私はよく夢を見る。幸せな夢ではない。
いつも何かに追いかけられている。焦って脚がすくんで動かなくなってしまったりする現実感は夢の世界が本当の世界だと勘違いさせてしまうほどだ。私は勿論こんな毎日夢の中で逃走中のようなものをやりたくないと思っている。でも悪いことばかりではない。
夢は人にさまざまな啓示を与えてくれる。有名なベートーヴェンをはじめとした偉人の中には夢の中の出来事から着想を得たと述べていたという。
夢を見る。それは自分の想像の領域の中で自分だけのストーリーを汲み出すことのできる力である。
だから私は悪夢には嫌悪を抱くが夢に関しては何も思わないようにしている。心の中に響くはショパンの幻想即興曲。さあ今日は一体どんな夢を見せてくれるのだろうか。
お題夢見る心
この物語はちょっとフィクションです。
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更新が遅れて申し訳ありません。
天つ風 雲の通路 吹き閉じよ をとめの姿 しばし留めん。中学2年生の時に百人一首の宿題があった時に覚えたものだ。何も知識もない私からみるとこれを詠んだひとは下衆い人なんだなと思った。
それから3年半ば少し経った私は今その歌を反芻している。家で作ったサンドウィッチを食んで真っ白なきゃんばすに絵の具という情報をこぼしている。
絵を描こうと思ったのは中学3年生の頃だ。絵を描くより本を書く方が好きだった私は絵がとても下手で98点だったのに評定は四だった。だから内申点もとりたかったし絵を練習し始めた。すると存外これが楽しい。目が自分なりに上手く描けると舞い上がってしまう。
やがて私は絵師を志すようになった。志望校もかなぐり捨てて美術の専門高校に入った。
でも生まれつきの不器用さゆえか凡人より上程度の実力にしか到達することはできなかった。
だから単位が吊り橋の様に危機的な状況になっている。教師にも親にも怒られて私はこの道はダメなんだろうか。と思いながら何となくふらっとこの丘に立ち寄った。公園っていうのはつまらないものだなと私は思うけど描いてしまう。私にはこれくらいがちょうどいい。やっぱり普通に進学すべきだったのだろうか。
絵を描いていると気分が重くなってしまってすぐに描くのをやめてしまった。雲を眺めてあれは羊だ。あれはアイスだとか幼児がやる様な遊びをしているといきなり天が割れた。文字通り。雲が晴れて青空が切り裂かれてそこに何が蠢いている。それは白い龍だった。あまりの美しさに私は無意識に筆を握っていた。
写真とか無粋なことはしない。このキャンバスにこの光景を閉じ込めたかった。何かが変わって何かが終わる音がした。これが芸術というものか。美しさの化身である龍は鳴いた。その音はどんな名曲にも勝る天上の音色だった。背景を描き終わって龍に取り掛かろうとしたら雲がまた集まり出した。待って、待ってくれ。まだ見ていたい。天つ風が雲を吹き閉じてくれる様に私は願った。その詩人の気持ちを身をもって理解した様な瞬間だった。それから5年私の家の壁には美しい空と真っ白な龍の様なシルエットが浮かんでいた。
お題遠くの空へ
この物語は半分フィクションです。
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この世にはあらゆる写すものがある。
絵、歌、造形、そして「言葉」、星の数程あるこの世界を写すことができる。だが全てを写せるわけでわない。所詮空間とそれを写すのに使うものを別のものなのだ。今、私はその全てを使っても写すことのできない光景を見ている。始まりは仕事を定年で辞めてから少し経った後、昔からの友人から星を見に行かないかという誘いが来た。勿論受けた。
暫く退屈だったし体を動かしたいと思ったからね。
早朝に家を出て集合場所の駅につくともう友人は到着していた。こうして私と友人の2人旅が始まった。
山を歩くのはいつぶりだろう。若かったときはどうともなかった山道は今は荒れ果てた険しい山道に思えた。2人ともども息が切れて山の頂上に着く前に休憩を取った。年はやはりとりたくないものだな。と思った。弁当を食べて少し横になっているともうすっかり日が暮れてしまった。今日はこのまま寝てしまおうか。と友人が言ったのでここで寝た。深夜、私は尿意を感じて外に出た。すると光の玉のようなものがふよふよと私に近づいてきた。何だ!?鬼火か?と私が青い顔をしているとそれは蛍だった。一匹ではない。数百匹に及ぶ群れが美しく儚げな光景を生み出していた。すぐに友人を起こすと戻ってきて写真を撮った。
だがあまり綺麗だとは思わなかった。
幻想的な光景とは写せないものなのだなと思った瞬間である。その後私達はすっかり満足してしまって山を下りてしまった。
お題言葉にできない
この物語はフィクションです。
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私は散りゆく花弁の一片。ちょっとした風が吹けば地面に叩きつけられてしまうような不安定な存在。
でも風に乗るからこそ美しく見える。
だから私はいつも風に乗ってしまう。そう周りの考えという木枯らしに。誰かに反抗するなんて何年ぶりだろう。そう思いながら殴って気絶してしまった上司に目をやってみる。この上司は別に殴ってしまっていいだろう。裏社会の人間だしあまり慕われたし知名度があるわけでも無いから。私は堅気ではなく裏社会での仕事を生業としている。昔から刀の稽古をつけられて忍刀で相手の首をスパッとやるのが私の仕事だ。
だからなのか幼いときはやたらと殴られて体に主従関係を刻み込まされた。だから私は基本的に雇い主及び上司に絶対服従である。だがしかし何事にも例外があるものだ。こんな上司なんて上司と認識していない。
ろくに仕事もしないし誰かにも慕われてないのに何かと人に文句を言ってくる小煩い輩だった。
今日だって雇い主の事を馬鹿に来たので少し身の丈を教えてやっただけなのだ。そう、決して私の私情などではない。あの上司のたるみきった腹まるでお餅のようだな。お餅か…。家に帰るついでに買うか。そう思うほど私は和菓子が好きだ。特に大福。いつも仕事着に携帯している。だから時間感覚が狂ってしまう裏社会にいても季節だけは細かく分かる。
桜餅が昨日売られていたということは先週から春が始まったということだ。
春といえば春の定義って花が咲いて暖かいことだろう?だから私はいつも血の華を咲かせて返り血で暖かいから年中春ということだなという鉄板ジョークがある。勿論この社会でも受けるどころかドン引きされているのが全部だ。
春という恋愛のシーズンでもあるこの時期を血に染めてしまうのはとても心苦しいのだが止めることはできない。桜の花は春爛漫。血の華も春爛漫である。
お題春爛漫
この物語はフィクションです。
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狼は言った。「満月よりかけている方が好きだと」
狼は知っていた。自分に剣の才は無いと。
狼は諦められなかった。狼の父との最期の約束の為に
狼はやめた。真っ当なぶつかり合いをする事を。
狼は餓狼となった。狼はその狂気的なまでの攻撃性と狼の人柄を表す様な曲刀が故に故郷で広く知られた。
狼はそれでも飢え渇いていた。まだまだ足りないと言わんばかりのその姿は悪魔でさえ飲み込むのではというまでの悪食であった。いつしか父に教わった剣技は泡沫へと消えただ狼の飢えを潤す為の剣技となった。
その名は一国に知らぬものはいないほどに広まった。
だが狼はまだ満腹ではなかった。1人で飢えるように鍛錬や手合わせを繰り返しやがて誰よりも強き剣士となった。その孤独で猟奇的な行動から人々は狐狼と呼んだ。けれど狼も衰えには逆らえずその剣術の腕は半分までに堕ちた。しかし狼の強さに憧れてやがて力を欲した小鳥たちが集まる大樹へと狼はなった。飢えた小鳥たちに自分の知識と技術の実を授け狼の名は永遠と語り継がれた。誰にも教わらず至った最強の狐狼。
狼の名は村雨と言った。
お題誰よりも、ずっと
この物語はフィクションです。
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