『この場所で』
生きている。僕はこの場所で生きている。それは変え難い真実のはずだ。それが嫌ということはないし、嫌なことがあるのは自分から出た錆であることくらいは、重々承知しているつもりだ。
それでも、ふと視線を上げれば、六畳間の窓枠にはいつもと同じように西日が差しているし、読みかけの文庫本は机の上で開かれたまま、僕の帰還を待っている。
「この場所」とは、単なる緯度経度で示される地点のことではない。僕が吸って吐いた息の蓄積であり、選び取ってきた、あるいは選ばざるを得なかった無数の選択肢が積み重なってできた、地層のようなものだ。
錆びついた部分があるのなら、それもまた一つの味わいとして、今の生活に馴染んでいる。美化するつもりはないけれど、この雑然とした部屋の空気は、案外、僕の肌には合っているのかもしれない。
ここから逃げ出したいと願う夜もある。もっと広い世界、もっと鮮やかな景色がどこかにあるはずだと、地図アプリを眺める日もある。けれど、結局のところ僕は、ここでお湯を沸かし、コーヒーを淹れ、今日という日を閉じるのだ。
その繰り返しが「生きる」ということなら、悪くない。そう思えるくらいには、僕はこの場所に根を下ろし始めている。
『誰もがみんな』
誰もがみんな、心を持ってる。
嬉しがったり、悲しがったり、いっぱい何かを感じてる。
けれど、その心の形や色は、外側からはこれっぽっちも見えないから厄介だ。
たとえば、朝の満員電車で足を踏んできたあの人にも、家に帰れば愛する家族がいるかもしれないし、あるいは誰にも言えない孤独を抱えて必死に吊革を握っているのかもしれません。コンビニのレジで無愛想だった店員さんが、実は直前にとても悲しい知らせを受け取っていたとしたらどうだろう。
私たちは、すれ違う他人のことを「背景」か何かだと思い込んでいる節がある。自分だけが物語の主人公で、自分だけが複雑な感情の海を泳いでいると錯覚してしまう。
でも、本当は違う。
誰もがみんな、平気な顔をして、それぞれの地獄や天国を抱えて歩いている。
隣の人の沈黙が、安らぎなのか、それとも助けを求める叫びなのか。
私たちには、その心の蓋を開けて覗き込む権利はないし、透視する能力もない。できることといえば、ほんの少しだけ「想像」することくらいだ。
目に見えないその重さを想像すること。
「もしかしたら」という余白を、相手との間に持っておくこと。
それが、誰もが持っている心に対する、せめてもの敬意なのかもしれない。
『時計の針』
カチッカチッ
と時計の針が進む音が部屋の中に響いている。
普段なら、生活音にかき消されてしまうその無機質なリズムが、今夜はやけに耳につく。まるで「お前は今、何を生産しているのか」と、一秒ごとに問い詰められているような気分になるから不思議だ。
デジタル全盛のこの時代に、わざわざ針のある時計を置いているのは、時間の経過を「数字」ではなく「量」として捉えたいという、私のささやかな拘りだったはずだ。しかし、こうして静まり返った部屋で対峙していると、減っていく残量をまざまざと見せつけられているようで、少しだけ息苦しくなる。
針は止まらない。私の思考が堂々巡りをしている間も、世界は容赦なく前に進んでいる。ふと、スマホの画面を点灯させてみる。音もなく切り替わるデジタルの時刻表示には、あの秒針が刻むような切迫感はない。そこにあるのは、ただ結果として提示される現在地だけだ。
私はまた視線を壁の時計に戻す。カチッカチッ。その音は、私を追い立てる警鐘なのだろうか。それとも、まだここに居てもいいのだと肯定する心臓の鼓動なのだろうか。
『1000年先も』
1000年先の未来は一体どうなっているのだろうか。ガラリと世相が変わっているのか、それとも意外と変わっていなかったりするのか。全然想像できない。
SF映画のように車が空を飛び、銀色のスーツに身を包んだ人々が無機質な食事を摂っているかもしれない。あるいは、一度文明がリセットされ、緑に覆われた大地で素朴な暮らしが営まれているかもしれない。けれど、いくら頭を捻っても、それらはどこか他人事のような「空想」の域を出ないのだ。
ただ、ふと思う。1000年前の平安の世を生きた人たちも、私たちと同じように月を見上げて物思いにふけり、恋に悩み、季節の変わり目に心を揺らしていたはずだ。だとしたら、1000年後の未来人もまた、今の私たちが抱くような「やるせなさ」や「ささやかな喜び」を感じているのではないだろうか。
デバイスがスマートフォンから脳内チップに変わろうとも、移動手段がリニアから転送装置になろうとも、雨上がりの土の匂いに懐かしさを覚えたり、誰かの言葉に傷ついたりする心の働きだけは、そう簡単にアップデートされない気がする。
もしそうなら、少し安心できる。
1000年先の誰かも、今の私と同じように「書くこと」で心の中を整理しようとしているかもしれない。媒体が紙であれ、電子であれ、あるいは空中に浮かぶホログラムであれ、「何かを残したい」という衝動自体は、化石のように残り続けている気がしてならないのだ。
そう考えると、見えもしない未来が、急に少しだけ愛おしく思えてくる。1000年先も、誰かが今日と同じような夕暮れを見て、言葉を探していますように。
『ブランコ』
小さい頃のブランコはまるで空を飛んでるようだった。
大人になった今では、長くなった足を地面につけないように、足を浮かせることに必死になっている。
あの頃は、どれだけ気持ちよく、高く漕ぐかだったのに。
いつからだろう。空の青さよりも、靴のつま先が泥で汚れないかばかりを気にするようになったのは。
錆びついた鎖がきしむ音を聞きながら、私は小さく体を丸める。それはまるで、社会という枠からはみ出さないように、周囲と歩調を合わせるために自分を押し殺している、普段の私の姿そのものだ。
高く漕げば漕ぐほど、視界が開けて風が気持ちよかったあの感覚。頂点に達した瞬間の、重力から解放されるような浮遊感。かつてはそこにあったはずの純粋なスリルは、いつの間にか「落ちたら危ない」「服が汚れる」という、つまらないリスク管理に取って代わられてしまった。
地面を擦らないように必死に足を上げている今の私は、本当にこの時間を楽しめているのだろうか。
私はふと、強張らせていた足の力を抜いてみた。
ザッ、と乾いた音がして、スニーカーの底が砂を噛む。少し舞い上がった埃と、足裏に伝わる確かな摩擦の感触。
減速してゆくブランコのリズムに身を委ねながら、私は苦笑する。地面に足がついたって、靴が少し汚れたって、どうということはないのだ。
空を飛ぶような万能感はもう戻らないかもしれない。けれど、地面を蹴って自分の力で揺れることの心地よさを、大人の私は知っている。
もう少しだけ、この揺れに身を任せてみようと思う。次は、縮こまった足をほんの少しだけ、空の方へ伸ばしてみるつもりだ。