『風に乗って』
風が吹く。
髪が靡く。
心が揺れる、良い方に。
足が少し軽くなる。
どこへでも行けそうな気がするだけで、充分だった。
風はやがて止む。
髪が、元の場所に戻る。
心だけが、そのままでいた。
『刹那』
言葉にした瞬間、もう違う。
そう気づいたのはいつからだろう。「好き」と口にするより先に、その感情はすでに形を変えている。声に乗せるあいだに、何かが剥がれ落ちる。残るのは正確な複製ではなく、近似値。それはもう、嘘の一種だ。
感情というのは、名前を持たないうちが一番純粋なのかもしれない。胸の奥で火花のように散って、まだ何ものでもない、あの一瞬。それを「切ない」と呼んだ途端、輪郭ができて、温度が下がって、标本のように固まってしまう。言葉は救済でもあるが、同時に、感情の死亡診断書でもある。
刹那、という字がある。仏教では七十五分の一秒、あるいはそれよりもずっと短い時間の単位だという。人が「感じた」と認識するより前に、すでに無数の刹那が生まれ、死んでいる。だとすれば、私たちがどこかで感じたと思っているものの大半は、記憶が後から作り上げた物語に過ぎない。感情の実物など、最初から誰も触れたことがないのかもしれない。
それでも人は言葉を探す。
嘘だとわかっていても。近似値しか掴めないと知っていても。むしろその不完全さに縋るようにして、「愛している」と言う。「悲しい」と言う。言葉が感情を裏切るたびに、また新しい言葉を重ねる。その連鎖が、どこか愛おしい。
私はあなたに、本当のことを言ったことがあるだろうか。
声にした瞬間に零れ落ちるものを、あなたはどこかで受け取ってくれているだろうか。言葉の隙間に滲んだ、あの、まだ名前のない感触を。
『生きる意味』
生きている意味なんてない、という人がよくいます。まるで、それを作るのが人生だとでもいうように。
私はそうなのかもと思うと同時に、それは寂しいことだとも思います。
意味を自分で作るというのは、裏を返せば、誰もそれを用意してくれなかったということでもあります。生まれてきたときから手の届くところに置いてあってほしかった。そういう子どもみたいな願望を、大人になってもどこかに抱えている気がします。
空っぽのものを満たしていくのが人生だとするなら、その空っぽさをはじめて発見した瞬間の、あの途方に暮れた感じはどこへ行くのでしょう。なかったことになるのでしょうか。それとも、満たされていくそばから、静かに溶けていくのでしょうか。
私には、まだわかりません。
ただ、意味のない人生を一生懸命に生きている人の横顔を、私はときどき美しいと思います。それは悲しみに似ていて、でも悲しみとは少し違う。なんと呼べばいいのか分からないまま、ただ目に焼きついています。
もしかしたら、意味があるかどうかよりも、それを問いつづけることのほうが、生きることに近いのかもしれません。答えが出ないまま、それでも朝になれば起き上がって、なにかを食べて、また夜を迎える。その繰り返しのなかに、言葉にならない何かが宿っているような気が、どうしてもしてしまうのです。
『善悪』
世間はよく、優しい人のことを「良い人」だと言います。私も言います。
ですが、良いこととは一体何なのでしょう。人に優しくあることでしょうか。
でしたら、優しいとは何でしょう。自分の身を削って尽くすことでしょうか、それとも他者に分け与えられる余裕でしょうか。
前者であれば、優しさは消耗を前提にしていることになります。後者であれば、余裕を持てない人には優しさを持てないことになります。
どちらも、少しだけ息苦しい。
ではそもそも、「良い」とか「優しい」とかを、誰が決めているのでしょう。受け取った人でしょうか。与えた人でしょうか。それとも、少し離れたところから眺めていた第三者でしょうか。
思えば、善意というものは、行為の内側には存在しないのかもしれません。誰かの視線に触れたとき、初めて「善」という名前をもらう。それまでは、ただの動作に過ぎない。
とすれば、良いことをするためには、見られなければならない。見られることで初めて、それは意味を持つ。
なんとなく、そこに居心地の悪さを感じます。見せるために善くあるのではない、と誰もが言います。私もそう思いたい。けれど、誰にも知られない善意が、果たして「善」として存在し得るのか。私にはまだ、うまく答えられません。
『流れ星に願いを』
私にはたくさんの願いがあります。
とってもたくさんです。
どんなことと聞かれれば、まず本が欲しいです。それもたくさんあります。本以外にも、たくさん。だからお金が欲しいです。
お金があれば、もっとたくさんのことができます。旅行に行けます。美味しいものも食べられます。素敵な服だって着られます。きっと、もっと素敵な暮らしができます。
そうしたら、今よりも幸せになれるはずです。
でも待って。幸せになったら、その先にまた欲しいものが生まれます。きっと生まれます。もっと遠くへ行きたい、もっと美味しいものを、もっと素敵な、もっと、もっと、
流れ星は、一瞬で消えます。
願いを言い終わる前に。
だから私はずっと、夜空を見上げています。次の星が落ちてくるのを待ちながら、まだ言葉にできていない願いを胸の中で並べ直しています。いつか全部、言い終えられると信じながら。
でもたぶん、言い終えることはないのだと、どこかで知っています。星が尽きるより先に、願いが尽きることはないから。
それでも私は、目を細めて空を見ます。
欲しいものが、また一つ増えました。