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吃音からは逃れられないのだなあと思う。

教員の仕事を初めて、今のところ、教室の誰からも吃りを指摘されていない。
私が教職課程を受け始めた頃、先生に泣きながら相談した吃音の問題は今のところ仕事面で課題に至っていない。
もちろん全く吃りが無くなっているわけではない。
名前を呼ぶのに毎回つまる子どもがいて申し訳ないなと思うし、職員同士の会話など緊張の塊でどもりまくっていると思う。それでも優しい世界である。大丈夫、吃音については、教育実習時代に中学生の前で思いを込めたスピーチをして、乗り越えた。吃音という障害を一番辛く感じていた苦しい記憶ばかりの母校で、私はそれを払拭した。
もう大丈夫だと思った。


「なんで、ああああ、ってなってるん?」

掛け持ちで働く放課後等デイの小学生に、初めて言われた時。

頭が真っ白になった。
この一年間だれにも指摘されなかったのに。
そんなに酷くないと思ってたのに。
いつ言ってた?さっき?記憶にない。感知できなかったくらい、自分が意識してないだけだった?

そのデイでもこれまで、他の子どもから吃音の指摘は無かった。
ST(言語支援)を中心に運営するデイなので吃音の子どもはいつも在籍しているが、子どもたちに吃音という概念はほとんどない。
私もまあ豪快にどもることもあったが、スタッフの受け入れにも恵まれて何の問題もなく働いているつもりだ。
これを言ったのは高学年の男の子。手帳を持っているが現在は少し学習面で遅れを取っている程度の発達障害と、自宅で家族から虐待を受けているメンタルケアで来所している。私の入職から半年ほどの間は勤務日と来所日が合わず、最近やっと互いに慣れてきたかなという時期だった。
これ以来、彼からよく吃りの指摘が入るようになった。

吃りは指摘をしないべきだと、吃音対応の教本にも書いてある。これは当人にどもったという意識を持たせず、自然な状態で話させるのが良いとされるからだ。この良いというのは対症療法ではない。吃音ケアというのはSTによる口腔や咽頭を使う実技指導以外は専ら心理的負担を減らすことだ。吃音の原因というのは今だ解明されない。ただ悪化する要因には、本人が吃音に対して抱くさまざまなネガティブ感情が作用する。緊張、嫌悪、話すことへの恐怖が吃音を加速させるのだ。当人にとってはスムーズに話せているというイメージを持ったまま吃り続けられるのが理想なのである。

で。
今の私はありがたいことに、頻発をやっても難発を繰り返しても随伴運動がうるさくても自分自身はケロッとしている、という理想的状態にいられている。
吃音のままではあるが、吃音の呪いからは逃れられたのだと思った。

吃音の指摘は当人にとって、結構つらい。
吃音の呪いがぐさぐさ刺さる。昔の私だったら泣いていた。
これをどうやって伝えたらいいのだろうと悩み、今のところは軽口を実践している。
せやねん、どもるねん。
頑張って喋ってるから、あんまり言わないであげて。

軽口を続けるのはよくないと思う。指摘を日常的会話だと思われてしまうのは、指摘をする彼にも、いつか彼の周りに現れる他の吃音当事者にも辛いことだ。だから、指摘された以外の場でーー私が軽口に逃げなくても問題ない会話の中で、吃音の人の生き方というものと出会ってほしいなと考えた。

その1つがこれだ。
言い間違いの話になった。

私はよく言い間違いをして、それに対して吃音的な見解を持っているので、彼の子どもらしい「言い間違えた~!」というトークにこんな観点で乗っかった。


私もよく言い間違えるねん。
昨日もタンクトップの写真見てタンクトップって言おうとして、エスカレーターって言っちゃった。
でも私はこれ、自分が「言い換え」をよくやるからだと勝手に思ってるんだよね。
「言い換え」って、吃音の人がやるねん。喋られへん言葉を言いそうになったら、頭のなかで一瞬で別の言葉やけど意味が伝わるものを探してすぐ言い換えるねん。
で、多分だけど私は実感として思うよりずっとずっと僅かに、タンクトップって言葉に緊張したんだろうね。
私はその10分くらい前に別の会話でエスカレーターって言ってたの。エスカレーターも私の苦手な言葉でさあ、緊張したんだよね。
きっと、頭のなかで0.0001秒くらいの間にふたつのカタカナ語が繋がったんだよ。それで言っちゃった。
この言葉を0.0001秒で繋ぐって、言い換えの時にやってることなんだけど時々こんな風にバグる。エスカレーターとタンクトップはバグだね。普段はもっとちゃんと、袖無しとか、超短いやつ、とかと繋がるんだけどね。こういうので脈絡のない言い間違いやっちゃうんだよねー。



特に感慨を持たなかっただろう、彼。
いいよ、それくらいの感じで聞いてくれるのが、スタッフさんも嬉しいよ。

吃りのことを気にしてなくても、
私はきっとこれからも、人生のいろんな場面で吃音を軸に考えて、話して、人と関わっていく。
私は彼に指摘されたとき、吃音からは逃れられないよなあ、と悲観的に思ったけれど。

それが私の人生の深みになって、
これからを生きる子どもたちに、私に纏わりつく吃音を見てもらえるのなら。
吃音からは逃れられない。
その呪いを解くことは、できるはず。



なお言い換えの話は特に専門家の意見を聞いたわけではなく、私個人の考えなので吃音の人から反対意見が出るだろうと構えています。ご意見お願いします。



5/23/2024, 2:04:12 PM