これ以上希望を持つのは苦しいことだと知った。
いつから好きになったのか、分からないけど気づいたらもう戻れないところまで私の恋の炎は燃え上がっていた。少し優しくされただけなのに、こんなにも舞い上がってしまう自分に驚いた。時には、喋れない日があっただけで凹む自分も発見した。とにかくあの人に会ってから様々な自分が生まれた。自分が自分じゃないような、そんなおかしな感覚。
ずっと頭の中を“あの人が好き”の気持ちで埋め尽くしていたかったけど、それは無理だった。彼にはもう特定の相手がいたから。最初から私の恋は実らないと分かっていたくせにどうしてこんなにも盲目的になれるんだろう。いっそ今の環境から抜け出して、どこかあの人の見えない遠い場所で生活しようかとも考えた。けれど、どこに居ても、もう私の頭の中にはあの人が棲み着いてしまっている。忘れたくてもそんな簡単には忘れられないほどに。
どうしたら、楽になれるだろうか。忘れるという解決法が無理ならば、もうこのままずっと心のままにあの人のことを思い続けていればいいのだろうか。いつかは泣く日が来ると分かっているのに?馬鹿を見るのは分かっているのに。今以上に傷つくに決まってるというのに。
誰か私に目を覚ませ、と言ってくれたところでどうせ無理なんだろうな。私は覚めない夢を見ている。それはいずれ悪夢に変わる。分かっているのに、できない。抜け出せない。そんな私の思いに気づくことなく、今日も貴方は残酷なくらいに優しい微笑みを私にくれるのだ。
もう一度だけ妻に会わせてください。
そう願ったら、目に飛び込んできたのは細長い箱にしがみついて泣き崩れる妻だった。あれは棺桶だ。そして、あの中に僕が眠っている。どうやらここは葬儀場らしい。周りにも見知った顔が沢山。僕はこんなにも親しまれていたのだということを知った。なんだか嬉しいな。死んでるのに、嬉しいだなんておかしな話なのだけど。
だが、妻に会えたのは良いが当然僕の姿も声も届かない。手を伸ばしたら彼女の肩をすり抜けてしまった。失敗した。もう一度だけ妻を抱き締めさせてください、と願うべきだったか。
僕がこの場に降りたってからもずっと絶え間なく泣き続ける彼女。ごめんよ、と声をかけてもそれは届かない。本当にごめん。こんなふうに悲しませてしまって。もう何も届けられなくなってしまったけど、これからはずっと君の未来を空から見守っているから。君が僕に与えてくれたいろんな物のお返しに、君に安全な日々が続きますようにと願うよ。そうすればきっと、小さな悪運は寄ってこないはずだから。
別れはいつか来るものだ。けど、僕たちはそれがあまりにも早すぎた。やり残したことなんてありすぎて、挙げだしたらきりがない。未練なんてタラタラさ。
だけどね。
本当に感謝してるよ。最期は“もっと”“ずっと”ああしたいこうしたいを嘆くより君にありったけの感謝を伝えるよ。とは言っても声が届かないんだけど、感じてもらえたら嬉しい。
どうもありがとう。君は僕の最高の妻だった。
音にならないけど渾身の力で叫んだ、瞬間、周りが眩しくなった。続けて降ってくるやわらかい光。そろそろ時間らしい。さよならは言わないでおこう。もしかしたら、またいつか、君の前に出てこられるかもしれないから。その日が来る頃には君の涙する日が減っていますように。
昼休み。1人の女子生徒を離れたところから見ていた。彼女はいつもこの中庭に来て花壇に水をあげている。園芸部や美化委員でもない。単にボランティアでその役目を勝って出ている。そこまでは知っている。それ以上は、何も知らない。知りたいけれど近づく勇気がない。嫌われたらどうしようという思いがなかなか行動に移せないでいる。だからこうやって今日も、中庭で読書をするふりをして彼女のことをこっそり見ている。見ているだけだし、そこまでじっくり眺めるような真似はしていないから変質者ではないと思う。
「へーえ、あの子が好きなんだ?」
声がして。振り向いたら同じクラスのヤツがいた。コイツとは部活も委員会も一緒で気の知れた仲である。そんな仲の良いコイツにも、今まで僕の恋事情を打ち明けてはいなかった。
「つれねーなぁ、なんで今まで教えてくれなかったんだよ」
「……別に」
隠し通したいつもりもなかった。でもバレたら厄介なことになるんだろうな、とは思っていた。だってコイツは僕と違って女子に人気がある。それを本人も自覚してる。だから僕があの子に気があるなんて事実を知ったらどうせ。
「ふーん。じゃあ、俺がアタックしちゃおっかなー」
人の反応で遊びたがる。コイツはそういうヤツだ。最高に性格が悪いヤツだから、どうせそういうことを言ってくるんだとは思っていた。
「……そういうのやめろよ」
「おーこわ。冗談だっつの。そんな睨むなって」
「言っていい冗談と悪い冗談があるだろ。あの子だけはやめろ」
鋭く睨みつけた。空気がピリついているのが自分でも分かった。そんなの絶対に許さない。その思いを込めて冷やかな視線を送る。
「悪かったって。お前がマジなのは分かったよ」
僕の一言に一瞬言葉を失くしたヤツは、そそくさとこの場から姿を消した。また1人になって、近くのベンチに座った。
絶対に譲りたくない。なんの行動も起こしてない自分が言える立場じゃないけれど、強く思う。でも本当にそう思うならうかうかしてられない。あんなふうにどっかのチャラいヤツが近づいてくるかもしれないのだ。
「ここで逃げたら……僕はクズだ」
言い聞かせるように呟いた後、花壇にいる彼女へ向かって歩き出した。汗ばんだ手で握り拳を作る。何を喋ろうか。さっきまでの威勢はどうした、というくらい緊張している。男を見せろ。
「ねぇ――」
好きな人がクラスの女子に告白されていた。私はたまたま教室の前を通っただけで、それが告白なのか確証はないのだけど、多分あれはそうだと思う。夕陽のせいかもしれないけど、女の子は頬を染めながらはにかんでいたから。そして彼の方も笑っていた。至極嬉しそうに、でも少し恥ずかしそうに頭をかきながら。たった4秒間しか見なかったけど、その僅かな時間だけでも2人の間に柔らかな雰囲気が漂っているのが分かってしまった。
おめでとう。お幸せに。
負け惜しみではない。心の底から思ってるわけでもない。定型句のような感覚で頭の中で生み出された言葉だった。けれど次の瞬間ずんと心が重くなる。現実を受け入れたせいだ。
私のほうが早く行動していたらもしかしたら何かが変わっていたのかな、とか、どうにもならない想像をして傷つくのをやめたい。自分ばっかり被害者の気持ちになっている。こんなの惨めすぎる。
まだ2人は教室に居るのだろうか。居たら何だと言うんだ、自分には関係ないではないか。2人の私が頭の中で闘っていた。なんとかやり過ごしつつ昇降口を出た。秋の風はひんやりしている。花壇でも何でもないところに、秋桜がひっそり咲いていた。誰も手入れしてるわけでもないのに僅かな群れをなしている。風に吹かれて可憐なピンクの花が揺れていた。あと少し風が強くなったら負けてしまいそうなほど華奢なのに、ぐんと上に向かって伸びている。最盛期はもうすぐ終わってしまうのに、どこまでも高く伸びようとする姿に目が惹かれた。乙女の恋心なんて可愛い花言葉のくせに実際はか弱くなんかない。今を精いっぱい生きている。
私もこんなふうになれたなら。右手を空に向かって伸ばしてみた。高く高く、秋桜が伸びてゆくように突き出してみる。不思議とさっきまでのモヤモヤは消えていた。
明日からまた頑張れそうな気がする。
私の最盛期はまだ訪れていないんだから。
きっと、もう少し頑張れるはず。
「ただいま」
「おかえり。ご飯あっためるね」
「頼むわ。あと、これ」
持っていた箱を渡すと、中身が何か予想がついたらしく目尻を下げる彼女。漫画の世界なら間違いなく黒目の中にハートがあるだろう。
「ありがとう。開けていい?」
「どーぞ」
「わーい」
そうやって、子供のようにはしゃいで喜ぶからつい甘やかしちゃうんだよな。
「モンブランとザッハトルテだ。どっちがいい?」
「お前の好きなほうでいいよ。チョコのほうだろ?どうせ」
「うん。良くわかったね」
それぐらい分かる。お前はすぐ表情に出るから。好きなものにはとことん素直。俺に向かって笑う時もそう。俺もちゃんと、彼女の“好きなもの”の一部に引っくるめられているというわけだ。
「冷蔵庫入れとくね。あとで一緒に食べよう」
時々。こういう何でもない日を送りながらも不安になることがある。こんなに平和な毎日なのに、いきなり心虚しくなったりする。それは平和ボケしてない証拠なのか、分からないけれど。
ただずっと、こいつと一緒にいたい。願うのはそんなシンプルなことなのに。俺の中では凄く重要で、生きてく上で必要不可欠なことなんだ。
「どしたの?ご飯チンしたよ」
「あー、おう」
だからこの先も、1日1日を、しっかり生きてこうと思う。ケーキ1つでとびきり喜ぶ彼女を大切にしようと思う。彼女が幸せを観じることが、俺の幸せだから。