「ただいま」
「おかえり。ご飯あっためるね」
「頼むわ。あと、これ」
持っていた箱を渡すと、中身が何か予想がついたらしく目尻を下げる彼女。漫画の世界なら間違いなく黒目の中にハートがあるだろう。
「ありがとう。開けていい?」
「どーぞ」
「わーい」
そうやって、子供のようにはしゃいで喜ぶからつい甘やかしちゃうんだよな。
「モンブランとザッハトルテだ。どっちがいい?」
「お前の好きなほうでいいよ。チョコのほうだろ?どうせ」
「うん。良くわかったね」
それぐらい分かる。お前はすぐ表情に出るから。好きなものにはとことん素直。俺に向かって笑う時もそう。俺もちゃんと、彼女の“好きなもの”の一部に引っくるめられているというわけだ。
「冷蔵庫入れとくね。あとで一緒に食べよう」
時々。こういう何でもない日を送りながらも不安になることがある。こんなに平和な毎日なのに、いきなり心虚しくなったりする。それは平和ボケしてない証拠なのか、分からないけれど。
ただずっと、こいつと一緒にいたい。願うのはそんなシンプルなことなのに。俺の中では凄く重要で、生きてく上で必要不可欠なことなんだ。
「どしたの?ご飯チンしたよ」
「あー、おう」
だからこの先も、1日1日を、しっかり生きてこうと思う。ケーキ1つでとびきり喜ぶ彼女を大切にしようと思う。彼女が幸せを観じることが、俺の幸せだから。
「今日の放課後デートしない?」
目と耳と頭を疑った。すぐに自分の後ろを確認するがそこには誰もいなかった。
「ちょっと。人の話聞いてる?」
「え、あ、うん」
どうやら、聞き間違いでも人違いでもないらしい。彼女は僕に話しかけている。その綺麗な両眼の中に阿呆面よろしい僕が映っている。これは夢なんかじゃないんだ。僕と。この子が。デート。in放課後。あれ、この場合はofか?atだったか?英語はあまり得意じゃないから自信がないや。
って。
そうじゃなくて。
「あのさ、……本気なの?嘘じゃなくて?」
「何が?」
「その、放課後にデートしようって話」
「だからそうだって言ってんじゃん」
あんた耳ついてんの、って、いつもの毒舌を僕に浴びせてくる。良かった、いつもの彼女だ。やっぱりこれは夢ではない。
「じゃ、そゆことだから。放課後昇降口で待ってて」
「う、うん」
「良かったぁ」
良かったのはこっちのセリフだ。まさか、ほんとにデートだなんて。しかも誘いはキミの方から。僕が仄かに想いを寄せていた同じクラスの小鳥遊さん。明るくてサバサバしていて、誰にでも隔てなく接する人。憧れるようになってから半年ほどがすぎたけど、大して会話したこともないのにいきなりデートの誘いが来るとは。ありがとう神様。もうこれで僕は一生分の運を使い果たしただろう。それくらいに奇跡だ。
「だってさメイちゃん。鳴海くん放課後良いってさー」
「……え?」
彼女が声を張って呼んだ人物が扉のそばに立っていてこっちをちらちら見ていた。僕と目が合うと急にソワソワしだした。確か、隣のクラスの子。面識が無いからフルネームを知らない。
「もっと喜びなさいよこの幸せ者め。あんたを指名してくれる子なんて、この先現れないんだからしっかりやんなさいよ。これ逃したら、あんた一生ネクラ男よ」
最後にもう一発毒舌の銃弾を僕に撃ち込んで“メイちゃん”と彼女は教室から出ていった。え、何、やっぱり嘘ってこと?いや嘘じゃ……ない。事実なのは事実だ。あれ、僕何言ってんだろこれ。日本語おかしいな。
僕がテンパってる間に2人は行ってしまった。どうなってんだよ、これ。僕のデート相手はキミじゃないのか?メイちゃんなんて知らんぞ。どしたらいいんだよ放課後。いや、ちゃんと待つけどさ。
「こんな、ことって…………えぇ〜」
僕の気持ちは届いてないってことじゃないか。がっくり項垂れてしまった。でもメイちゃん、良い子そうだったな。デートに誘うってことは、つまり僕のことが好きってことで……いいんだよな?
「そっか、そうなのか」
途端になんかざわざわしてきた。
相手は違うけど、とにかく放課後デートか。そっかそっか。
めっっっっっっっ
ちゃ楽しみじゃんか!
背中が痛くて目が覚めたら、自分の家の床の上で寝ていた。むくりと起き上がって洗面台に向かう。昨日の服装、化粧も落とさないまま。髪の毛は凄いことになっている。不細工な鏡の中の自分がこっちを睨んでいた。
部屋中の窓を開け、換気をする。とりあえずお風呂に入ろうと思って湯を沸かす。その間にこの酷すぎる顔を何とかしたくてクレンジングに手を伸ばす。顔を洗いながら、考えるのは嫌でも昨晩のこと。ああ、終わったんだな、って。どこか他人事に思えるのは何故だろう。
「タオル、タオル……」
ぼーっとしてたらフェイスタオルをそばに準備しとくのを忘れていた。泡まみれの顔でサニタリーの棚を漁る。その後泡を流して顔をうずめるとリネンの香りが鼻腔に入り込んできた。少しだけ、気持ちが落ち着いた。わりとゆっくり行動していたらお風呂が沸いた。昨日の服を脱ぐ時、ストッキングに伝線があるのを見つけた。いつからあったんだろう。昨夜、あの人といた時はどうか無かったことを願う。
せめて最後は完璧な私で迎えたかったから。
熱いシャワーと熱いお湯に浸かって、長湯から出た時はもう昼時に近かった。籠の中のさっき脱ぎ捨てた昨日の服。もうこんな、背伸びしたワンピースなんて着ない。鼻を近づけると煙草の匂いがした。途端に気持ちが落ちてゆく。心がずんと沈んでゆく。もうあの人には会えないのに、あの人の匂いを持ち帰ってしまった。折角お風呂でさっぱりして、このまま昨日のことは夢だったんだと言い聞かせようとしたのに。香りは瞬時に記憶を呼び起こす。涙腺が脆くなるのも必然だった。
「あーあ」
ばたりとベッドに倒れ込んだ。泣きたくない。頭じゃそう思っていても心は言うことをなかなか聞いてくれない。たかが失恋。あの人に私は必要なかった。ただそれだけのことだ。それで終わらせてしまえたなら今、こんなに苦しんではいない。本当に、好きだった。でも叶わなかった。気持ちだけでは駄目なんだ。恋は2人でするものなんだ。分かっちゃいるのにうまくいかなくて、やりきれなくて。それが涙となり頬を伝った。
さっき開けた窓から少しの風が入り込んできた。涙に濡れた頬に当たって僅かにひんやりとする。ベランダのカーテンが揺れている。ひらひらと揺れ風に舞う姿は私の今の心境と正反対に軽やかだ。見てるとなんだか、さっきまでのざわめきが薄れていくような気がした。
そうだ、カーテンを洗おう。ふと思い立ち、レールから外しにかかる。何もない土曜日の昼間。外は快晴で洗濯日和。昨日の弱った私と決別するために、部屋中のものを洗濯するのだ。
カーテンを外しきった窓の向こうに青空が見えた。目に染みるほどの青。深呼吸を1つしてから洗面所へ向かった。
自分の心もまっさらに洗えたら良いけどそれは無理だから、一先ずカーテンを洗おう。お気に入りの柔軟剤で、昨日のワンピースもついでに。大好きな匂いに囲まれていれば、少しは気が紛れるだろう。もう煙草の匂いは嗅ぎたくない。
「あ、お疲れ様です」
部室に入ると予期せぬ人物がそこにいた。今日はオフの日なのに、なんでここにいるんだろう。その思いが顔に出ていたらしい。先輩は私に向かって苦笑いする。
「俺がいちゃまずい?」
「あっ、いえ、お休みなのにどうしたのかなって」
「部室のロッカーに忘れ物しちゃってさ。それを取りに来ただけ。だから安心しな、すぐ消えるよ」
「あ、そんなつもりはなくて……」
慌てて否定する私を見て今度は我慢せずに笑い出す。きっとこれはからかわれているんだと思う。いつだったか、お前の反応はいちいち面白いから見てて飽きない、と言われたことがある。
「俺は忘れ物取りに来たけど、お前はどうしたんだよ」
「あ、ここで勉強しようかと思いまして」
「勉強?」
「……駄目、ですかね」
「駄目じゃないけど。何、そんなに成績悪いわけ?」
「いや、明日確実に当たる授業があって、家だと捗らないからここでやってこうかな、って」
「ああ、そゆこと。教科は何?」
「へっ」
「教えてやるよ。一応、お前より1つ上の先輩様だからな」
先輩はそう言って、壁に畳まれ立てかけられていたパイプ椅子を2つ持ってきて私の前にセットした。テーブルは、備品であるボールが入った段ボール箱。この簡易的な勉強机でも文句は言えず、大人しく隣に座る。
「数学です」
「ふぅん」
先輩は広げた教科書と暫く睨めっこしていた。そして、おもむろに私のノートに何かを書き始める。さらさらと数式を書いてゆく手をじっと見ていた。とても綺麗な字だった。
「これに当てはめて解けばこのへんの範囲は大抵出来る。応用問題も、基本はこれ使えばオッケー」
「なるほど」
「じゃ、これ解いてみ?」
先輩がノートに問題を書き記し、ほい、と私にシャーペンを渡してきた。唸りながらも、言われた通りの順序で解いてゆく。自分でもびっくりするぐらい理解できている。すごい。先輩って、頭良かったんだ。初めて知った。
「……今、なんか余計なこと考えてたろ」
「え?あ、いや」
「何思ってたんだよ」
「いや、あの、先輩の教え方分かりやすいなって」
「嘘つけ。どーせ、意外と先輩って頭良いじゃん、とか何とか考えてたんだろ」
違います、と、すぐに否定できなくてまたしても先輩に笑われた。お前は嘘がつけない典型的なヤツだな。それは褒め言葉なのかどうなのか微妙な所だけど言われて悪い気はしない。
先輩の手作り問題は全て解け、嘘みたいに出来が良かった。これなら明日、どこが当たってもどんと構えていられる。
「先輩ありがとうございます。お陰で明日の授業大丈夫そうです」
「そりゃぁ良かったな。他に分かんないとこは?この際だから教えてやるよ」
「いいんですか?んーと……」
ページを捲って前回の授業内容を振り返る。分かんないところって、言われたって数学自体が苦手科目だから1箇所に絞れない。どうしようかとぺらぺら捲る。その私の手が突然止まった。先輩が掴んだからだ。
「教えてやる前に、お前からも1個教えてよ」
「え……」
「こないだ1人で泣いてたでしょ、ここで。部活終わってみんな帰った後に」
見られていた。驚く間もなく先輩はぐっと身を乗り出してくる。
「誰に泣かされた?」
「え、と」
「お前を泣かしたヤツ、誰だって聞いたんだよ」
珍しく先輩が怖い顔をしている。私が泣いてたことに、そんな怒りを感じる理由なんてあるのだろうか。けど、本気なのは分かった。私の手首を掴む力がなかなか強いから。
「あの、違うんです」
「何が」
「理由は……これです」
反対の手で鞄の中を漁り、取り出したのは1冊の本。険しい顔する先輩の眼の前に突き出した。
「これ、すっごく感動するんです。身寄りの無い主人公の女の子が旅をしていくストーリーなんですけど、とにかく涙なしでは読めない展開が続くんです」
熱弁を振るう私に多めの瞬きで応える先輩。捕まっていた手首はようやく解放された。そして、勢いよく先輩は段ボールの即席机に突っ伏した。
「んだよ……」
「せ、先輩」
「マジで焦ってたんだからな」
「あの、なんか……すみません」
先輩の勘違いだったわけだが、紛らわしいことをしていたのは自分なので謝ろうと思った。あの日私は、皆が帰った後にここで読書をしていた。感動して、涙してしまった現場を先輩がたまたま目撃したということらしい。
「お前が誰かに泣かされたんじゃないかと思ってた」
「実は……感動の涙でした」
「ったく、そんなオチあるかよ」
はあぁ、と盛大に溜め息を吐いた後、先輩は自分の鞄を掴み立ち上がる。
「もう勉強はヤメ。集中力切れたわ」
「あ、はい。ありがとうございました。お疲れ様でした」
「お前も帰るんだよ!」
「うえぇ!はいっ」
急いで教科書やペンケースを鞄に突っ込み、すでにドア付近にいる先輩を追い掛ける。何だか色々申し訳ない。勉強の面倒だけでなく、要らぬ心配をかけてしまった。
「お詫びに駅前のマックな」
「はい、よろこんで」
ちらりと先輩の横顔を伺う。もういつもの表情に戻っていた。良かった、もう怒ってないみたい。心配かけてしまったのに、不謹慎にも嬉しいと感じてしまった。部室の鍵をかけるその後ろ姿に、心のなかでもう一度ありがとうございますと呟いた。
コんなに頑張ってきたんだから、ちょっとくらい羽目外したって罰当たんないんじゃない?それとも、まだ頑張っちゃう?俺はそっちはおすすめしないな。だってキミ、もう限界ですって顔してるよ。
コこまで来るまでそれなりに遠回りしたかもしんないけど、全部無駄じゃなかったでしょ?あぁ、そんなこともあったっけ、くらいに今は思えてるでしょ。なら、キミの選択は正解だったんだよ。そもそも、自分で決めたことならそれが正解なんだよ。だから胸張っていいんだよ。それって勇気がいることだけど、人と同じ道じゃないってだけでうロたえるけどさ、誰もやったことないことに挑むってすごいことだとオもうよ。今までの全てがキミを形成してるんだ。ドれ1つとして、無駄じゃなかった。それは僕が保証する。
てなわけで今日くらいは楽しく伸び伸び過ごそうよ。難しく考えるのはヤメにして。思いっきり飛び跳ねてみても良いんじゃない?それくらいの元気、まだまだあル?