辛いことがあるとソイツはどこからともなく現れた。見た目は大きな黒い鳥なんだけど、僕がお母さん、と呟くと幼い頃の母親の姿に化ける。そしていつも僕のそばにぴたりとくっついて離れなかった。部屋の片隅で膝を抱えてると、すごく優しい声で僕の名前を呼ぶんだ。陽ちゃん、泣かないでこっちにいらっしゃいって。近づくとわさわさした黒い羽根の手が一瞬で五本指のある人の手になって僕を優しく抱き締める。このままずっと、この温かさに埋もれていたいと思った。当時の僕に必要なのは、無条件に何でも包んでくれる愛情だった。それ以外はどうでも良かった。たとえ、それを与えてくれるのが悪魔であっても。
でもある日。いつものように部屋の隅っこでうずくまる僕に優しい声が掛けられる。こっちにおいで。そこは寒いよ寂しいよ。手招きする母親に促されてゆっくりと立ち上がり、呼ばれるままへ歩み寄る。当時の僕が住んでいたアパートは2階だった。今日の母はベランダから僕の名前を呼んできた。真冬なのにノースリーブで。その頃にはもう、本物なのか幻影なのかを頭の中で理解できていなかった。というか、そんなものはどうでも良かった。何が本当で何が嘘かなんて関係ない。僕を優しく抱きとめてくれるなら何だっていい。だから、声のするままに手狭な部屋を突き進みベランダの窓を開けた。手を伸ばせば届く距離に母親がいる。お母さん、と投げかけるとふわりと優しい微笑みをくれる。もう少しで届きそうだ。裸足でも構うことなくベランダに出る。手すりを掴んで手を伸ばしても、母には届きそうで届かない。もう少し、あと少し。身を乗り出し思いっきり背伸びをして腕を伸ばしたのと、目の前の母親がにたりと笑うのは同時だった。
だが次の瞬間、何かを踏んだらしく僕はよろけて体勢を崩す。1畳にも満たないベランダで転んでしまった。わき腹をぶつけたらしく、地味に上体が痛い。起き上がって辺りを見回すと母の姿はなくなっていた。代わりに、足元に転がっている何かを見つけた。手にとって掲げて見てみるとバレッタだった。母が生前髪につけていたもの。何でこんなところに。そう思いながらもハッとしてすごい勢いで部屋に戻り、リビングの小さな仏壇のもとへ駆けつける。いつもの変わらぬ笑顔の母が写真の中で笑っている。でも、違うところもあった。ハーフアップの髪が綺麗におろされている。バレッタをしていなかった。僕は手にしていたバレッタをいま一度見る。母が気に入っていた蝶の形をしたそれを、見つめてそして、両手でぎゅっと胸に抱いた。
「ありがとう、お母さん」
呟いた時。遺影の母が笑ったような気がした。孤独も悪夢もいつの間にか消えてなくなっていた。僕はもう一度写真の母に語りかけ、静かに泣いた。ありがとう、守ってくれて。
。たしでき好がとこのたなあらか前とっず
。すでのるすを方え伝なんこ、らかいなえ言てくしかず恥
。なかのる来が日るえ言と々堂にたなあかつい
。ねよいなれしもかうゃちっなにのものか誰、といなしく早
。なかうよみてけかし話てし出を気勇は日明、らかだ嫌はれそ
。ねでいなわ笑どけう思とだ審不動挙、とっき
。らかる張頑、私
この気持ちを表現するなら、“好き”って言葉で間違いないのだけど。
たった二文字で簡単には片付けられないほどキミのことを思ってる。
いつも一緒にいたいと思うし、寝ても覚めてもキミのこと考えちゃうし。いやむしろ考えすぎて眠れないほどになる。
今日も今日とてキミのことを考えながら仕事に行くとするよ。なるべくすぐ帰って来るからね。だからいい子にしていてね。
「行ってきます。くれちゃん♡」
ぼくの相棒、くれちゃん。正式名はクレステッドゲッコー。うちのくれちゃんはトサカがすごく美しい。身体の色は気品溢れる赤色。まさにぼくのアイドルだ。ぼくはもうこの子に夢中で最近じゃ何も手につかない。かわいくてかっこよくて大人しくて艶やかで。できることなら1日中ずっと見つめていたいさ。
もう少し大きくなったら一緒に散歩させてみようかなあ。キミを連れていろんな場所に行けたらいいのになあ。膨らむ妄想を抱えながら仕事に向かうべく元気よく家を出た。名残惜しいけど、しばしの別れだ。
「そうだ」
今度、ぼくの妹に見せてあげよう。お兄ちゃんいつになったら彼女できるの、って見下してきたからな。見たら驚くぞ。あでも、うちのくれちゃんは夜型だから会うとしたら夕方以降にしてもらおう。ついでにあまり気温が低くない日で。
そうと決まれば。ぼくは駅につくや早速携帯を取り出し妹にラインをする。今度ぼくの大切な人を紹介したいんだけど。送るなりすぐさま既読がついた。いつでもいいよ、と結構前のめりな返事が届く。あいつ、そんなにくれちゃんに会いたいのか。
「どんな人?、って……」
可憐で愛らしくてもの静かだよ。それだけぼくは返した。でも、教えるのはこれぐらいにしておこう。お楽しみは会った時に。あいつきっとびっくりするだろうなあ。楽しみだ。親族に大切な彼女を紹介するのって、こういう気持ちなのかあ。ニヤケる顔を一生懸命おさえつつ、僕はいつもの電車に乗った。
「僕と、付き合ってくれませんか」
抱えていた薔薇の花束をひざまずいてそっと差し出す。キミは驚きながらも少しはにかんで僕に一歩近付く。
「よろこんで」
その言葉の後、まるで恋愛映画のエンドロールのように、タイミングよくどこからか風が吹いて僕らを祝福するんだ。
胸に花束を抱いたキミはじっと僕を見つめる。その瞳は微かに潤んでいる。僕はキミの頬に手をそえ顔を近づける。
そして、愛の口づけをキミに――――
「でっ」
物凄い衝撃を背中に受けた。頭の上でジリリリリとけたたましい音が鳴っている。ぼんやりしてる頭でも理解した。僕はベッドから落ち、この鳴り止まない音の正体は目覚まし時計だ。
つまり、つい今しがたまでのキミとの出来事は。
「全部……夢」
なんだよ。夢なら最後までさせてくれよ。悪態をつきながらゆっくりと起き上がる。今日の目覚めはとことん酷いものだ。あともう少しだったのに。畜生。
だがいつまでも夢に浸ってられない。いい感じに寝坊してるではないか。慌ただしく歯を磨き、顔を洗い着替える。時間を見たくて部屋のテレビをつけると、ちょうど占いコーナーが放送されていた。
『思いが通じる大チャンス?!ラッキーアイテムは薔薇の花束です』
「……まさかな」
今日、伝えろと言うのか。いつもは占いなんかに振り回されないのに、今日の結果はやたら気になる。薔薇か。確か大学のすぐ近くに花屋があった。寄るだけなら……いいか。まだ買うかは分からないけど、ちょっと覗いてみてもいいかもしれないな。
寝坊したというのに、僕は念入りにヘアスタイルを確認し、折角着たTシャツを脱ぎその代わりに一昨日買ったばかりの白いカッターシャツを身につける。一応、万が一の時のために身なりは整えておくべきだからな。
「よし」
鏡でいま一度自分の姿を確認する。もうこの時点で遅刻は確定。でも、今の僕にはそんなこと頭のどこにも考えちゃいなかった。
「さっむーい」
バスを降りて開口一番に彼女が言った。だから家の前までで良かったのに。そう言ったら頬を膨らませて僕を睨みつけてきた。
「なんでそゆこと言うの」
「だって、これで風邪でもひかれちゃ悪いと思って」
「そうじゃないでしょ。見送りに来てくれてありがとう、でしょ?」
「……はい」
「全くもう。も少し感傷に浸りなさいよね。暫く会えなくなるんだから」
そうなんだよね。君のテンションがいつもと変わらないからこれがこのままずっと続くと錯覚してしまう。僕はこれからこの国を旅立つ。それなりに遠い異国へ行ってしまう。つまり、君とは明日にはもう会えなくなる。早起きが得意でない彼女だけど、今日だけは頑張って起きて駅までついて来てくれた。その気持ちが本当にありがたいよ。それを思ったら、なんだか、ようやく寂しい気持ちが溢れ出てくる。
「元気でね。たまには手紙ちょーだいよね」
「うん、分かった」
「あんまりぼーっとしないようにね。隙を見せるとなんかの事件に巻き込まれたりするよ」
「そんな物騒な国じゃないから大丈夫だよ」
「肉ばっかり食べてちゃダメよ。魚も食べなさいよね」
「あはは。何それ、お母さんみたい」
「あのね!本気で言ってんの。あんたの食生活すぐ偏るんだから」
きっと、どちらも会話が途切れるのを恐れてる。少しでも間ができれば次に言うのは別れの言葉だ。それを知っているから、今になってお互いにどうでもいい話をするんだろうな。
けれど時間は無限じゃない。とうとう僕が乗る列車の発車時刻になってしまった。汽笛の音がやたらと心臓に響いた。言わずもがな彼女の顔はさっきまでと打って変わって引き攣っていた。
「見送り、ありがとう。君も体には気をつけてね」
「……うん」
「じゃあ、」
「ダメ」
僕の口を彼女が両手で押さえた。その時には既に、彼女の両目から涙が流れ落ちていた。
「サヨナラは言わないで」
震える手が僕の口をおさえている。僕はその細くて冷え切った手をそっと掴む。彼女は涙でぐちゃぐちゃになった顔で僕を見上げる。ありがとう、優しい君と出会えて本当に良かった。その気持ちを込めてぎゅっと抱き締める。
「その代わりに違う言葉を言うよ」
「……なぁに」
「大好きだよ」
僕のその言葉を聞くと、彼女は声を出して泣いた。人目もはばからず、わんわんと大泣きをした。そして、ずるいよ、と僕に訴えながら抱きついてきた。そうだよね、ずるいよね。こんな、最後の時に言うなんて。でもサヨナラは言わなかったから。僕らまた会える。約束するよ。また君のもとに戻って来るから。その時までのしばしのお別れだ。
君は僕の大切な人。離れても、それは変わらない。
そんな君に、サヨナラの代わりにありがとうと大好きを。