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しょうもない嘘ばかりついてきました。

周りから呆れられても嘘をついてきた。切羽詰まってついた嘘も(きっと、他の人が嘘をつく数より)多かったが、今日の懺悔は昨今のSNSで散見されるエイプリルフールの様相に則って
“ふざけてついた嘘”
に限ったものとする。
幼さは言葉を嘯かせる。
言語をコントロールできるというのは恐らくその頃の私が考える以上に尊大な能力である。自分が大人だと思う間は子どもだと言われるように、内省で俯瞰できていない力は全く実になっていないのだ。しかしながら俯瞰のできないうちは今その手の中に可視化される一部を振り回すしかできないまま、その一部分のみを己だけの特権であると思い込むしかできない。
ゆえの危うさを伴うのが幼い時分である。
嫌いという単語しか知らないから、些細な争いの度にお友達と絶交を繰り返してしまう。そんな小さな摩擦を繰り返して人は言葉を獲得し、徐々に適切な言語を扱って身辺を淀み無く廻すことが可能になるのだ。いつしか単語は自分の気持ちを越え、現実を越え、創造さえも可能にする。沢山の書物を読み言語を蓄えた今、私は文字だけで数多のユーモアを生み出す側の大人になるのだ。



これが十代の私であった。

危うい。顔から火が出る。このガキ、危うすぎる。

はじめてのスマホ、はじめてのSkype、はじめてのLINE、Twitter。色んなところでふざけた嘘をついた。嘘でしかないのだが当時の私にとってはユーモア表現だった。画面越しに友達がいて、私の文字を楽しんでいてくれている。そんな思い込みの上で成り立つ会話の時間に私のテンションは右肩上がり。
一人で思い付いたおふざけを全てさらけ出した。
恥ずかしいのでほんの一部のみ書き出すが、何の注意もなく突然文字化けごっこをしたり、それをあたかも心霊現象かのように振る舞ったり、である。

これが対面なら、あり得ないことを言い出した私の挙動は「ギャグ」である。会話から漫才へ変化するグラデーションがとても淡い大阪という土地ゆえ、相手からツッコミが貰える安心感がある。最も私が日常的に中二病しぐさ満載の痛い人間であればここの認識も変わっただろうが。例えば、談笑中でも突然狐憑きになる素振りをしてしまうとか。(していなかったはず。窓を見てため息をついたり無駄な流し目や伏し目に留めたはず。)
そう、対面であればお互いに設定の嘘というものを共有できるのだ。共有せざるを得ないからだ。
ネットは違った。
相手は見えない。お互いの推量のみで話すしかない。私は暴走しまくった。
もともと会話下手なのである。一人で舞い上がるクセがある。現実では相手の存在に緊張することで会話状態のバランスを保っている。そういう人がネット弁慶になる。
暴走して、収拾がつかなくなって、呆れられていることをようやく察して恥ずかしくなり、無かったことにしてもらう。
何度も何度も繰り返して、違和感に気づいた。
思っているイメージと違うな。
やりたいユーモアと違うな。
ネットにも慣れた。大人らしき人のSNSを見るようになると、テンションの違いを肌で感じた。
このノリ、もしかしたらダサいのかも。

軽いと思っていた手の中のものが、巨大な岩石の塊になる。
文字であり、言葉であった。
嘯きの氷塊が眼前に沈んでくる。
ふざけてひょいと投げたものばかり。空気のように軽いと思っていたのに、実はこんな大きなものだったなんて。
幸いにも押し潰されることはなかった。氷塊は、周囲の人の生暖かい眼差しによってほとんど溶かされていた。しかし氷水を被ってひどく冷えた私は心底反省した。もうこんな嘘はつきません。




今日はエイプリルフールだった。
言葉の魔術師たる皆さん、楽しみましたか?



4/1/2024, 2:58:51 PM