話してくれた奥さんとの馴れ初め。
どちらかと言えば、彼の方が奥さんを愛している。
そして奥さんはそれを承知しているからこそ、何も心配することなく遊んでいる。
そしてもうひとつの重大な事実は、彼が子供を作れない身体であること。
つまりこの少女、そして今、小学二年生の息子くんは遺伝子的には彼の子供では無いということ。
彼は、自由奔放な奥さんが好きなのだと言う。
ただ奥さんの愛は常に彼に向いているわけではない。
それでも夫婦という形で居られるのならば、奥さんのすることに口は出さないと約束し結婚したのだと。
彼が私や他の女を抱くのは、奥さんの代わり。
だからそこに私たちに対する愛情はない。
あるのは奥さんへの愛情だけ。
それに気付くのに2年かかった。
もう、その頃には戻れない所まで私の恋心は育ってしまっていた。
でもそれも、そろそろ終わりにしよう。
私もいい歳になった。
いつまでもアリもしない未来にしがみついていられない。
彼女は知っているのだろう。
自分の両親が世間一般とは異なるということを。
彼女はそれで納得して今日まで来たに違いない。
ただ、自分は良くても弟の事を思えば、両親には普通の親になって欲しいのだろう。
ただ、それは叶えるのがとても難しい願いだろう。
別れ際、私は彼女に連絡先を教えた。自宅の住所も。
それをどう使うかはあなたの自由よ、と言って。
狡い大人で、ごめんなさい。
私に出来るのは、こんなことくらいだから。
でもこれには感謝の意味もある。
私に決心をさせてくれた。
コップの水を飲み干して、私は再びベッドに潜り込む。
すると、もぞもぞと動いて彼が目を開けた。
「 」
酷い人、それは私の名前じゃないわ。
酷く優しい声で、私ではない女の名前を呼ぶ。
酷い大人、成人もしていない子供に、あんな涙を流させて。
次に目が覚めた時、私は彼に言った。
「ねぇ、もう、終わりにしましょう?」
顔は見れなかった。
見れば決心が鈍るから。
「⋯⋯⋯わかった」
たった一言を残し、昨夜脱いだ服を着て貴方は部屋を出る。
酷い人、理由すら聞いてくれないの?
『待って』
言いそうになる自分の口に、手で蓋をする。
カチャ、とドアが開き、朝の清々しい空気が部屋の中に流れ込んできた。
代わりにあなたの存在が私の部屋から去っていく。
静かに閉まったドアは、小さくカチリと音を鳴らしまた元のように外とこの部屋を隔てた。
「⋯⋯ふふっ」
涙と共に笑いが込み上げる。
あの人は最期まで私の名前を呼ぶことはなかった。
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(´-ι_-`) 少女、頑張れよ。
7/21/2024, 3:57:22 AM