「あ、お疲れ様です」
部室に入ると予期せぬ人物がそこにいた。今日はオフの日なのに、なんでここにいるんだろう。その思いが顔に出ていたらしい。先輩は私に向かって苦笑いする。
「俺がいちゃまずい?」
「あっ、いえ、お休みなのにどうしたのかなって」
「部室のロッカーに忘れ物しちゃってさ。それを取りに来ただけ。だから安心しな、すぐ消えるよ」
「あ、そんなつもりはなくて……」
慌てて否定する私を見て今度は我慢せずに笑い出す。きっとこれはからかわれているんだと思う。いつだったか、お前の反応はいちいち面白いから見てて飽きない、と言われたことがある。
「俺は忘れ物取りに来たけど、お前はどうしたんだよ」
「あ、ここで勉強しようかと思いまして」
「勉強?」
「……駄目、ですかね」
「駄目じゃないけど。何、そんなに成績悪いわけ?」
「いや、明日確実に当たる授業があって、家だと捗らないからここでやってこうかな、って」
「ああ、そゆこと。教科は何?」
「へっ」
「教えてやるよ。一応、お前より1つ上の先輩様だからな」
先輩はそう言って、壁に畳まれ立てかけられていたパイプ椅子を2つ持ってきて私の前にセットした。テーブルは、備品であるボールが入った段ボール箱。この簡易的な勉強机でも文句は言えず、大人しく隣に座る。
「数学です」
「ふぅん」
先輩は広げた教科書と暫く睨めっこしていた。そして、おもむろに私のノートに何かを書き始める。さらさらと数式を書いてゆく手をじっと見ていた。とても綺麗な字だった。
「これに当てはめて解けばこのへんの範囲は大抵出来る。応用問題も、基本はこれ使えばオッケー」
「なるほど」
「じゃ、これ解いてみ?」
先輩がノートに問題を書き記し、ほい、と私にシャーペンを渡してきた。唸りながらも、言われた通りの順序で解いてゆく。自分でもびっくりするぐらい理解できている。すごい。先輩って、頭良かったんだ。初めて知った。
「……今、なんか余計なこと考えてたろ」
「え?あ、いや」
「何思ってたんだよ」
「いや、あの、先輩の教え方分かりやすいなって」
「嘘つけ。どーせ、意外と先輩って頭良いじゃん、とか何とか考えてたんだろ」
違います、と、すぐに否定できなくてまたしても先輩に笑われた。お前は嘘がつけない典型的なヤツだな。それは褒め言葉なのかどうなのか微妙な所だけど言われて悪い気はしない。
先輩の手作り問題は全て解け、嘘みたいに出来が良かった。これなら明日、どこが当たってもどんと構えていられる。
「先輩ありがとうございます。お陰で明日の授業大丈夫そうです」
「そりゃぁ良かったな。他に分かんないとこは?この際だから教えてやるよ」
「いいんですか?んーと……」
ページを捲って前回の授業内容を振り返る。分かんないところって、言われたって数学自体が苦手科目だから1箇所に絞れない。どうしようかとぺらぺら捲る。その私の手が突然止まった。先輩が掴んだからだ。
「教えてやる前に、お前からも1個教えてよ」
「え……」
「こないだ1人で泣いてたでしょ、ここで。部活終わってみんな帰った後に」
見られていた。驚く間もなく先輩はぐっと身を乗り出してくる。
「誰に泣かされた?」
「え、と」
「お前を泣かしたヤツ、誰だって聞いたんだよ」
珍しく先輩が怖い顔をしている。私が泣いてたことに、そんな怒りを感じる理由なんてあるのだろうか。けど、本気なのは分かった。私の手首を掴む力がなかなか強いから。
「あの、違うんです」
「何が」
「理由は……これです」
反対の手で鞄の中を漁り、取り出したのは1冊の本。険しい顔する先輩の眼の前に突き出した。
「これ、すっごく感動するんです。身寄りの無い主人公の女の子が旅をしていくストーリーなんですけど、とにかく涙なしでは読めない展開が続くんです」
熱弁を振るう私に多めの瞬きで応える先輩。捕まっていた手首はようやく解放された。そして、勢いよく先輩は段ボールの即席机に突っ伏した。
「んだよ……」
「せ、先輩」
「マジで焦ってたんだからな」
「あの、なんか……すみません」
先輩の勘違いだったわけだが、紛らわしいことをしていたのは自分なので謝ろうと思った。あの日私は、皆が帰った後にここで読書をしていた。感動して、涙してしまった現場を先輩がたまたま目撃したということらしい。
「お前が誰かに泣かされたんじゃないかと思ってた」
「実は……感動の涙でした」
「ったく、そんなオチあるかよ」
はあぁ、と盛大に溜め息を吐いた後、先輩は自分の鞄を掴み立ち上がる。
「もう勉強はヤメ。集中力切れたわ」
「あ、はい。ありがとうございました。お疲れ様でした」
「お前も帰るんだよ!」
「うえぇ!はいっ」
急いで教科書やペンケースを鞄に突っ込み、すでにドア付近にいる先輩を追い掛ける。何だか色々申し訳ない。勉強の面倒だけでなく、要らぬ心配をかけてしまった。
「お詫びに駅前のマックな」
「はい、よろこんで」
ちらりと先輩の横顔を伺う。もういつもの表情に戻っていた。良かった、もう怒ってないみたい。心配かけてしまったのに、不謹慎にも嬉しいと感じてしまった。部室の鍵をかけるその後ろ姿に、心のなかでもう一度ありがとうございますと呟いた。
10/10/2023, 11:27:10 PM