こんな夢を見た。
僕が仕事から帰ってくると、玄関前で君が仁王立ちして待ち受けていた。しかもその顔は穏やかじゃない。
「どうかしたの?」
「自分の胸に手を当ててみてよ」
そんなこと言われたって、僕には何も思い当たる節がない。黙ったままつっ立っていると、君がゆらりとこっちへ一歩踏み出す。薄暗い照明の下で何かが光った気がした。君の左手には果物ナイフがあることに気がついた。咄嗟に僕は後ろへ身を引くけど、こういう時に限って何故かドアは開かない。逃げなくては。そう思った瞬間と腹部に鋭い痛みを覚えたのは同時だった。自分の腹を覗き込むように見る。赤くてどろりとしたものが白いセーターから突き破るように滲み出してくる。
「当然の報いよ」
君が、かつてない程の悪い笑い方をして僕にそう言い捨てる。甲高い笑い声が狭い玄関に響き渡る。やがて僕の視界は暗くなっていき、君の姿も見えなくなってしまうのだ。
「なぁにそれ」
「だから昨日見た夢だって。君がものすごいおっかない顔して僕を殺すんだよ」
「やだー。それ悪夢じゃん」
勝手に人殺しにしないでよー。朗らかに笑いながら洗面所へ消えてゆく彼女。夢の中で恐ろしい笑い方をした人物と同一とは思えない。やっぱり夢は夢のままでいいんだ。良かった、彼女が今日も可愛くて。
「そうそう、聞きたかったんだけどさあ」
洗面所から戻って来た彼女は白い服を持っていた。僕のワイシャツだ。
「これ、何なの?」
彼女が指差す所。襟のちょっと下の部分に真っ赤な唇の形をした汚れがあった。赤黒くて、昨夜の夢の中の血のような色をしていた。僕はハッとなる。あれは、違うんだ。
「違うんだ。これは、」
「こんなに綺麗に残るもんなのね。お相手はどんな人なのか知らないけど」
誤解だ。これは満員電車の中で後ろから押された女性が僕にぶつかってできたものだ。その人からも謝られたし、何ならシャツを弁償するとも言われた。でも僕は断った。ワイシャツを変えたら不審がられると思ったから、帰ってからこのキスマークを自分で落とそうと思ってたのだ。だがそれをすっかり忘れてしまい、そのままシャツを洗濯かごに入れてしまったのだった。
「まぁいいや。言い訳とか、聞きたくないし。次からはきをつけてね。でないと夢のとおりになっちゃうかもよ?」
その時の彼女の笑みは、昨夜の悪夢のそれと少し似ていた。鼻歌交じりに洗面所へ戻ってゆく。その後ろ姿を見ながら僕はごくりと唾を飲んだ。悪夢の続きはもう沢山だ。
1/24/2024, 3:46:57 AM