真岡 入雲

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7/2/2024, 3:39:35 PM


「Aパックでいいか?」
「Bは?」
「品切れだ。明日届く」
「うーん、Aかぁ…うーん」
「諦めろ。ほらっ」

冷蔵庫の前に立つ美丈夫が放り投げたそれは、綺麗な放物線を描いてソファに座ったオレの元に届けられた。
しぶしぶ付属のストローを差し込んで一口吸い上げる。
口の中に広がるハーブのような香りと酸味のある味。
不味いわけでは無いのだが、この味がどうにも苦手だ。
眉間にぎゅっと皺をよ寄せて一気に飲み干し、すかさずチョコレートを口に放り込んむ。
口の中が甘苦いまろやかな味に支配されていくのを感じながら、テレビの電源を入れた。

『...日差しが強くなっています。熱中症や日焼け対策を忘れずに』

天気予報のキャスターの背後には、太陽から身を守るようにして日傘をさす女性のイラストが合成されている。
傘の形は昔から変わらないな、なんて考えているうちに番組は終了を迎え、CMが流れはじめた。
眩しい太陽の光の下を、汗を流しながら自転車を漕ぐ少女。
自転車を止めて冷えているだろう、ペットボトルの飲み物をゴクゴクと飲む。
背景には青い海。太陽の光を反射してキラキラと輝いている。

「日差し…、日差しかぁ。1度でいいから浴びてみたいな」
「はぁ?」
「だって、気持ちいいって言うし。目を覚ましたら、こう、体伸ばしてさ、カーテンをバッと開けて…」

朝日を全身に浴びるって言うのはどんな気分なんだろうか。

「……気持ちイイどころか、滅茶苦茶痛ぇよ。熱いしな」
「へっ?」
「昔1度ヘマして、浴びたんだよ、朝日。右腕と背中と。そんな長い時間じゃなかったのにだいぶ焼かれて、元に戻るのにひと月近くかかった。まぁ、浴びてみたいつーなら止めはしねぇケドな」
「う……」

少し想像して眉間に皺が寄ってしまう。

「最悪なのが、寝てても起きててもずっと痛ぇんだ。俺達には人間みたいに痛み止めが効かないからな。それこそ24時間ずっと、針を刺してぐりぐり動かされている感じでさ。下っ端の奴らなら浴び続ければ消滅できるらしいけど、俺たちは無理だしな」
「………」

サラリと痛々しいことを話さないで欲しい 、眉間の皺が深くなるじゃないか。

「まぁ、浴びる浴びないはお前の自由だ。で、今日はどうする?」
「あっと、水族館に行きたい。先週から夜の営業始めたらしいんだ」
「OK、じゃぁ、準備するか」
「うん」

男二人で夜の水族館っていうのも微妙だけれど、行きたいところには行く主義なので。
それに一人で行くよりも、二人の方がきっと楽しい。


「あれなら、好きなだけ浴びれるぞ」
「あれ?」

オレの問いに彼は無言で空を指さす。その先にあったのは明るく輝く月。

「直接、日の光は浴びられないが、月に反射した日の光は浴びれるだろ?同じ日の光だ」

確かにそうだ。強さは違うがどちらも"日差し"であることに変わりない。

「そうだね!」

両手を伸ばして"日の光"を全身に浴びる。

「……ねぇ、これ、いつもと一緒じゃない?」
「まぁ、そうだろうな」

くくくっと肩を震わせて笑う彼の背中に、へなちょこパンチをお見舞いする。

出会って今日で200年と少し。彼のことでオレが知らないことは、まだまだ沢山ある。
この先の100年、200年でもっともっと彼のことを知れるだろう。

そしてそれが、終わりの見えない永い生の中で、きっと大切な宝物になる。

7/2/2024, 3:48:29 AM


「ごめんなさい…」

花をモチーフにしたデザインのバッグを手にして、彼女は振り返ることなく店を出て行った。
残されたのは口のつけられていない珈琲に、1枚の1000円札、そして婚約指輪。
1年前、彼女と一緒に選んだ指輪は、店の照明を浴び変わらずにキラキラと輝いていた。

どうしてこんな事になったのか、俺にはわからない。
けれど、彼女の選択を批難するほど愚かでもない。

自分の珈琲を飲み干して静かに席を立つ、彼女が残していった1000円札と指輪を持って。

出逢いは、駅構内の階段だった。
大きなキャリーケースを持って彼女は階段を上ろうとしていた。
生憎この駅はエスカレーターが無い。
そして唯一のエレベーターには点検中の看板が掲げられていた。
キャリーケースはずいぶんと重いようで、1段分を持ち上げるのにも苦労している様子。
電車から降りた人の群れは既になく、階段には彼女独り。
そして上司への連絡のため群れから逸れた男が1人、その階段を上ろうとしていた。

「手伝いますよ」

そう言って、彼女の手からキャリーケースを奪った。
彼女は一瞬ぽかんとして、直ぐ様我に返った。

「あ、あの、けっ…」
「一日一善」
「はい?」
「亡くなった祖母の遺言なんです。いやぁ、東京はなかなか人との距離が遠くて、いつもごみ拾いになってしまうんですが、今日は運が良かった。あなたのお役にたてます」

祖母の遺言なんてまるっきり嘘で、父方の祖母はピンピンして畑仕事をしているし、母方の祖母は俺が産まれる前に亡くなっている。
因みに母親は、俺を産んで亡くなっている。
もともと体の弱い人だったらしいけど、享年28歳で、今の俺と同じ年齢だった。
そんな俺を父親は男手ひとつで育ててくれた。
祖父母に預けることも出来たはずだが、そうしなかったのは母親との約束とか何とか。

「え、でも…」

彼女の逡巡が手に取るようにわかった。
なぜなら手がキャリーケースをつかもうと伸びたり、引っ込んだりしていたから。
その間に俺はキャリーケースを持って階段を上った。
正直に言おう、無茶苦茶重かった。次の日腕が筋肉痛になったほどだった。
だがそこは男の矜持、平気なフリをしてキャリーケースを運んだ。

後で聞いたら中身は仕事のサンプル品で、30キロ近い重さだったらしい。

その後何度か同じ駅で見かけて挨拶をするようになり、お茶をするようになり、食事をするようになった。
彼女と話すのは楽しかった。お互い全く関係の無い職種だったこともあって色々と新鮮だった。趣味も違ったが、互いの趣味を尊敬し干渉しすぎることのない関係は快適だった。
付き合いだして1年と少し、お互いいい年齢でもあったから自然と結婚の話になった。
互いの親に挨拶をして、婚約指輪を買った。何がいいのかなんて全然分からなかったけど、ネットで好きなデザインがある店を探し、休日に二人で訪れて実物を確認し検討することひと月半。やっとふたりが気に入る指輪が見つかった。

その半年後、一緒に暮らすことを提案した。
返事はもちろんOKで、お互いの職場に通うのに便利であることと、彼女の実家にも行きやすい駅周辺で探し始めた。
指輪の時と同様に、ネットで探して休日に物件を見に行く。
別段期限があった訳では無いので、妥協せず、ふたりが気に入った物件にしようと話していた。

その日も物件を見に行く予定を立てていて、彼女は前日から部屋に泊まっていた。
朝起きて少し遅い朝食をとっていると、彼女の電話が鳴った。
相手は彼女の年の離れた妹で、父親が倒れたとの連絡だった。
急いで彼女と病院に向かう。道すがら不動産屋に内見のキャンセル連絡を入れた。
タクシーの後部座席、隣で青い顔をして無言で座る彼女の手をそっと握った。
震える彼女の手と、握った手のひらに当たった婚約指輪の硬く冷たい感触を今でも覚えている。

病院の無機質な廊下に置かれた椅子に座って、泣きじゃくる彼女の妹と、放心状態の母親。
その2人に駆け寄った彼女もまた、涙を流し始めた。

彼女はずいぶんと後悔していた。
あの日俺の家に泊まっていなければ、父親を助けることができたんじゃないか。
例えそれが無理だったとしても、最後の言葉くらいは交わせたのではないか、と。

様々な手続きや、各方面への連絡や挨拶など、必要なことは多く時間が許す限り協力した。
それも、ひと月もすると落ち着き始める。
すると今度は徐々に実感が増してくる。
一人の人間を失った、という実感が。

それをきちんと受け止め、日常に戻るのは妹さんがいちばん早かった。
中学2年ということもあり、学校の勉強、部活、来年の受験と将来に向け立ち止まることはできない時期なのもあるのだろう。
反対になかなか日常に戻れないのは母親だった。
パートナーを突然失った悲しみに、心が壊れかけていた。
彼女はそんな母親と妹の世話、そして仕事と忙しくして悲しみから逃げているようでもあった。

彼女の状況はわかっていた。だから、暫くは会うことはせず、LINEで連絡を取るだけにしていた。
勿論、力になれることがあればいつでも声をかけて欲しい、とは言ったが、彼女が連絡をくれることはなかったし、自分自身も仕事が忙しく休日も出勤という日が続いていた。

そんなある日、上司に呼び出された。
海外拠点での現場の立ち上げをやらないか、と。
最低でも5年、下手をすれば10年は向こうでの仕事となる。
自分の力を試すのと、勉強のために、と。

断る理由はなかった。
もともと海外に興味があったし、働きたいとも思っていた。
父親も5年前からアメリカに赴任しているし、何も問題ない。

あとは……。


「どうでした?」
「うーん、まぁ、こんなもんかなって。とりあえず決めてきたよ。」

目の前に置かれたグラスには冷たい珈琲が注がれている。

「とりあえずって、暫くはこっちで暮らすんですよね?」
「一応そうは言われてるけど、またいつ飛ばされるか。それにしても、相変わらず日本の部屋は狭いね」
「1人なら十分な広さですって。俺なんてあの半分の所に3人暮らしですよ。今度4人になりますが」
「そろそろ予定日か。元気に産まれてくることを祈ってるよ」
「ありがとうございます」

ストローをさして、意味もなくカラリとひと回し。
何だかんだで結局8年の赴任期間を忙しく1人で過ごし、東京に戻ってきたのがつい昨日のこと。
かつての部下に頼んでおいた物件を内見して、契約したのが1時間前。
休日なのにこんなおじさんに付き合ってくれる、貴重な人間だ。

「あ、荷物は頼まれた通りトランクルームに預けてあります。これが鍵と契約書です」
「悪いな、助かる」
「荷物ってあれだけですか?」
「あぁ。家具家電はあっちの社員にあげてきたし、服は向こうのやつは東京では着られないからな」
「それにしても少なすぎる気がしますけど」
「そうか?」

コクリと一口、喉を潤す。
まだ夏本番前だと言うのに、今日の東京は嫌になるくらい暑い。
そんな中、通りを歩く親子。左右を両親が、真ん中に子供がいて両手を繋いでいる。五、六歳くらいだろうか。随分と楽しそうだ。

あぁ、本当に楽しそうで、幸せそうだ。

「あの親子がどうかしましたか?」
「いや。幸せみたいで良かったなって思っただけだ」

カフェの通りに面した席。
ガラスの向こうを通り過ぎた彼女の姿は、あの頃より少し丸みを帯びていたけれど、どこの誰よりも幸せそうに微笑んでいた。
それを引き出したのが自分ではないことに若干の寂しさを感じるが、自分たちの選択は間違いではなかったのだとあの笑顔が教えてくれた。

「知り合いですか?」
「ん、そんなところだ。さて、これを飲んだら服を買いにいかないとな。案内してくれるんだろう?」
「勿論です!」

妻と色々と調べたのだと、スマホの画面をスクロールしながら説明し始めた元部下を他所に、俺は姿が見えなくなった彼女の影を追う。
赴任先でも出会った女性と彼女を比べてしまい、どうしても付き合う気にはなれなかった。
どうやらこの気持ちに蹴りをつけるには、もう少し時間が必要なようだ。

6/30/2024, 4:42:51 PM

それが自分にしか見えないと知ったのは、小学校に入学する少し前。

家の庭で遊んでいたら、お爺さんに声をかけられた。
長い白い髭に、少し広い額。そして真っ白な髪の毛。
見た事がない服を着ていたけれど、気にはならなかった。

「坊主、それが見えるのか?」
「坊主じゃないよ、健人だよ。コレね、時々ここにあるんだ。けど触れないの。不思議だよね」

しゃがんだ足元には小指くらいの太さの紐。色は赤。
目には見えるのに、触れることが出来ない。
触ろうとすると、手のひらをすぅっと通り抜けていく。

「そうか、健人。いいことを教えてやろう。それはな普通の人には見えないんじゃ」
「そうなの?」
「あぁ、そうじゃ」

紐の話をすると両親は困った顔をした。
友達には、そんなの見えないと言われた。

「じゃあボクは普通の人じゃないの?」
「そうなるのぅ」
「そうなんだ。…お爺さんも?」

そう聞くと、お爺さんは愉快そうに笑いこくりと頷いた。

普通では無いという、特別感と、お爺さんと一緒と言う、親近感。

「それは人と人の縁を結ぶ紐じゃから、ワシ以外は触れないんじゃ」
「ふぅん?」
「いいか、健人。この紐のことはワシと健人との秘密じゃ」
「秘密…」
「そうじゃ、ふたりだけの秘密じゃ」
「うん、お爺さんとボクだけの秘密!」

ふたりで秘密を共有する、たったそれだけで、お爺さんを無条件で信じた。
良く言えば純真で、悪く言えば単純。

「ふぉっふぉっ、いい子じゃ、いい子じゃ。そうじゃのう、健人、ちょっとこっちへ」

手招きされて、素直にお爺さんのそばへ行く。
すっと右手を握られた次の瞬間、手首にあの紐がぐるりと2周巻きついていた。

「御守りじゃ」
「御守り?」
「あぁ、健人を守ってくれるんじゃ。それとな、あの紐と同じでワシと健人にしか見えん」
「紐と一緒?あれ、でも触れるよ」

そう、触れた。摘むと指の間に紐が存在する。
けれど触っている感覚がない。不思議な感じだ。

「うむ、少々細工をしたからのぅ。切ったりはできぬし、外すことも、外れることも無い」
「ふぅん…うん。ありがとう、お爺さん!」
「どういたしまして、じゃ。では、また会おう、健人」

お爺さんは、ふぉっふぉっと笑いながら去って行った。



「純粋すぎ…いや、子供だったから仕方が無いのか?」

色褪せることも、汚れることも無く、あの紐は今でも右手首に巻きついている。

またあの日以降、何度かあのお爺さんに会った。けれど、会う度に外見が違った。
ある時は、20歳くらいのお兄さんだったり、30後半のイケオジだったり、はたまた俺と同じくらいの年齢の子供だったり。そう言えば金髪の美女の時もあった。
不思議なのは、どんな外見でもひと目であのお爺さんだとわかること。
そしてそれを自分は普通に受け入れている。
流石に、お爺さんではないので名前を聞いた。
だが答えてもらえなかったので、勝手にジンさんと呼ぶことにした。
何となく嬉しそうだったので、良かったんだと思う。

ジンさんとは、2、3言葉を交わして別れる時もあれば、カフェでお茶をしたり、居酒屋で飲み明かすこともある。

「赤い紐…ねぇ…」

赤い紐は今もチラホラと見えている。

都心に出ればそれなりの数の紐が、絡み合うことなく存在しているのを見かける。
そして友達との待ち合わせの時とかに紐を観察していて、わかったことがある。

まずは色。
基本は赤だが、紐によって色味が若干違ったりする。
濃い赤、薄い赤、斑な赤、濃いのと薄いのがシマシマになっていたりと、様々ある。
色味に何か意味があるのかも知れないが、今はまだ分からない。

そして紐の先。
これは例外なく、人の右足首に巻きついている。
と言っても、全部確認したわけではなくジンさんに聞いたら答えてくれた。
それと、巻き付きは1人に対して1本のみ。同時に2本3本の巻き付きは絶対にない。
不思議なのは紐は足首で結ばれているわけではなく、足首に巻きついているだけなこと。
結ばれているのはひとつも見たことがない。
これもジンさんに聞いたけど、答えてはくれなかった。
因みに俺の右手首の紐は結ばれていないけど、他の巻きつきとは明らかに違う。

それから、消失。
文字通り、紐が消える。すぅっと空気に溶けるように。
これは、繋がれた先のどちらかが亡くなると起きる現象のようだった。
事実、祖父が亡くなった時、祖父と祖母を繋いでいた紐が消失する瞬間を見た。

最後に、全員が誰かと繋がっているわけじゃない。
誰かと繋がっていても、その相手が伴侶とは限らない。
これもジンさんに確認済み。
事実、俺の両親は繋がっていないし、従姉妹の旦那は幼なじみと繋がっていた。

紐はあくまでも運命。
その運命に従うか、逆らうかは本人次第。
そして、その選択を観察するのがジンさんの趣味。
ターゲットの近くで観察するのがいちばん楽しいから、ターゲットに不審がられないように外見を変えているらしい。

ただひとつ言えるのは、運命に従った方が幸福になれるということ。
だって、いちばん幸福になれるから繋いでいるんだ、とはジンさんのお言葉。
残念なのは普通の人には、その運命が見えないということ。

「ん?」

俺は自分の右手首の紐をじっと見た。20年変わることの無い赤い紐。
自分の右手だけで完結してしまっている俺はどうなるのだろうか?

「運命って分からないから楽しいんだよ。健人は運命が見えちゃってるでしょ?だからもう、自己完結させちゃったんだぁ」
「え、ジンさん?」

ふへへへっと、締まらない顔で笑ったジンさんは、グラスに注がれた日本酒"赤い糸"を一気に呑み干した。


6/30/2024, 1:41:22 AM

じりじりと、夏の太陽は地上を焼く
人間によって蓋をされた大地が
その熱を享受できる術はなく
微かな熱が伝わってくるだけ

蓋の隙間に根を貼った
名も無き植物の群れは
この辺りでは唯一のオアシス

時折やってくる人間と
彼らに従うオオカミの末裔
朝と夕
彼らがここに来る時間は
オアシスの深いところで
じっと息を潜めるよう
母親に言いつけられていた


でもボクは……

ほんのチョットの好奇心
オアシスの向こうの蓋の上
ビョコビョコ動く緑の塊
そっとそっと近づいて
姿勢は低く
息を殺して
そうっとそうっと……
そうっとそうっと……

そいつはびょんっと飛び跳ねて
網の隙間から逃げていく
ぴょんぴょんぴょんぴょん飛び跳ねて
キラキラ流れる水へポチャン

しょんぼり肩を落としていると
目の前に現れたヒラヒラのやつ
いつものやつより大きくて
ついつい追いかけ道を失う

お母さん

小さな声で呼んでみる
優しい声が聞こえない

みんな何処?

辺りをぐるりと見回してみても
兄弟の姿は見当たらない

お母さん

大きい声で呼んでみる
けれど優しい声はやっぱり聞こえない

お母さん
みんな
お母さん
みんな

喉が痛くなるまで呼び続けた
けれどみんなは見つからない

焼けた蓋がすごく熱くて
手も足もとても痛くて
もうこれ以上歩けない

喉も乾いたよ
お腹も空いたよ
ねぇお願い
誰か助けて

薄れる意識の中
最後に視界に映ったのは
蒼空に浮かんだ
大きな綿菓子


「何を見てるんだ?」

かけられた言葉にくるりと首を回す
ぼさぼさの毛並みのこの人間は
あの日ボクを助けてくれた

暫くは手や足が痛くて
歩けなかったし
何だかチクってするのとか
ジワって目が痛くなるやつとか
ちょっと苦いお水とか
飲まされたけど
今はそれはボクのためだったと知っている

今でも時々アワアワにされたり
チクッとされたりするけれど
その後にいっぱい撫でてくれるから
許してあげることにしてる

今のボクのおうちは
あのオアシスほど広くない

この人間と僕が寝る場所と
ご飯を食べる場所
運動をする場所と
アワアワになる場所
そしてココ
お空が見える場所

「あ〜、入道雲か。ひと雨来れば涼しくなるんだけどな。雷は勘弁して欲しいな」

この人間は蒼空の綿菓子を"にゅうどうぐも"って言う
お母さんはあれは綿菓子っていう食べ物で
ふわふわしていて甘いんだと教えてくれた
だから"にゅうどうぐも"じゃないって
いつも言っているけど
人間には伝わらないみたい

「うん?どうした?おやつか?」

一生懸命教えてあげてるんだけど
全然伝わらない
ほら、また美味しいやつ持ってきた
だから違うって……ん、美味しい
うん、いいね、すごく良いよ
美味しいのは大好きだよ
できれば今度は
綿菓子が食べてみたいな

あのお空に浮かんでいるのと
同じくらいの大きさのやつを

6/28/2024, 4:06:47 PM

普段より早い、6時前に起こされて
寝ぼけたままで服を着替える
バシャバシャと周りを濡らしながら顔を洗って
ボサボサの髪に櫛を通して1本に結ぶ

玄関に吊るしてある出席カードを首にぶら下げて
急いで靴を履いて手には小さな如雨露を持つ
カラカラと音の鳴る玄関の引き戸を勢いよく開け
大きな声で叫んで家を出る

2軒隣の玄関先でいつもの名前を呼ぶと
待ってましたと友達が顔を出す
並んで川沿いの道路を
宿題の進み具合を確認し合いながら進む

目的地までは歩いて10分
途中、もう1人の友達も合流し
まだ涼しい、澄んだ空気の中を姦しく歩く

黄色の大輪の花が周囲をぐるっと囲んだ公園
集まった子供達は思い思いの遊具で遊んでいる
数人の大人が公園の中央でラジオを準備し
子供たちに集まるよう声をかける

聞きなれた曲がラジオから流れ
小さい子達は真剣に
大きい子達はダラダラと
アナウンサーの掛け声に合わせて体を動かす
朝で涼しいとは言え、体を動かせば
じんわりと汗が浮いてくる

出席カードに判子を貰い
持ってきた如雨露に水を入れ
植えられている向日葵に水をあげ
朝イチのイベントは終了となる

帰り道、友達とプールに行くかどうか確認をして
頭の中で今日のスケジュールを組み立てていく

家に帰って、朝食を食べ
後片付けをしたら、宿題に手をつける
午前中の涼しい時間にやってしまうのが
1番効率が良いことを、今までの夏で学んでいた

まずは得意な算数のドリル
決めたページ数以上を進めて大満足
次は漢字の書き取り
集中力が切れて、予定の半分程で終了
できなかった分は夕方にやろう、なんて考えているけど
結局、プールで遊んで体力切れて
昼寝ならぬ夕寝をしてしまい
後日後悔する羽目になる

休みの終わりが見えてくるあたりで
友達と集まって宿題の写しっこをしたり
読書感想文に悩まされたり

充実した時間を過ごしていたのだと
今なら胸を張って言える



「懐かしいな…」

手にはコーヒーの入ったカップ
向かう先は大き目のモニターが2枚並んだ机

背もたれの高い
所謂、ゲーミングチェアに腰を下ろし
友人が送ってきた画像を見る

男の子の満面の笑みと首からぶら下げたカード……?

「ん?スマホ?」

よく見ればそれはカードではなく、スマートフォンで
その画面にはスタンプの押された日付の枠が並んでいる

「出席カードも電子化の時代かぁ」

何だか寂しさを覚えるのは
古い人間だからだろうか

少子化の波は避けられず
地区で行っていたラジオ体操は
もう、随分と前に廃止となったらしい
送られてきた画像のカードは
ラジオ体操ではなく
お手伝いスタンプだそうだ

因みに、学校のプール開放も
監視を行う親が確保できないこと
利用する子供が少ないこと
日中の日差しが強すぎることなど
諸々の理由で廃止になっているのだとか

仕方の無いことなのだろう
時代が変われば色々なものが変わる

かつて筆と墨で書かれた物語は
万年筆や鉛筆でかかれるようになり
ワープロからパソコンへと変化し
タブレットやスマホでも紡がれるようになった

「時代の流れ…かぁ…」

30年前、私が子供の頃の夏は
エアコンなど無くても過ごせた
扇風機と団扇で乗り切れる暑さだった
今では東北の海辺のあの街でも
エアコン無しでは夏を乗り切るのは厳しい

今から30年後の夏には
何が消えて、何が生まれているだろう

願わくば、あの公園には
向日葵の花が咲いていますように……



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