たかなめんたい

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『善悪』

世間はよく、優しい人のことを「良い人」だと言います。私も言います。

ですが、良いこととは一体何なのでしょう。人に優しくあることでしょうか。
でしたら、優しいとは何でしょう。自分の身を削って尽くすことでしょうか、それとも他者に分け与えられる余裕でしょうか。

前者であれば、優しさは消耗を前提にしていることになります。後者であれば、余裕を持てない人には優しさを持てないことになります。

どちらも、少しだけ息苦しい。

ではそもそも、「良い」とか「優しい」とかを、誰が決めているのでしょう。受け取った人でしょうか。与えた人でしょうか。それとも、少し離れたところから眺めていた第三者でしょうか。

思えば、善意というものは、行為の内側には存在しないのかもしれません。誰かの視線に触れたとき、初めて「善」という名前をもらう。それまでは、ただの動作に過ぎない。

とすれば、良いことをするためには、見られなければならない。見られることで初めて、それは意味を持つ。

なんとなく、そこに居心地の悪さを感じます。見せるために善くあるのではない、と誰もが言います。私もそう思いたい。けれど、誰にも知られない善意が、果たして「善」として存在し得るのか。私にはまだ、うまく答えられません。

4/27/2026, 3:29:38 AM