「最後に写真撮ろうよ」
そう言って、彼女は自分のスマホを取り出した。僕の左隣に回り込んでインカメにする。写り込む僕らはなんだかぎこちなくて。思わず笑ってしまった。本当は、寂しい気持ちでいっぱいなのに。
「いくよー」
彼女の合図の数秒後、カシャリという音がした。同じアングルを何度も撮られて、こんな状況に慣れない僕は次第に落ち着かなくなってしまう。だってこんなに近い距離で、肩同士だって触れてる。微かに感じるいい匂いだって気のせいじゃない。今僕らの距離感はほぼゼロなのに、明日からは無限の長さになってしまうなんて。
「元気でね」
「君もね」
彼女が僕に分けてくれたツーショット。にこりと笑った彼女の横に、不自然な笑い方をした僕が写っている。でも、なんだか全体的に薄暗い。
「あはは。やっちゃった、逆光だ」
太陽を背負って僕ら仲良く寄り添った写真は見事に逆光になってしまった。でも、そのおかげで背後からの光が何とも儚さを醸し出しているふうにも見える。寂しげに笑う僕にちょうど似合っていた。
「あっちでもっかい撮ろうよ」
光のほうへと僕を連れ出す君の手。この手が、ずっとすぐ近くにあってほしいと願ってしまう。だけどきっとまたいつか会えるよね。どちらとも口にはしないけど、いつかまた、巡り会って笑い会えますよう。その思いを込めて、明るいところで一緒に撮り直した写真では、今度は僕はできるだけ笑ってみせた。
「いってらっしゃい」
「……いってきます」
カシャリという乾いた音とあともう1つ、僕の隣から鼻をすする音がした。
いつかまた2人で写真を撮ろう。
そしてその時は。
全力で笑った顔で写りたいね。
こんな夢を見た。
僕が仕事から帰ってくると、玄関前で君が仁王立ちして待ち受けていた。しかもその顔は穏やかじゃない。
「どうかしたの?」
「自分の胸に手を当ててみてよ」
そんなこと言われたって、僕には何も思い当たる節がない。黙ったままつっ立っていると、君がゆらりとこっちへ一歩踏み出す。薄暗い照明の下で何かが光った気がした。君の左手には果物ナイフがあることに気がついた。咄嗟に僕は後ろへ身を引くけど、こういう時に限って何故かドアは開かない。逃げなくては。そう思った瞬間と腹部に鋭い痛みを覚えたのは同時だった。自分の腹を覗き込むように見る。赤くてどろりとしたものが白いセーターから突き破るように滲み出してくる。
「当然の報いよ」
君が、かつてない程の悪い笑い方をして僕にそう言い捨てる。甲高い笑い声が狭い玄関に響き渡る。やがて僕の視界は暗くなっていき、君の姿も見えなくなってしまうのだ。
「なぁにそれ」
「だから昨日見た夢だって。君がものすごいおっかない顔して僕を殺すんだよ」
「やだー。それ悪夢じゃん」
勝手に人殺しにしないでよー。朗らかに笑いながら洗面所へ消えてゆく彼女。夢の中で恐ろしい笑い方をした人物と同一とは思えない。やっぱり夢は夢のままでいいんだ。良かった、彼女が今日も可愛くて。
「そうそう、聞きたかったんだけどさあ」
洗面所から戻って来た彼女は白い服を持っていた。僕のワイシャツだ。
「これ、何なの?」
彼女が指差す所。襟のちょっと下の部分に真っ赤な唇の形をした汚れがあった。赤黒くて、昨夜の夢の中の血のような色をしていた。僕はハッとなる。あれは、違うんだ。
「違うんだ。これは、」
「こんなに綺麗に残るもんなのね。お相手はどんな人なのか知らないけど」
誤解だ。これは満員電車の中で後ろから押された女性が僕にぶつかってできたものだ。その人からも謝られたし、何ならシャツを弁償するとも言われた。でも僕は断った。ワイシャツを変えたら不審がられると思ったから、帰ってからこのキスマークを自分で落とそうと思ってたのだ。だがそれをすっかり忘れてしまい、そのままシャツを洗濯かごに入れてしまったのだった。
「まぁいいや。言い訳とか、聞きたくないし。次からはきをつけてね。でないと夢のとおりになっちゃうかもよ?」
その時の彼女の笑みは、昨夜の悪夢のそれと少し似ていた。鼻歌交じりに洗面所へ戻ってゆく。その後ろ姿を見ながら僕はごくりと唾を飲んだ。悪夢の続きはもう沢山だ。
小学校時代の卒業文集で、
“タイムマシーンがあったらいつの時代に行きますか?”
という質問テーマがあった。クラスの奴らは“生まれた頃の自分を見たい”、とか、“未来に何をしているか確かめたい”なんて答えを書いてたっけな。つまり殆どが“過去か未来のどちらかに行きたい”。そりゃそうか、タイムマシーンなんだから。
でも僕だけは違ってて。“今この瞬間の地球の反対側”って書いたんだ。なんでそんなよく分かんないこと書いたのか、10年経った今でもよく分かってない。過去にも未来にも興味がなかったのかな。はたまた、クラスの中で目立ちたいがためにちょっと変わったことを書いてやろうとでも思ったのかな。
じゃあ今現在の僕が、“タイムマシーンがあったらいつの時代に行きますか?”と聞かれたらどうするだろうか。過去か未来か。どっちにしようか、至極悩む。過去を変える勇気も未来を変える度胸もない気がする。これまでの人生に後悔が全く無いわけじゃないし、将来に不安を感じていないわけでもない。だけど過去もしくは未来を変えに行けたとして。何をどうすれば正解なのか、分からないんだ。
だから答えは“どうもしない”。実につまらない回答だけど、僕にはタイムマシーンの力なんて必要ない。これまでのことを受け入れ、なりたいものに自分の力でなるんだ。
なんてね。
ちょっと、優等生すぎる?
「良い式だったね」
隣で彼がお通しをつつきながら言う。そうだね、みんな喜んでくれて良かったね。私の言葉に彼はにこりと笑った。まだ飲み始めてそんなに経ってないのに頬が少し赤みを帯びている。
人生の一大イベントが今日行われ、私達は夫婦になった。挙式、2次会が終わってもうすぐ日付を跨ごうとしてる。緊張と興奮がようやく落ち着いて空腹を感じた私達は今、ホテルの近くの居酒屋チェーン店に来ている。
「俺すっごい緊張したけど、君はそうでもなかったよね」
「そう?」
「うん。堂々としてた。指輪交換の時なんか、危うく俺、落としそうになってたってのに」
「そうそう!あの時は私も笑いそうになっちゃったよ」
がっちがちに緊張してたもんね。真っ白いタキシードがこれまた笑いを誘うって言うか。格好良い姿のはずなのに最後まで慣れなかったなあ。
「すごく楽しかったな。幸せな時間だった」
「そりゃそうさ。これから先はもっと、君は幸せになってもらわなきゃ困るんだから」
「うん」
箸を置き、私にしっかりと向き直る彼はひどく真剣な顔をしていた。左手に光るリングが目に入る。あぁ、私本当に結婚したんだ。そのことをじわじわ感じてくる。嬉しくて、涙が出そうになる。
「改めて。今日からよろしくお願いします」
「こちらこそ」
変な挨拶、と笑いながらもきちんとお返事をした。ほろ酔い気分で夫婦になった1日目の夜が過ぎてゆく。この人と、これから先一緒に歩いてゆく。それを思うとまた胸の奥底からドキドキするのを感じた。
もう嫌だ。というか、無理だ。
こんなことになるならもういっそのこと海の底に沈みたいくらいだ。それくらい、今回のことは僕の中で受け入れ難かった。
10年間片想いしていた彼女が結婚することになったのだ。相手は、僕の弟。
おめでとうお幸せに。定例的なお祝いの言葉すら出ないほど僕は驚いた。だって、なんだって君の生涯の相手が僕の弟なんだよ。まぁ僕も僕で、よく10年間も思い続けたもんだとは思うが。それにしたって身内とあの子が結婚。つまりあの子は僕の義妹になる。嫌だ、激しく嫌だ。これからは“お義兄さん”なんて呼ばれてしまうのだろうか。それを想像しただけで頭痛を呼び起こしそうになる。
でもこれで、ようやく10年にも渡った僕の仄かな恋物語は幕を閉じるというわけだ。結局、受身の姿勢じゃいつになっても報われないんだということがよく分かったよ。そうだよな、弟は僕に比べてずっと肉食系で社交的だ。そういう男が選ばれるということなのか。それが夜の中の仕組みなのか。
「はあ……」
溜息虚しく、何かしようと思いとりあえず散らかってる部屋の片付けをすることにした。僕が、弟よりもう少し饒舌だったら。あと少し背が高かったら。未来は変わっていたのだろうか。そんなことを考えても何も意味ないけど。でもたしかに、彼女のことを好きだったから。これまでの人生の中でTOP3に間違いなく入る衝撃のデカさだ。目眩がまだ収まらない。ゆるゆると立ち上がり鏡の前に立つ。情けない顔の僕がそこにいた。
「失恋って、幾つになっても辛いもんなんだな」
鏡の向こうの僕は今にも泣きそうだった。世界一惨めで不細工な僕だった。