「そろそろ日の出だ」
隣で兄が言った。私は手際よく荷物をまとめだす。もう間もなくすると、ここにいられないからだ。
ずっと夜の帳が下りたままの世界があったらいいのに。そう何度思ったことか。でも、この世界の大半の人は太陽の下で生きることに喜びを感じている。『ニンゲン』という種族は日に当たらないと弱っていくらしい。私達とは正反対の生き物だ。一生、相まみえない。
徐々に東の空の明度が上がってきた。ここから夜になるまで息を潜める。長い昼間が始まる。でも実は、この瞬間はそんなに嫌いじゃなかったりする。光と闇の狭間を目の当たりにすると、もっと世界には知らないことが沢山あるんじゃないかって思えてしまうのだ。それをいつか目にしたいとも思うけど所詮こんな体質では無理な話だろう。
だからせめて、この朝焼けの空だけでも楽しもうと限られた数分間を目に焼き付ける。隣の兄は忌々しそうに東の空を睨んでいた。けれど私は眩しさに目を細めながら、白くなった月に祈った。いつか朝日を浴びることができますように。光も闇も愛せますようにと。
考えてみたら。僕は君の名前も知らないしどこに住んでるのかも分からない。着ている制服から隣の区の女子校だってことは分かった。僕の通ってる高校からはそんなに遠くないけど、そこへ行く用事は到底無いからやっぱりここでしか君とは会えないんだ。
この、朝の通学の電車の中でしか。
いつもと同じ時間の7両目、扉側のところ。いつも君はそこに立って文庫本を読んでいる。僕はそのそばに立って吊り革を持っていた。時折人に押されながらも君は熱心に本を読んでいる。その横顔が綺麗だと思った。多分僕と年齢は大して変わらないだろうに、すごく大人びて見える。横顔からまつ毛とかおくれ毛がそう思わせるのかもしれない。
何でこんなに気になるんだろう。ただ可愛いだけなら、うちのクラスの女子もなかなかの子がいる(そんなこと彼女らの前で口が裂けても言えないけど)。
考えれば考えるほど君のことが気になって仕方がない。毎朝十数分だけでは足りない。本当は話しかけてみたいのに、それもできない。所詮僕にはそんな勇気が無いのだ。だからこうして今日もただ君の横顔を盗み見ることしかできない。これじゃあ変態みたいじゃないか。
そして僕の降りる駅まできてしまった。僕は彼女より後に乗って、彼女より先に降りる。どうにも出来ないのだけど、なんだかやるせなくなる。電車が停まる頃合いに、後ろ髪を引かれる気持ちでドアのほうへ近づく。
「大丈夫?」
「え」
最初は誰が誰に話し掛けたのか分からなかった。控え目な声が僕の耳に届いて、視線を上げたらまさかの彼女の瞳とぶつかった。そしてもう一度、大丈夫?、と言った。どうやらこれは僕に向かって言ったらしい。まさか、と思った。けれど色々驚いている場合じゃない。
「えっ……と、何が」
「顔色が悪いよ」
そうなのか。自分じゃすぐに確かめられないけど彼女の目に映る僕はそう見えるらしい。そう言えば夜中までオンラインゲームに没頭してたせいで昨日の睡眠時間は3時間くらいだった。寝坊して朝ご飯を食べる暇なんてなかった。もしかしたらそのせいなのだろうか。何たる恥ずかしさだ。
「はい、これ」
ドアが開く。その瞬間に右手に何かを握らされた。人が押し寄せ僕は流れに逆らえず電車から吐き出されるように降りた。あっという間に乗降客の群れに呑まれ、ホームでもみくちゃにされる。僕が降りる駅は人の乗り降りが激しいのだ。そうこうしてるうちに、彼女を乗せた電車はベルを鳴らし、ドアが閉まるとさっさと発車してしまった。
「……会話、したんだよな」
僕はまだホームに突っ立っていた。そして、握りしめていた右手をそっと開く。ミルキーの飴が3粒。こんな可愛いことしてくるなんて。どうしてくれるんだ。これじゃあより一層忘れられなくなったじゃないか。僕は君のことを何も知らないというのに。
でもこれで、飴のお礼を言うという立派な口実ができた。明日もあの時間のあの場所に居てくれよ。じゃなきゃ、いつまでたっても君への距離が縮まらない。今日が始まったばかりだと言うのに、明日がもう待ち遠しい。
なぜ空は青いんだろう。科学的な理由は分からないけど、僕的な答えを言うならば、向こうへ逝く時に安心する色だからなんだと思う。真っ青でもなく、淡いブルーから紺碧へグラデーションのように広がってゆく。どこを切り取って眺めてもすごく澄み渡っている。
今日は特に綺麗な青空だ。
最期に見る空がこんなに青くて良かったよ。
嬉しいんだ、こんなふうに穏やかに眠れることが。
だからどうか泣かないでね。
今度はあの空の1部になって、きみのことを見守るから。
彼と喧嘩した。いつも、私のことをとやかく言ってくるんだけど、さすがに今日は我慢ならなかった。ああしろこうしろって、何でもかんでも言えばいいと思ってる。それ全部従うと思ってんの?なんでもあんたの思い通りに行くわけないじゃん。頭にきたからそのまま家を飛び出してきた。もう寝る前だったから今の私の格好は部屋着。ついでに足は裸足でサンダルを履いている。後先考えずに飛び出してきたせいで何ともひどい格好だ。
とりあえずどうしよっかな。こんな時間に夜道をウロウロしてたらちょっと危ないのは分かってる。ていうか今更だけど寒すぎ。こんなに夜って寒かったっけ。気付かないうちに着々と冬に向かってたんだということを知る。はぁーっと息を吐いてみたら白くなった。こんな中、薄着で裸足ってますます怪しまれるじゃん。
「……もぉ」
しょうがないから帰るか。全然気が進まないけど。
こういうのってやっぱ私から謝るべきなの?でもそれってなんだか負けを認めたみたいだから嫌だな。どうせ向こうは1ミリも悪いとは思ってないんだろうし。それどころか、こんな時間に飛び出した私に怒ってるに違いない。あーやだなぁ。帰りたくなくなるじゃん。でも帰んなきゃ寝れないし、このままだと風邪ひくし。
「……ん?なんだこれ」
ズボンのポケットに手を突っ込んだら何かが入ってた。広げてみると、なんとしわしわの千円札だった。きっとこのまま洗濯にかけられたんだろうな。それを一生懸命伸ばして、すぐそばにあった自販機に入れる。寒いからなにか飲もう。どーしようかな、と数秒間悩んだのち、ボタンを押す。その私の指に、別の指が重なった。ぎょっとして隣を見た。なんで、いるの。
「これは俺の分だろう?」
「……ちがうよ、私が飲みたくて買ったの」
「なんだ。お前も同じものを飲みたかったのか。じゃあもう1本買ってくれよ」
なんでそうなるのよ。私のお金ですけど。無視して突っ立っていたら、勝手に釣銭を入れてもう1本買いやがった。許可した覚えなんてないのに。なんてやつだ。
「ほら、帰るぞ」
取出口から暖かいレモンティーを2つ取って、反対側の手を差し出してくる。ちらりと顔を窺い見た。彼は、怒ってはいなかった。だからそろりと手を掴んだ。私の手に負けないくらい冷たかった。きっと探しに来てくれたんだろう。彼の足も裸足でサンダルという冬に似つかわしくないスタイルをしていた。真っ暗な道を彼に手を引かれて歩き出す。言いたいことがあったはずなのにいつの間にか失くなってしまった。本当はもっと、ドロドロした嫌な言葉のオンパレードを浴びせてやろうとか思っていたはずなのに。その気持ちもどこかへ消えてしまった。とりあえず、この後どうするかは帰ってから考えるか。多分、謝ると思う。ごめんね、って、言うと思う。そしたら彼も同じこと言ってくる。想像したらちょっと笑いそうになった。隣からほら、とレモンティーを渡される。甘酸っぱくて美味しい。寒くて凍えそうだった身体がほんのちょっとだけ熱を帯びた。
まだ、その歌を終わらせないで。
君の歌をもう少し聴いていたいんだ。
そうすると不思議と死も怖くない。
いつかはこうなるんだと思っていたけど、いざこの時を迎えるととっても怖かった。
でも君の歌声がそんな見えない恐怖を追い払ってくれたよ。
きっと君の声は心地良い音色なんだろう。
自然と瞼が重くなってくるよ。
ありがとう、最期の我儘聞いてくれて。
ありがとう、僕を歌で送り出してくれて。
さようなら、また逢う日まで。