『夢が醒める前に』
静寂が部屋を満たす、真夜中の孤独な時間である。
耳に入ってくるのは、少し開けた窓から入ってくる風の音と、道路を通る車のエンジン音だけだ。
日中の喧騒や、他者の視線を気にして無意識に張り詰めていた心の糸が、ここではゆっくりと解けていく。
ただ一人、薄明かりの中で深呼吸をする。
外の世界のノイズから切り離されたこの場所では、思考を覆っていた靄が晴れ、本来の自分の輪郭が静かに浮かび上がってくるように思える。
誰のために取り繕う必要もなく、過去の役割をなぞる必要もない。
心の奥底で温めていた記憶や、ふと思い描いた景色に触れ、自然と口元が綻んでいくのを感じる。
何にも邪魔されない、この澄み切った心の状態は、あまりにも心地よく、まるで美しい幻のようである。
けれど、人はどんなに尊い安らぎであっても、いつしかその存在に慣れていってしまうものだと思う。
自分自身と穏やかに対話できるこの不可侵の領域も、繰り返す日々の中で、いずれは日常の一部として埋没していくのかもしれない。
そして夜が明ければ、再び目まぐるしい現実の波が押し寄せ、今のこの透き通った感覚さえも、朝霧のようにかき消されてしまうだろう。
だからこそ、今、確かにここにある満ち足りた静穏を、深く心に刻み込んでおきたいと思うのだ。
これが当たり前になる前に。この夢が醒めてしまう前に。
『不条理』
自分が嫌いだ。いや、正確には好きでもある。
この矛盾こそが、生きて息をしているという証なのかもしれない。
朝、鏡の前に立つ寝癖だらけの自分を見てはため息をつき、うまくいかない現実に落ち込んで、どうしようもなく自分が嫌になる時がある。
けれど、帰り道に見つけた小さな野花にふと立ち止まれることや、誰かのために淹れたコーヒーの香りに心底ほっとできる自分のことは、少しだけ誇らしく思えたりもするのだ。
嫌いな部分と好きな部分が、まるでつぎはぎの毛布のように私を包んでいる。
不器用で、いびつで、決して完璧ではないけれど。冷たい風が吹く日には、その不恰好な毛布が案外あたたかいことに気づく。
どうしようもない欠点ばかりが目につく日もあれば、ほんの小さな優しさに自ら救われる日もある。私はきっとこれからも、この厄介で愛おしい自分と付き合っていくのだろう。
そんな不条理も、悪くない。
『怖がり』
新しい靴は、まだ足に馴染んでいない。 少し歩幅を広げるだけで、アスファルトの上でぎこちない音が鳴る。
幼い頃から、僕は常に安全な道ばかりを選んできた。石橋を叩いて、結局渡らないような人間だ。傷つくことや失敗することを極端に恐れる、筋金入りの「怖がり」である。
今日から始まる新しい生活。見慣れない街並み、初めて降りる駅、そして目の前にそびえ立つ真新しいゲート。 周囲では、期待に胸を膨らませた人々が足早に通り過ぎていく。その中で、僕だけが足の裏を地面に縫い付けられたように動けずにいた。
「やっぱり、僕には無理なんじゃないか」 弱気な感情が胸の奥で渦を巻く。引き返すなら今だ、という甘い誘惑が頭をよぎり、思わずうつむいたその時だった。
ふわりと、どこからか桜の匂いを孕んだ空気が通り抜けた。
春風が、怖がる僕の背中を押す。
それは、ほんの僅かな風の力に過ぎなかったけれど。まるで「大丈夫だ」と誰かに言われたような気がした。
冷たかった指先に少しだけ力が戻る。 完全に恐怖が消え去ったわけではない。それでも僕は一つだけ大きく深呼吸をして、まだ見ぬ世界へと、ぎこちない一歩を踏み出した。
『星が溢れる』
夜の静寂が、冷たい風とともに頬を撫でていく。見上げた空は淀んだ雲に覆われ、期待していた流星群はおろか、瞬く光一つ見つけることはできなかった。
握りしめた手のひらには、もう戻らない時間だけがひっそりと残っている。言葉にできなかった後悔や、手放してしまったものの重さが、胸の奥で静かに、けれど確かに渦を巻いていた。いくら空を見つめても、そこに答えも慰めもないことはわかっていたはずだった。
ふと、視界がゆらりと歪んだ。
暗闇に沈んでいたはずの景色に、無数の小さな光が灯り始める。それは瞬きをするたびに輪郭をぼやけさせながらも数を増し、冷たい夜を優しく照らすようにきらきらと輝いた。
見えなかったはずの光景が、今、私の目の前に広がっている。
頬を伝い落ちる熱い雫が、街灯の微かな光を反射して煌めいていた。
溢れる涙が星に見えた。
『安らかな瞳』
人の目を見て喋れ。そういう言葉が世にはある。
けれど、その正しさが時に少しだけ、息苦しく感じられる日もある。伏せた視線の先にある戸惑いや、言葉を探すためのささやかな静寂を、許してはくれない響きを含んでいるからかもしれない。
だからこそ、おずおずと顔を上げたとき、そこに穏やかな光を湛えた瞳を見つけると、ふっと心の強張りが解けていくのがわかる。
射抜くような強さでも、見透かそうとする鋭さでもない。ただそこにあるのは、冬のひだまりのように柔らかな輪郭を持った眼差しだ。焦らなくていいよと、言葉よりも先に伝えてくれるその瞬きは、こちらの不器用な沈黙ごと、そっと掬い上げてくれる。
無理に目を合わせようとしなくてもいい。自然と視線が交わったその一瞬に、静かな安心を分け合えること。それこそが何よりの対話なのだと、その安らかな瞳は教えてくれる。