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5/23/2024, 2:04:12 PM

吃音からは逃れられないのだなあと思う。

教員の仕事を初めて、今のところ、教室の誰からも吃りを指摘されていない。
私が教職課程を受け始めた頃、先生に泣きながら相談した吃音の問題は今のところ仕事面で課題に至っていない。
もちろん全く吃りが無くなっているわけではない。
名前を呼ぶのに毎回つまる子どもがいて申し訳ないなと思うし、職員同士の会話など緊張の塊でどもりまくっていると思う。それでも優しい世界である。大丈夫、吃音については、教育実習時代に中学生の前で思いを込めたスピーチをして、乗り越えた。吃音という障害を一番辛く感じていた苦しい記憶ばかりの母校で、私はそれを払拭した。
もう大丈夫だと思った。


「なんで、ああああ、ってなってるん?」

掛け持ちで働く放課後等デイの小学生に、初めて言われた時。

頭が真っ白になった。
この一年間だれにも指摘されなかったのに。
そんなに酷くないと思ってたのに。
いつ言ってた?さっき?記憶にない。感知できなかったくらい、自分が意識してないだけだった?

そのデイでもこれまで、他の子どもから吃音の指摘は無かった。
ST(言語支援)を中心に運営するデイなので吃音の子どもはいつも在籍しているが、子どもたちに吃音という概念はほとんどない。
私もまあ豪快にどもることもあったが、スタッフの受け入れにも恵まれて何の問題もなく働いているつもりだ。
これを言ったのは高学年の男の子。手帳を持っているが現在は少し学習面で遅れを取っている程度の発達障害と、自宅で家族から虐待を受けているメンタルケアで来所している。私の入職から半年ほどの間は勤務日と来所日が合わず、最近やっと互いに慣れてきたかなという時期だった。
これ以来、彼からよく吃りの指摘が入るようになった。

吃りは指摘をしないべきだと、吃音対応の教本にも書いてある。これは当人にどもったという意識を持たせず、自然な状態で話させるのが良いとされるからだ。この良いというのは対症療法ではない。吃音ケアというのはSTによる口腔や咽頭を使う実技指導以外は専ら心理的負担を減らすことだ。吃音の原因というのは今だ解明されない。ただ悪化する要因には、本人が吃音に対して抱くさまざまなネガティブ感情が作用する。緊張、嫌悪、話すことへの恐怖が吃音を加速させるのだ。当人にとってはスムーズに話せているというイメージを持ったまま吃り続けられるのが理想なのである。

で。
今の私はありがたいことに、頻発をやっても難発を繰り返しても随伴運動がうるさくても自分自身はケロッとしている、という理想的状態にいられている。
吃音のままではあるが、吃音の呪いからは逃れられたのだと思った。

吃音の指摘は当人にとって、結構つらい。
吃音の呪いがぐさぐさ刺さる。昔の私だったら泣いていた。
これをどうやって伝えたらいいのだろうと悩み、今のところは軽口を実践している。
せやねん、どもるねん。
頑張って喋ってるから、あんまり言わないであげて。

軽口を続けるのはよくないと思う。指摘を日常的会話だと思われてしまうのは、指摘をする彼にも、いつか彼の周りに現れる他の吃音当事者にも辛いことだ。だから、指摘された以外の場でーー私が軽口に逃げなくても問題ない会話の中で、吃音の人の生き方というものと出会ってほしいなと考えた。

その1つがこれだ。
言い間違いの話になった。

私はよく言い間違いをして、それに対して吃音的な見解を持っているので、彼の子どもらしい「言い間違えた~!」というトークにこんな観点で乗っかった。


私もよく言い間違えるねん。
昨日もタンクトップの写真見てタンクトップって言おうとして、エスカレーターって言っちゃった。
でも私はこれ、自分が「言い換え」をよくやるからだと勝手に思ってるんだよね。
「言い換え」って、吃音の人がやるねん。喋られへん言葉を言いそうになったら、頭のなかで一瞬で別の言葉やけど意味が伝わるものを探してすぐ言い換えるねん。
で、多分だけど私は実感として思うよりずっとずっと僅かに、タンクトップって言葉に緊張したんだろうね。
私はその10分くらい前に別の会話でエスカレーターって言ってたの。エスカレーターも私の苦手な言葉でさあ、緊張したんだよね。
きっと、頭のなかで0.0001秒くらいの間にふたつのカタカナ語が繋がったんだよ。それで言っちゃった。
この言葉を0.0001秒で繋ぐって、言い換えの時にやってることなんだけど時々こんな風にバグる。エスカレーターとタンクトップはバグだね。普段はもっとちゃんと、袖無しとか、超短いやつ、とかと繋がるんだけどね。こういうので脈絡のない言い間違いやっちゃうんだよねー。



特に感慨を持たなかっただろう、彼。
いいよ、それくらいの感じで聞いてくれるのが、スタッフさんも嬉しいよ。

吃りのことを気にしてなくても、
私はきっとこれからも、人生のいろんな場面で吃音を軸に考えて、話して、人と関わっていく。
私は彼に指摘されたとき、吃音からは逃れられないよなあ、と悲観的に思ったけれど。

それが私の人生の深みになって、
これからを生きる子どもたちに、私に纏わりつく吃音を見てもらえるのなら。
吃音からは逃れられない。
その呪いを解くことは、できるはず。



なお言い換えの話は特に専門家の意見を聞いたわけではなく、私個人の考えなので吃音の人から反対意見が出るだろうと構えています。ご意見お願いします。



4/10/2024, 1:24:17 PM

春爛漫である。
桜がちょうど盛りを迎え始めた日、私の祖母が天に還った。
ああせっかく、春が好きになりそうだったのに。
学生時代はずっと嫌いだった春。
やっと解放されて、桜の色を心から楽しんで、今年もそのつもりだったのに。
病院へ向かう自転車を漕ぎながら見た桜並木が美しかった。斎場の周りは桜で埋め尽くされていた。そして、桜が散る頃に祖母は荼毘に付される。
思い出がまた増えてしまった。春爛漫の祖母よ。

4/1/2024, 2:58:51 PM

しょうもない嘘ばかりついてきました。

周りから呆れられても嘘をついてきた。切羽詰まってついた嘘も(きっと、他の人が嘘をつく数より)多かったが、今日の懺悔は昨今のSNSで散見されるエイプリルフールの様相に則って
“ふざけてついた嘘”
に限ったものとする。
幼さは言葉を嘯かせる。
言語をコントロールできるというのは恐らくその頃の私が考える以上に尊大な能力である。自分が大人だと思う間は子どもだと言われるように、内省で俯瞰できていない力は全く実になっていないのだ。しかしながら俯瞰のできないうちは今その手の中に可視化される一部を振り回すしかできないまま、その一部分のみを己だけの特権であると思い込むしかできない。
ゆえの危うさを伴うのが幼い時分である。
嫌いという単語しか知らないから、些細な争いの度にお友達と絶交を繰り返してしまう。そんな小さな摩擦を繰り返して人は言葉を獲得し、徐々に適切な言語を扱って身辺を淀み無く廻すことが可能になるのだ。いつしか単語は自分の気持ちを越え、現実を越え、創造さえも可能にする。沢山の書物を読み言語を蓄えた今、私は文字だけで数多のユーモアを生み出す側の大人になるのだ。



これが十代の私であった。

危うい。顔から火が出る。このガキ、危うすぎる。

はじめてのスマホ、はじめてのSkype、はじめてのLINE、Twitter。色んなところでふざけた嘘をついた。嘘でしかないのだが当時の私にとってはユーモア表現だった。画面越しに友達がいて、私の文字を楽しんでいてくれている。そんな思い込みの上で成り立つ会話の時間に私のテンションは右肩上がり。
一人で思い付いたおふざけを全てさらけ出した。
恥ずかしいのでほんの一部のみ書き出すが、何の注意もなく突然文字化けごっこをしたり、それをあたかも心霊現象かのように振る舞ったり、である。

これが対面なら、あり得ないことを言い出した私の挙動は「ギャグ」である。会話から漫才へ変化するグラデーションがとても淡い大阪という土地ゆえ、相手からツッコミが貰える安心感がある。最も私が日常的に中二病しぐさ満載の痛い人間であればここの認識も変わっただろうが。例えば、談笑中でも突然狐憑きになる素振りをしてしまうとか。(していなかったはず。窓を見てため息をついたり無駄な流し目や伏し目に留めたはず。)
そう、対面であればお互いに設定の嘘というものを共有できるのだ。共有せざるを得ないからだ。
ネットは違った。
相手は見えない。お互いの推量のみで話すしかない。私は暴走しまくった。
もともと会話下手なのである。一人で舞い上がるクセがある。現実では相手の存在に緊張することで会話状態のバランスを保っている。そういう人がネット弁慶になる。
暴走して、収拾がつかなくなって、呆れられていることをようやく察して恥ずかしくなり、無かったことにしてもらう。
何度も何度も繰り返して、違和感に気づいた。
思っているイメージと違うな。
やりたいユーモアと違うな。
ネットにも慣れた。大人らしき人のSNSを見るようになると、テンションの違いを肌で感じた。
このノリ、もしかしたらダサいのかも。

軽いと思っていた手の中のものが、巨大な岩石の塊になる。
文字であり、言葉であった。
嘯きの氷塊が眼前に沈んでくる。
ふざけてひょいと投げたものばかり。空気のように軽いと思っていたのに、実はこんな大きなものだったなんて。
幸いにも押し潰されることはなかった。氷塊は、周囲の人の生暖かい眼差しによってほとんど溶かされていた。しかし氷水を被ってひどく冷えた私は心底反省した。もうこんな嘘はつきません。




今日はエイプリルフールだった。
言葉の魔術師たる皆さん、楽しみましたか?



4/1/2024, 4:12:22 AM

幸せに過ごすための必要経費ってあると思います。


だから幸せにお金を払う。ここで少々の擬人化をさせて頂く。
こいつは幸せという名前の俺の幼馴染みで、俺は彼がどんなときに笑うのか何が好きなのかよおく知っているんだ。そして俺は幸せのヤツが笑っていてくれることを望んでいるのさ。俺は俺の大事な幸せを笑わせるために日がな働いているというワケだ!
どれ今日も幸せの野郎を笑わせてやろう。俺の気性はさすらいの風来坊なんだが、今は幸せが自分のことを笑わせろと俺のとなりでスタンバイしてやがる。判った判った。まずは幸せにセブンイレブンで200円ちょっとするおにぎりを買ってやろう。海苔の巻いていないサーモンハラスおにぎりの美味しさったら無い。普通のおにぎりを2つ買って腹を満たすよりこいつを1つ放り込む方が俺の幸せは笑いやがるんだ。次に電車に乗る。ここでポイントだ。ちょいと無理してでも座席に座ろう。なんなら一本見送ったっていいんだ。少し混んでるな、程度の車内で立っているのが幸せには一番辛いらしい。座る人の顔が一列に隙間無く並び、その少し上にある窓の景色が高速で飛んでいくこのコントラストに酔ってしまうからな。電車に疲れたらカフェで休憩さ。コーヒーは一番安いものでいいんだ。緩急をつけて行動するのが幸せには大事なのさ。最もこの後は仕事だ。夕方まで働いた後、夜にもう一仕事ある。この時間のあいだは幸せに払う金を仕込んでいるのだから、気の毒だが我慢してもらおう。だが安心しろ。明後日、まつ毛パーマの予約をしてやったぞ。ホットペッパービューティーがギフト券をくれたからな。見ろ、これで俺の幸せはしばらく満足げな顔をして隣にいてくれるだろう。
新年度だ。暫くは忙しくて、今日ここに記したような自由気ままな幸せに貢ぐことを俺はしてやれないかもしれない。だが平気だ。俺らにはまつ毛パーマがある。これで今月はなんとか、幸せに過ごそうじゃないか。

3/30/2024, 2:47:39 PM

何気ないふりのように踊りたい。
実は踊りが好きだ。断っておくがプロではない。
そして上手くない。センスとか、ない。

スーパーの中で延々とかかっているあの軽快な謎のメロディ、伝わるだろうか。J-POPのアレンジだったり、オリジナルの販促ソングだったりバリエーションは豊富だが聴くと確実にここがスーパーマーケットだとわかるもの。私はあれを聴くとつい、爪先でリズムを刻んでしまう。昔はバレエのおけいこが終わって迎えに来た母親と、そのままスーパーに行くのがルーティーン。館内のBGMに合わせてその日の振りをさらいながら親の後をついていく幼い私を思い出す。大人になって普段は自分の買い物に手一杯の日々を過ごしているのだが、先日たまたま、人の付き添いという形でディスカウントスーパーに入った。安いお茶のパックを探す相手を尻目に買い物かごもメモもない、必要なものもない身軽な私。頭の中をからっぽにして、スーパーの売場が作る道順に沿って素直に歩く。店内奥の生鮮食品売場にたどり着くと、冷気の漂う空間に流れるのはあの独特なキーボードっぽい音。最近は買い物の思考にかき消されていたのか、めっきり意識してなかったそのBGMに思わず懐かしさを感じた。するとどうだろう、私の足はあの頃のようにステップを刻み出してしまったのだ。バレエ特有の爪先をぴんと伸ばした形で床をトントンと叩き、そのまま足元で小さな弧を描くように動かす。軽快な4拍子に合わせて身体も揺れる。極めて小規模な動きであったが、私は完全にその場で踊ってしまっていた。
はじめの爪先は、無意識の行動。そこからの足先はもう、私の意思の外側にあった。これでも一端の成人女性であるので普段は常識の力を使って押さえつけていたのだが、その日その時は究極的に何も考えていない状態にあったため解放されてしまったのだ。これをきっかけに私は認めた。自分が、音楽を聴くと踊り出してしまう種類の人間であることを。

リズムに乗ったり、ステップを刻むことは私にとって何気ないことなのだ。幼い頃からアンパンマン体操に親しみ、NHK教育の提案する様々な幼児体操を完璧に覚え、地域の盆踊りが人手不足で無くなった時には悲しみのあまり親の膝で号泣する子どもだった。残念ながら従来の運動神経の無さを発揮して、習い事としての踊りはどれも中途半端に終わってしまったがそれでも私は踊りが好きで仕方がない。帰りの坂道でツーステップくらい、本音では気軽にやらせてほしいのだ。例えその様子がどんなに不格好でも…。振り付けを考えるのも好きだし、振り付けを覚えるのも未だに得意だ。ラジオ体操は大人が合法的にリズムに乗れるので大好きだ。
身振り手振り、何気ないふり。
何気ないふりの中に、信号待ちのピルエットを含んでくれないだろうか。
周りの人も是非、何気ないふりを装って、一回転もできない私の側から避けてくれ。

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