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3/29/2024, 3:22:18 PM

今日の区切り、つけてますか?

本日のお題はハッピーエンド。壮大な結末の話は置いておいて、単純に私たちが身近に構築しているエンディングといえば地球の自転に伴う24時間の切れ目のこと。どんな人でも、どんな時でも、その日を終えるという仕事があります。毎日がハッピーエンドにならなくたって、1日の終わりがハッピーである比率が年々上がれば嬉しいです。
ところで一日というのを、世間の皆さんはどこで区切っているのでしょうか。零時の瞬間?眠りにつくこと?逆に朝の目覚めで切り替えている方もいるかも。一日のサイクルが24時間とは異なる方もいらっしゃるでしょう。仕事の終業が一日の終わりに直結するというのも聞きます。
昔、ハムスターを飼っていました。人間の一日はハムスターの四日に相当すると聞いて、室内飼育の彼らにとって一日とはどのようなものなのか想像しながら、回し車を走らせる姿を眺めたものです。
とにかく走る。とにかく眠る。さて残念なことに私たちにとっての一日はそんながむしゃら一方通行の行動だけでは構成されません。少し前までは零時をしっかり認識していました。零時を過ぎても続けている勉強や課題は一日で終えられなかったタスクとして、一日を伸ばすのではなく二日目に渡ってしまったものとして朝まで処理していました。変化はポケモンを育て始めたことです。あのアプリでは朝の6時で一日が終わり、はじまります。
就寝目標は零時五十分。
リミットは一時二十分。
今の私にとってその日の終わりはこの就寝リミットの時間です。
大抵ここまで粘ってしまって、リミット2分前にポケモンにエサをやって勢い良く就寝ボタンを押します。
この駆け込み感を持って、一日の終わりを実感するようになりました。
閉門に向かって走るような。チャイムに急かされるような。そんな気持ちです。
そしてそこから、本当に眠りつくまでの数十分はボーナスタイム。
思考を整理し、幸せな夢を見られるよう努力をする時間です。
このボーナスタイムさえ穏やかに過ごせたならば、最近の私はハッピーエンドということにしています。瞳を閉じた瞬間に心が荒れ狂う日も毎月ありますが、そんな時は仕方がない。
ざわざわとした心をなんとか落ち着かせて、大丈夫という気持ちの中で眠りにつけたら、私の一日は終わりです。
今日は散々でした。PM2.5も大変でしたね。
しかしこの文章を書いて、しばらく皆さんの文を読んで、急いでカビゴンのところへ行って、やっと目を閉じる頃には、私の心は凪いでいる気がします。
それでは皆さん、おやすみなさい。
一日の終わりを構築する全ての人へ、
ハッピーエンドが訪れますよう。

3/28/2024, 4:11:45 PM

友人に見つめられた。
それは恐らく3秒にも満たないふとした時間だったのだけれど、当時の私はその3秒間が泣きたくなるほど長く感じた。怒られるのかと思って。
何気ない、何事もない一日だったはずだ。私たちはお互いに花の無い女子高生であった。ふざけあって品はあまり無くて、名字の呼び捨てで互いを呼び合うようなロマンのない日々を過ごしていた。
そんな相手に見つめられると。
なぜ私はあんなに怯えていたのだろう?


あの頃は大抵、接触といえば私からするもの。あんた、パーソナルスペース皆無!そう言われながら腕にまとわりつき、肩に手を置き、相手の懐に入り込んだ。厳密にはパーソナルスペースの問題ではなく、単に私のコミュニケーション経験不足から来る「相手の私物化」だったのだと思う。なので時折相手から肩を掴まれたり腕を取られると、想定外ゆえ毎回ビックリしていた。私は好意で触れるけど、相手からの行動に好意があると信じられず、むしろ緊張して不安になった。
あの日もそうだった。廊下を共に歩いていた。会話が終わって、そこから黙ったままの彼女にふと見つめられて、とても驚いていた私。なぜこのような時間が起こったのか理解できなかった。よくわからないけど、私が何か粗相をしたのかと思った。見つめられている。違和感がある。泣きたくなるほど長かったほんの3秒ののち、ポツポツとしたテンポで彼女が次の会話を始めた。動揺したままの私は情けなくこわばった声色で相槌を返すしかできなかった。会話が終わった。とてもしょうもなかった。いつの間にか校舎間の渡り廊下から目的のロッカー前までたどり着いていて、お互いに足を止めた時に私はへにょへにょの声でこの緊張を告白した。

今、あなたに怒られるのかと思った。


ところで実際の私たちは大阪の女子高生であった。
なので私に疾風怒濤の感情をもたらした彼女はあっけらかんとこう言った。

そんなわけないやん!


そうだよね、そんなわけないのにね。口では「なんか黙られて緊張したんやもん~」とうだうだ返して終わった話だ。彼女にとっては本当に、ほんの数分の何気ない一幕。
でも私はずっと、あなたに怒られるのを待っていた気がする。
私たちは一年半前、同じ部活に同時に入りそして泣きながら袂を分かつ経験をした。なんの心づもりもなく入った文化部で、スポ根漫画もびっくりの活動に飲まれたのだ。誘ったのは彼女で、私は誘われた側。真面目な我々はなんとか頑張ろうとしたが、夏には既に大泣きしながら参加していた。彼女は辞めた。私は流されるままヨロヨロと続けた。
彼女との間に禍根を残したくないなら、同時に辞めるべきだった。でも私はそれをしなかった。彼女も望まなかったのだろう。なのに私は後ろめたい思いでいっぱいだった。その後も私たちは大事な選択がいつも違った。選択コース。検定試験。就職と受験。その度に私の心には後ろめたさが募っていた。同じ教室にいても、少しずつずれていく。同じ趣味なのに、話していたら楽しいのに、戻らないものばかりで怖かった。私の決断を、いつか彼女に糾弾されるんじゃないか。私がまだ部活を続けていることを、彼女が見限ったものを続ける私のことなんて憎いのではないか。それが私の怯えだった。
いつの間にか漫画やゲームのしょうもない会話が私の虚飾となっていた。その会話を通してさえいれば心から楽しめる。しかしそれが無くなると私は不安でたまらない。あの日もそうだった。最初はそんな話ができていた。だけど廊下を歩いている時は、きっともっと、日常的な話題に移っていたのだと思う。後ろめたさを隠すための道具がどんどん使い物にならなくなっていく。話題が徐々に、素の状態に近づく。自分すら気付かなかったカウントダウンが恐らくあった。そして起こった視線の交差、一瞬の沈黙。



私と彼女は同じ趣味だ。出会いから十年、仕事や当落を励まし合って今日も推しを拝んでいる。
部活なんて言葉はもう滅多に出てこない。大人になれば趣味以外何もかも別というのが当たり前になって、もうお互いの選択で泣いたりなんかしない。
でも私は、今もあの頃の後ろめたさを覚えている。こんな感情を抱いていたのだということを隠しているまま、高校生のような遊び方で笑いあう。
だからまだ、不安なままだ。
私、ちゃんとあなたと友達になれてるのかな。
今だってあなたに見つめられると、私は怯えてしまう気がする。

3/27/2024, 2:49:17 PM

ハートのかき方を練習していた。
この経験の有無は人によって様々だと思われるが、 私は一生懸命おしゃれなハートの形を模索していた日のことを覚えている。

自分のものを周りと見比べると、毎度のように自分が劣っていると感じていた。精一杯選んだ筆箱も、何冊もの中から決めたノートも、雑誌に載っているのを見て買った服も、学校に持っていくといつも決まって恥ずかしくなった。私はなんであっちを選ばなかったんだろう、お母さんの顔色を伺ったばかりに、もうこんなの持っていられない。私のものは全部まちがいで、お友達のものが正解に思えた。
ハートの形もそうだった。
授業中に回ってくる手紙のハートマークには流行があった。私のハートマークはお母さんに習ったもので、ちょうどこのアプリのそれと似ている。優しいなだらかな形を母は好んでいた。子どもが絵を描けばどこかにハートが紛れ込むもので、歪なハートマークは皆それぞれ形が違い、幼心に興味深かったものだ。そんなハートマークに流行が現れて、瞬く間に皆はお揃いのハートを描くようになった。少し細長い、ラフな筆致のそれこそが最も洗練されたハートマークであった。
そういうムーブメントにいつも乗り遅れていた。
疎い私が気付く頃には、やってないのは自分だけ。
そういうことがいくつもあった。
学年が上がってもあった。何度もあった。
私は慌ててハートマークを練習する。
丸いハートも流行った。ぷっくりとした表現も描き入れた。影の付け方。プリクラ機の場合。皆と同じハートが描けるように。

あれから随分経って、最近私は1人の友人と会うたびに手紙を交換している。ほんの思い付きで、文末にハートマークを添えた。描いたのは、母に教わった優しいハートの形だった。
私は未だに絵文字のハートマークをつけるのは恥ずかしいのか、何色のハートならおしゃれなのか、ハートの種類はどれが可愛いのか、そういうことを逐一気にしている。自信がないので、相手から送られるものと同じハートを同じ用法で返すというのが常態化している。そんな私のハートマーク。
無意識のうちに表れた、久しく忘れていた曲線。
素朴な形かもしれない。
それでも愛しい。
私らしいハートだと、手紙の相手に感じてもらえたら嬉しいな。

3/26/2024, 3:38:41 PM

ないもの、とは不思議な日本語だ。ないものという4文字をそのまま見ればないものねだりという語の定義になってそのまま解説になる。たべもの、のみもの、ないもの。無いのだから、無いと言うのはあなたの足元や卓上を手でサッと掃いてみても何もぶつからないという状態なのだから、そこにものを見いだすことはないのに。そしてただ物をねだったら良いだけなのに。わざわざ、ないと言う。ないものねだりである。