『世話係よ。バタフライエフェクトという言葉を知っているか?』
そう口にしながらチラリと世話係を見るが、彼女は随分と興奮しているようだ。私は視線を合わせないようにそっぽを向きながら話を続ける。
『蝶の羽ばたきのような些細なことでも、空気が攪拌され、やがて遠い地の気象を変化させる可能性がある。という、まぁカオス理論の例え話だな』
視線を合わせようとしない私に業を煮やしたのか、世話係はその大きな手で私の頬を掴み、無理やり顔を突き合わせ、何事かわからない唸り声をあげていた。
いつもながら大きな顔に、大きな声だ。
『君が怒りを覚えているのは、おそらくこの部屋の状態なのだろな』
部屋は、心地よくなる程度に物が散らかり、至る所に潜り込める隙間を作り出していた。
いつもの無機質なまでに隠れる場所がない部屋より、よほど居心地が良いはずなのだが、どうにも彼女はそれが気に食わないようだ。
『確かに、この部屋の模様替えのきっかけは、私のたった一回のジャンプが原因かもしれない。しかしそれは蝶の羽ばたきと一緒さ、あとは勝手にこうなったのだ。私の責任ではない』
怒鳴り続ける彼女に私は物の道理を説く。しかし残念な事に私の意思は彼女には伝わっていないのだ。
彼女は身体も大きく力も強いのだが、意思疎通の仕草を理解することが、まできないようなのだ。それに狩も下手だ。
つまり、まだまだ子猫なのだ。
子猫の機嫌が悪く威嚇してきたとしても、成猫が本気をだすわけにはいかない。成猫は子猫を教え導く存在なのだから。
だから私も彼女の怒鳴り声に、あくびを返し大人の余裕を見せる。
すると彼女は大きなため息を吐くと私を解放し、部屋に転がっている物を集め始めた。
どうやら部屋を元の状態に戻すつもりのようだ。もったいない。
しかし、彼女も大人になれば隠れ場所の多い部屋の良さに気づくはずだ。それまでは根気強く今日のようにプレゼンテーションしていくしかないか。
全く。手のかかることだ。
// 些細なことでも
心に灯火をともしたのなら、
それは心の内側のずっと奥を照らしてくれるのか。
それとも周囲を照らしてくれるのか。
願わくば、
暗闇を切り裂いて、
ずっと遠くまで光を届け、
人々がその光を目印に進む。
そんな灯台のように輝きたいものだ。
// 心の灯火
品性がない。
知性に欠ける。
人間として不完全。
そんな事を他人から言われたことはあるだろうか。
僕はよく言われる。
だからだろうか、
完全な僕とは?
不完全な僕とは?
なんてことを最近よく考える。
朝も昼も夕方も、
夜になっても延々と考えて、
わかったことは、
僕は――いや、人間は不完全であり、
そして完全なのであろうということだ。
例えば、
今日という日から過去を振り返ってみると、
今の僕が完成するために歩んできた日々が思いだせる。
人として欠けていても、不足していても、
それこそが今の僕を僕として構成するパーツだ。
つまり完成した、完全なる僕だ。
翻って、
今日という日から未来を想い浮かべてみると、
今の僕よりも多くのものを取り込んで成長している僕の姿が見える。
その姿と比べると、今の僕は足りないものだらけの未完成品。
つまりは不完全な僕だ。
母のように、
「今の貴方で充分だから、心配しないで」
と慰めてくれる人は、
現在の完成された等身大の僕を見てくれているのだろう。
「人間として不完全」
なんて言ってくる人は、未来の僕を思い浮かべて
今の僕の不完全さを教えてくれているのだろう。
『世の中は悪い人ばかりではない』
他界した父が言っていたことは本当だったのだ。
しかし、そうだとすると、
新しい父が言っていた、
「気味の悪いガキだ」
とは、
どういった意味になるのか?
まだまだ、世の中は分からない事が多い。
// 不完全な僕
「言葉はいらない、ただ……ただ、儂はこの塔を完成たいんじゃ!」
儂の叫び声に周りにいた仲間の作業員どもは、ただぽかんっとしていた。
まるで儂の言葉の意味が理解できなかったように。
いや実際のところ、理解できなかったのだろう。
つい先ほど、神が地に降り立ち人間から言葉を取り上げていったから。
天罰なのだろう。
王族が不興をかったのか。
民から信心が失われていたのか。
それとも、天にも届くほどの塔を作ろうとしたからか。
何が悪かったのか確かめようもないが、いずれにしろ人間は神を怒らせてしまった。
それでも儂はこの塔を完成させたかった。
雲を突き抜け、天高くそびえる塔をこの地に。
幸いなことにいま傍にいるのは長い年月、苦楽を共に過ごしてきた仲間たちだ。
言葉が通じなかったとしても、儂の心意気は通じる。そう信じていた。
しかし彼らは儂の言葉に応えるわけでもなく、鳥のような牛のような馬のような獅子のような、様々な生き物の鳴き声のような言葉を発しながら、この場から、そしてこの地から去っていった。
儂はただ、取り残された未完の塔が朽ちていく姿を見守る事しかできなかった。
何日も、何ヵ月も、何年も。
やがて塔に途中まで積み上げられていた柱や壁も風化しはじめ、塔は崩れ大地へと帰りこの世から姿を消した。
後に『バベルの塔』と呼ばれる塔であった丘のふもとで、儂はいまだに天を衝く塔を夢想して過ごしている。
// 言葉はいらない、ただ・・・
「忘れもしない、あれは1998年7月25日。
酷く暑い日の昼下がりだった」
「またその話か、勘弁してくれよ……
あぁ、あの日は暑かったな。酷く暑かった」
「あの日も今日と同じように、
冷えたビールを片手に映画を観ていたんだ。
観ていたのは確か……
『My Neighbor Totoro』だったかな」
「いや、『Porco Rosso』を観てたよ。
間違いない」
「そうだったか?
まぁ、そうだったかもな。
とにかく、そんな平和な時間を過ごしていたら、
ビル、君たちSWATが来たんだよな。
うちの玄関を蹴破って」
「SWATと麻薬取締局の合同チームだよ。
麻薬捜査官が主導権を握ってた」
「で、君らは僕に言うわけだ、
『ブツはどこに隠した!』て鬼の形相でね。
僕は咄嗟に『ベッドの下です!』て叫んでたよ」
「あぁ、それでベッドをひっくり返して、
大量に出てきたアニメビデオの山を見た時の
麻薬捜査官どもの顔ときたら!
傑作だったね!」
「宝の山を見つけたクック船長のような?」
「そんな顔するのはお前くらいなもんさ、ジョージ」
「ビル! 同志よ!
君も似たような顔してたぜ!」
「俺はもっと理性的で
渋みのある顔付きをしてたと思うがね」
「毎週、うちにアニメを観にくる男は、
もっと締まりのない顔してるけどね。
ビルって名前なんだけど」
「ぬかしてろ」
「まぁ、これが麻薬取締局が家を間違えた事件と
僕が親友を得た顛末なんだけど……
連邦捜査官殿、今日またうちの玄関が蹴破られ、
突然の君の訪問。なわけだけど、
これもまた誤認だと思うよ?
いや、いまの段階で誤認というのは行き過ぎかな。
何れにしろ、僕達はもっと理解し合う必要がある。
そうだろ?
……それでその……
そろそろ銃を下ろしてくれると、
ありがたいんだけど……」
// 突然の君の訪問。