真岡 入雲

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「ごめんなさい…」

花をモチーフにしたデザインのバッグを手にして、彼女は振り返ることなく店を出て行った。
残されたのは口のつけられていない珈琲に、1枚の1000円札、そして婚約指輪。
1年前、彼女と一緒に選んだ指輪は、店の照明を浴び変わらずにキラキラと輝いていた。

どうしてこんな事になったのか、俺にはわからない。
けれど、彼女の選択を批難するほど愚かでもない。

自分の珈琲を飲み干して静かに席を立つ、彼女が残していった1000円札と指輪を持って。

出逢いは、駅構内の階段だった。
大きなキャリーケースを持って彼女は階段を上ろうとしていた。
生憎この駅はエスカレーターが無い。
そして唯一のエレベーターには点検中の看板が掲げられていた。
キャリーケースはずいぶんと重いようで、1段分を持ち上げるのにも苦労している様子。
電車から降りた人の群れは既になく、階段には彼女独り。
そして上司への連絡のため群れから逸れた男が1人、その階段を上ろうとしていた。

「手伝いますよ」

そう言って、彼女の手からキャリーケースを奪った。
彼女は一瞬ぽかんとして、直ぐ様我に返った。

「あ、あの、けっ…」
「一日一善」
「はい?」
「亡くなった祖母の遺言なんです。いやぁ、東京はなかなか人との距離が遠くて、いつもごみ拾いになってしまうんですが、今日は運が良かった。あなたのお役にたてます」

祖母の遺言なんてまるっきり嘘で、父方の祖母はピンピンして畑仕事をしているし、母方の祖母は俺が産まれる前に亡くなっている。
因みに母親は、俺を産んで亡くなっている。
もともと体の弱い人だったらしいけど、享年28歳で、今の俺と同じ年齢だった。
そんな俺を父親は男手ひとつで育ててくれた。
祖父母に預けることも出来たはずだが、そうしなかったのは母親との約束とか何とか。

「え、でも…」

彼女の逡巡が手に取るようにわかった。
なぜなら手がキャリーケースをつかもうと伸びたり、引っ込んだりしていたから。
その間に俺はキャリーケースを持って階段を上った。
正直に言おう、無茶苦茶重かった。次の日腕が筋肉痛になったほどだった。
だがそこは男の矜持、平気なフリをしてキャリーケースを運んだ。

後で聞いたら中身は仕事のサンプル品で、30キロ近い重さだったらしい。

その後何度か同じ駅で見かけて挨拶をするようになり、お茶をするようになり、食事をするようになった。
彼女と話すのは楽しかった。お互い全く関係の無い職種だったこともあって色々と新鮮だった。趣味も違ったが、互いの趣味を尊敬し干渉しすぎることのない関係は快適だった。
付き合いだして1年と少し、お互いいい年齢でもあったから自然と結婚の話になった。
互いの親に挨拶をして、婚約指輪を買った。何がいいのかなんて全然分からなかったけど、ネットで好きなデザインがある店を探し、休日に二人で訪れて実物を確認し検討することひと月半。やっとふたりが気に入る指輪が見つかった。

その半年後、一緒に暮らすことを提案した。
返事はもちろんOKで、お互いの職場に通うのに便利であることと、彼女の実家にも行きやすい駅周辺で探し始めた。
指輪の時と同様に、ネットで探して休日に物件を見に行く。
別段期限があった訳では無いので、妥協せず、ふたりが気に入った物件にしようと話していた。

その日も物件を見に行く予定を立てていて、彼女は前日から部屋に泊まっていた。
朝起きて少し遅い朝食をとっていると、彼女の電話が鳴った。
相手は彼女の年の離れた妹で、父親が倒れたとの連絡だった。
急いで彼女と病院に向かう。道すがら不動産屋に内見のキャンセル連絡を入れた。
タクシーの後部座席、隣で青い顔をして無言で座る彼女の手をそっと握った。
震える彼女の手と、握った手のひらに当たった婚約指輪の硬く冷たい感触を今でも覚えている。

病院の無機質な廊下に置かれた椅子に座って、泣きじゃくる彼女の妹と、放心状態の母親。
その2人に駆け寄った彼女もまた、涙を流し始めた。

彼女はずいぶんと後悔していた。
あの日俺の家に泊まっていなければ、父親を助けることができたんじゃないか。
例えそれが無理だったとしても、最後の言葉くらいは交わせたのではないか、と。

様々な手続きや、各方面への連絡や挨拶など、必要なことは多く時間が許す限り協力した。
それも、ひと月もすると落ち着き始める。
すると今度は徐々に実感が増してくる。
一人の人間を失った、という実感が。

それをきちんと受け止め、日常に戻るのは妹さんがいちばん早かった。
中学2年ということもあり、学校の勉強、部活、来年の受験と将来に向け立ち止まることはできない時期なのもあるのだろう。
反対になかなか日常に戻れないのは母親だった。
パートナーを突然失った悲しみに、心が壊れかけていた。
彼女はそんな母親と妹の世話、そして仕事と忙しくして悲しみから逃げているようでもあった。

彼女の状況はわかっていた。だから、暫くは会うことはせず、LINEで連絡を取るだけにしていた。
勿論、力になれることがあればいつでも声をかけて欲しい、とは言ったが、彼女が連絡をくれることはなかったし、自分自身も仕事が忙しく休日も出勤という日が続いていた。

そんなある日、上司に呼び出された。
海外拠点での現場の立ち上げをやらないか、と。
最低でも5年、下手をすれば10年は向こうでの仕事となる。
自分の力を試すのと、勉強のために、と。

断る理由はなかった。
もともと海外に興味があったし、働きたいとも思っていた。
父親も5年前からアメリカに赴任しているし、何も問題ない。

あとは……。


「どうでした?」
「うーん、まぁ、こんなもんかなって。とりあえず決めてきたよ。」

目の前に置かれたグラスには冷たい珈琲が注がれている。

「とりあえずって、暫くはこっちで暮らすんですよね?」
「一応そうは言われてるけど、またいつ飛ばされるか。それにしても、相変わらず日本の部屋は狭いね」
「1人なら十分な広さですって。俺なんてあの半分の所に3人暮らしですよ。今度4人になりますが」
「そろそろ予定日か。元気に産まれてくることを祈ってるよ」
「ありがとうございます」

ストローをさして、意味もなくカラリとひと回し。
何だかんだで結局8年の赴任期間を忙しく1人で過ごし、東京に戻ってきたのがつい昨日のこと。
かつての部下に頼んでおいた物件を内見して、契約したのが1時間前。
休日なのにこんなおじさんに付き合ってくれる、貴重な人間だ。

「あ、荷物は頼まれた通りトランクルームに預けてあります。これが鍵と契約書です」
「悪いな、助かる」
「荷物ってあれだけですか?」
「あぁ。家具家電はあっちの社員にあげてきたし、服は向こうのやつは東京では着られないからな」
「それにしても少なすぎる気がしますけど」
「そうか?」

コクリと一口、喉を潤す。
まだ夏本番前だと言うのに、今日の東京は嫌になるくらい暑い。
そんな中、通りを歩く親子。左右を両親が、真ん中に子供がいて両手を繋いでいる。五、六歳くらいだろうか。随分と楽しそうだ。

あぁ、本当に楽しそうで、幸せそうだ。

「あの親子がどうかしましたか?」
「いや。幸せみたいで良かったなって思っただけだ」

カフェの通りに面した席。
ガラスの向こうを通り過ぎた彼女の姿は、あの頃より少し丸みを帯びていたけれど、どこの誰よりも幸せそうに微笑んでいた。
それを引き出したのが自分ではないことに若干の寂しさを感じるが、自分たちの選択は間違いではなかったのだとあの笑顔が教えてくれた。

「知り合いですか?」
「ん、そんなところだ。さて、これを飲んだら服を買いにいかないとな。案内してくれるんだろう?」
「勿論です!」

妻と色々と調べたのだと、スマホの画面をスクロールしながら説明し始めた元部下を他所に、俺は姿が見えなくなった彼女の影を追う。
赴任先でも出会った女性と彼女を比べてしまい、どうしても付き合う気にはなれなかった。
どうやらこの気持ちに蹴りをつけるには、もう少し時間が必要なようだ。

7/2/2024, 3:48:29 AM