珍しいこともあるもんだ。アイツから「時間がある時会えますか?」なんて連絡がきた。最後にあったのはいつだったか。互いに仕事が忙しくて、たまにメールをするくらいの仲になってしまった。だから直接会うのはかなり久しぶり。俺に会いたいということは仕事のほうで何か嬉しいことでもあったのだろうか。わざわざ呼びつけて報告するなんてよっぽどのことに違いない。まさか海外赴任が決まったのか?だとすると、全力で喜んでくれてやれるかは自身が無い。また簡単には会えなくなってしまうことが確定してしまうから。もしそうなったとしたら、俺は今日、いよいよ彼女に告白すべきなのか。いつまでもこんな適当な関係じゃよくないとは思っている。けれど彼女の仕事の邪魔にはなりたくない。そう思っていたから今まで好きだと告げなかった。でもそれは都合の良い言い訳だったと自覚している。今の関係を下手に壊したくないから言いたくなかった。ただの意気地なしなのだ。
「ごめん、待った?」
「いや全然」
久々に見る彼女は想像以上に綺麗になっていた。肩くらいの長さだった髪は長く伸びてゆるいパーマがかけられていた。服装も、上品さがあるセットアップを着こなしていた。同い年なはずなのに、俺よりもずっと年上に見えた。
「久しぶりだね。元気してた?」
「それなりに」
「えーなにそれ」
他愛のない会話をして、互いの近況報告をした。思ったとおり、彼女は今、自分の会社の上層支部の秘書という大役を勤めているらしい。やってることはオジサンのスケジュール管理ばっかでつまんないよー、と笑いながら言う。海外に行くわけではないことに俺は内心ほっとする。だが彼女がコーヒーカップに手を伸ばした時に違和感を覚えた。左手の薬指に細いリングがはめられていた。気づいたら最後、彼女がカップを持つたびやたらと目についてしまう。俺は我慢ができなくて聞いた。
「それ」
「え?」
「その、指輪ってさ」
「あ、これ?実は結婚したんだ。半年前に」
その時は、自分らがいるこのカフェの喧騒が一気に静まり返ったふうに感じた。時が止まったかとさえ思えた。彼女の言葉の意味を理解するまでに数秒かかった。そしてようやく、意味が俺の脳味噌に浸透した。そうだったのか。だから、俺を呼んだのか。
「久しぶりだからどうしてるかなーって思ったのもあるけど、このことを伝えたかったのもあって連絡したんだよ」
「成る程。結婚したことを俺にひけらかしたかったわけだな?」
「別にそんなつもりじゃないよ!」
嘘つけ。ワタシ今、すごい幸せですって顔してるんだよ。綺麗になったのも髪を伸ばしたのもきっと、相手のためなんだろうな。俺は残っていたコーヒーを飲み干す。すっかり冷めてあまり美味しくなかった。数分前までは美味いと感じられたのに。今はただの苦いだけの液体になってしまった。それはまるで自分の感情のようだった。彼女の結婚報告を聞く前まではあれほど浮かれていた気持ちが今はもう、目も当てられないくらいになっている。
「おめでとう」
「ありがとう」
良かったな。幸せになれよ。どんなに複雑な感情を抱えていようが祝福の気持ちはある。今の言葉に嘘はない。
だが。もっと早くに、自分の気持ちをお前に伝えていたなら。何かが変わっていたのかもしれないな。こんなことなら海外赴任の話のほうがずっと良かった。そんな、馬鹿馬鹿しいことを思うのも、きっと今日で最後だろうな。
遅くまでお仕事大変だから、たまにこうして掃除しに来てるけど。何気ないふりして今日もここへ来たわけだけど。もうそろそろ限界かもしれないな。掃除が、じゃなくて私の心が。
女物の靴下、見慣れない化粧品のゴミ、なんとなく部屋中に漂うムスクみたいな香り。私以外にこの部屋に出入りしてる人がいる。こんなにその痕跡隠さないってことはつまり、このことを私にバレたいのかな。暗に“もうここへは来るな”ってことを示しているのかな。今まで気づかないふりをしていたけど、そろそろもう限界みたい。こんなにあからさまに見せつけられちゃ貴方のこともう好きでいられない。ずっと一途に思っていたのに。どんな冷たいこと言われても許してきたのに。こんなに尽くした私を見捨てるっていうんだね。ズルい。酷い。許せない。
それなら私だって考えがあるから。浮気したこと後悔させてあげる。今日貴方がここへ帰ってきたら、さぞかしびっくりすると思うよ。そんな“イタズラ”を仕掛けといてあげるね。私が命をかけて仕掛けるイタズラ。下手したら貴方が犯人だと思われちゃうかもね。遺書にはたっぷり貴方へのことを綴っておくから。
君が僕の手を取ろうとしなかったあの日から、なんとなく感じてたんだ。もうこの関係は破綻しているって。でもその理由が、君に僕以外の誰か他の存在があるだなんて思わなかった。いつからアイツのことが気になり始めてたの?怒らないから、教えてよ。分かったところでもう君の心は僕のほうへ振り向くことはないんだろう?
思えば、僕らの始まりは君が僕の隣りに座ってくれたことからだった。ひょんなことで仲良くなって、同じゼミに入って課題を一緒にやったりして。気がつけば君は僕の隣にいつもいてくれた。告白してくれたのも、君だった。君が僕の全てだった。始まりが君からだったから、せめて終わりは僕からにしよう。君はこれから僕に会いに来る。いつもとかわらないただのデートだと思ってる。でも本当はそうじゃない。別れの言葉と、感謝の言葉を君に伝えて僕は潔く君の前から消えるんだよ。どうせ引き留められることはないから言う言葉は端的に。できるだけあっさりと終わらせるつもりだ。そしたら君は晴れてアイツと一緒になれる。これが1番いい選択なんだよね?君にとってのハッピーエンドの展開はこれが良いんだ。でも、僕にとってはバッドエンド。君の幸せを願うと僕は不幸になってしまうなんて。皮肉なもんだ。あんなに君と楽しく過ごした時間さえも嘘だったと思いたくなるよ。でもいいんだ。これで、いいんだ。
さようなら。ありがとう。
「そんなに見つめられると緊張しちゃうな」
ややおどけて先輩が言った。私に見つめられても緊張なんかしないと思う。先輩は注目されることに慣れてるから。何でもできて、誰からも好かれる人だから。
相変わらずじっと見る私。先輩の顔というより彼の指先を。その10本のしなやかな指は、これから白と黒の鍵盤の上で踊りだす。
「じゃあ弾くね」
演奏はささやかな音で始まった。優しい指遣いで繊細なメロディーを奏でてゆく。まるでピアノが喋っているみたいに。先輩のこの才能を、誰もが羨み尊敬している。流れる音楽が心地よくて私は椅子に腰掛けたまま目をつぶって聞くことにした。先輩の演奏姿を見つめながら聞き入るのもいいけど、今は音だけに集中したいと思った。だから視覚を閉ざすことにした。
この曲は最初から最後まで同じテンポで進んでゆく。ゆったりとしていて心がとても落ち着く。先輩が弾くとヒーリング効果が凄すぎてうっとりしてしまう。
曲の終盤になって、私はゆっくり目を開けた。真剣な顔で楽譜を見る先輩の横顔がそこにあった。いよいよ曲も終わり。なんて名残惜しいんだろうと思った。ずっと聞いていたいと心底思う彼の演奏。音楽が止まって先輩の手はピアノから離れた。私に向き直り笑顔を見せてくる。反則だ。
「どうだった?」
「最高でした」
私は実に捻りのない感想を述べる。仕方ない。先輩のピアノにはいつも圧倒されて言葉が出ないのだ。代わりに出るのは涙だった。感動して泣けるって幸せなことだなと思った。
あぁ
君のことを思うたびこの胸の高鳴りは止まらないよ
どうすれば、君にこの気持ちを伝えられる?
僕はもうこんなにも恋に落ちている
届け僕の熱い思い
きっと受け入れてくれるよねMy Heart
今すぐにでもI want you
君とならどこまでも駆け抜けていけそうさ
さぁ
僕らの羽根を休めるにはまだ早い
恐れないで
僕を見つめて
君の瞳に今からTake offするから
「みたいなことを書き綴っていたポエムノートを何処かに落としてしまったんだ」
「それ、死んだほうがマシなヤツだな」
「あぁ……」
昨日からいつも持参しているノートがない。そこには僕の愛の叫びが惜しげもなく書き記されている。いわゆる僕の趣味だ。その、僕の痛々しい本性を唯一知っている友人にこのことを打ち明けたら憐れんだ目で僕を見てきた。
「とりあえず、どーするよ?思い当たる場所はもう探したんだろ?」
「探した。けど無かった」
「じゃもう誰かが拾ったんだな」
「おそらくそうだろうな」
「ワンチャン、センコーが拾ってくれればいいのにな?そしたら別にそこまで大ごとにならないで済むんじゃね?」
「まぁ……そのほうが傷は浅いのかもしれない」
「あの、」
僕らの会話の中に1人の女子生徒が入ってきた。確か隣のクラスの子。あんまり話したことはないが顔は知っていた。そして、その彼女が手にしているのがA6サイズの見慣れたノートだと知った瞬間、全身の毛穴から一気に汗が吹き出てきた。
「そ、そそそそそそそそ、それ、は……」
「やっぱり、七瀬くんのだったんだね。はいこれ」
「や、あ、ど、なっ、あ、その、がはっ」
「落ち着けよお前」
友人が僕の背中をばしんと叩く。息を吸うことをすっかり忘れていた。気を取り直して、いや取り直すなんてもう無理なんだけどさっきより気持ちが落ち着いたので僕は彼女に話しかける。
「これ、どこにありましたか?あっ、拾ってくれてありがとう」
「学食のテーブルに置かれてたよ。もしかして昼休み行ったんじゃない?」
「行きました……」
「うわあ」
僕も友人も考えていることは多分同じだ。このノートは学食なんていう大勢の生徒が行き来する場所に放置されていた。ということはつまり、ノートの中身を見たのは彼女だけじゃない。何人、いや、何十人もの生徒たちが僕の愛の言霊を読んで笑いものにしたんだろう。どうしよう、汗が止まらない。おまけに目眩までしてきた。友人の言うとおり、いっそ死んだほうがマシなのかもしれない。
「ごめんね、誰のだろうと思ってちょっと中見ちゃったんだけど……」
「ヒイ」
「七瀬くんって、すごくロマンチックな人なのね。じゃあね」
「へ……?」
てっきり、“キモイウザイヘンタイ”のたぐいの言葉を浴びせられるかと思ったのに。そうではなくて、彼女の口から出たのは、まさかの称賛だった。
「おい、やったじゃねーか!」
やった……のか、これは。分からないけど、彼女は僕にそれ以上追求することなく行ってしまった。僕は阿呆みたいに、彼女の後ろ姿をじっと見つめていた。やがえ姿が消えても、ずっと。
「多分お前のそのノートの中身に共感したんだろうな」
「そうなのか……?」
「だとしたら、やることは1つだ。そうだろ?七瀬」
「お?」
「その隠れてコソコソ書き溜めたクサイ言葉集を今こそその口で言うんだよ。もちろん、2人きりの場所で」
「な、なんだって」
「俺がお膳立てしてやるからよ。そしたらお前、晴れて初彼女ゲットだ。ついでに……童貞卒業も近いかもしれねーなぁ?」
友人が意地悪くにやりと笑う。余計なお世話だ、と反論したが、はたしてそんなことあり得るのか?
「それまでに、新作作っとけよ」
「お、おお」
なんだかよく分からないが、できる気がしてきた。
そうだ。僕はやればできる子なのだ。あの子にだってきっと届く。待っててくれ。この僕のおさまらないMy Heartを、胸のビートに刻みつけてやるからさ!