7月14日 晴れ
滅多に風邪をひかない貴方が朝から咳き込んで調子悪そうにしていた。夏風邪かな、なんていいながらいつものようにネクタイを結ぶ。心配だから帰りに医者に行ってくれば、という私の言葉に、そうするよ、と言って出勤していった。
7月21日 晴れ
すぐに来てください、という病院からの連絡に慌てて2人で向かった。そのまま、あれよあれよというようにMRIやら精密検査を促され即入院と言われた時は胸が締め付けられるような気持ちになった。貴方は、いつもと変わらぬ笑顔で大丈夫だよ、と私に言った。でもまさかこれが最後の会話になるなんて。
8月3日 晴れ
ICUの中にいる貴方へガラス越しに言葉を送る。早く良くなってね、大好きだよ、私がいるよ。しっかりしなくては。私が希望を失ってはいけない。なのに、どうしてこうなったんだという気持ちが頭の中を占拠している。ちゃんと貴方は目を覚ますよね?
8月15日 晴れのち雨
ひどい夕立と雷雨で家の近所では停電が起きた。雷は大嫌い。いつもは貴方がいてくれるから何とかなるけれど、今はこの家に独りぼっち。早くまた、いつものように一緒にこの家で過ごしたい。それ以上のことは願わないから。どうか神様、あの人を救ってください。
9月25日 曇り
あっという間に夏が過ぎた。それでもまだ毎日暑いのだけれど。貴方がベッドで眠るようになってから丸2ヶ月が過ぎた。貴方が眠っている間に夏は終わってしまった。行こうとしていたお祭りもヒマワリ畑も行けなかった。でも、来年は必ず一緒に行こうね。目を覚まさない貴方にそう語りかけた。
9月26日 雨
貴方は、雲の上に旅立ってしまった
9月30日 雨
秋の長雨が続いている。
葬儀屋の人に、遺影にする写真を提供するように頼まれたので戸棚の中を漁る。2人の思い出が色々入っている箱があってそっと開ける。付き合い当初に貴方がくれたキーホルダーとか、旅先で引いた大吉のおみくじとか。2人とも好きなバンドのライブの半券、花束をくれた時に結んであったリボンだって取っておいてある。
その中に封筒を見つけた。忘れもしない、これはプロポーズの時にもらった貴方からの手紙。淡い水色の便箋に、お世辞にも上手と言えない字体で愛の言葉が綴られていた。
“これから先、どんな時でも手を取り合っていこう”
手紙の締めくくりの言葉を読んだ時には、私は気が狂いそうなほど泣き叫んでいた。
10月2日 晴れ
棺の中で花たちと眠る貴方に最期のお別れをする日。貴方はとても穏やかな顔をしている。
そっと、貴方の手に触れる。いつも温かいはずが今日はとてもひんやりしている。冷え性の私よりもずっと冷たい。
伝えることがありすぎて、何から言えばいいのか分からない。伝えるにはあまりにも短すぎる時間。いつでもこの手を取り合って、ずっとずっと一緒にいたいけど。それはもうできない。だから、最期に、貴方の手をぎゅっと握って囁いた。
ありがとう。
愛してる。
またね。
オレはアイツよりもアタマがいい。こないだの算数だって100点だった。アイツのは、うしろからこっそりのぞきみしたら37点だった。ザマアミロと思った。
うんどうだってオレはとくいだ。50メートル走はクラスで1ばん。あのノロマは10ビョウいじょうかかってる。ジョシにもぬかされてて、ホント、ダサイヤツ。
今日の体育も走るのかと思ったけど、先生がみんなをビョードーに分けて4チームにわかれてタイコーリレーをしましょうと言った。クラスで1ばん早いオレは青チーム。あのノロマは……おなじ青チーム。なんでだよ。先生にコーギしたら、
「翔くんはクラスで1番早いけど、優くんは走るのあんまり得意じゃないの。だから同じチーム。これが平等」
さいあくだ。こんなオニモツいらない。チームであつまって走るじゅんばんを決めるとき、ノロマがオレにむかって「よろしくね」と言ってきた。けどオレはムシをした。
「いちについて、よーい、どん!」
「いけー!」
「がんばれーっ」
先生の声のあとにピストルがきこえて4人のソーシャがいっきに走りだした。オレのチームのヤツは、2ばんだ。オレのばんまでこのままいけば、かてる。さいごにオレがぬけばいいんだ。
「あっ」
オレのチームのヤツがバトンパスがうまくいかなくておとした。あのノロマだ。
「……なにやってんだよ」
いっきにオレのチームはペケになった。オレにまわってくるときにはものすごい差をつけられていた。めちゃくちゃがんばったけど、けっきょくリレーはそのままビリでおわった。アイツのせいだ。アイツがよけいな足ひっぱったせいで、まけた。
「あの、翔くん……」
うしろから名前をよばれた。ふりむかなくても分かる。オレはもっていたバトンを地面に思いっきりなげおとした。
「オマエのせいでまけちゃったじゃないかよっ」
「……ごめん」
ムカつく。コイツのせいでまけた。コイツがいなければぜったいにかてたのに。
「きゃー優くん!だいじょうぶ?」
ジョシの声にびっくりしてふりむいたら、やっぱりそこにノロマオニモツがいた。りょうひざが、血まみれだった。
「うわ、だいじょぶかよ、優」
「いたそう……」
「せんせーっ、優くんがケガしてまーす」
クラスのみんながノロマのまわりにあつまっている。はんたいに、オレのそばにはだれもいない。
「……んでだよ」
ソイツはヤクタタズだったんだぞ。イミ分かんねーよ。ムカついて、バトンをもう1回なげすてようと思っておちていたそれをひろった。大きい音だしたらだれかがこっち見てくれると思ったから。
でも、もうみんな保健室めざしてオレからずっとはなれていた。なんかもう、むなしくなってやるのをやめた。
ひろったバトンをじっと見ると、赤っぽい茶色っぽいよごれがついていた。ハッとした。アイツの血だ。
「……バカみてえ」
でもやっぱり、言ったオレがバカみたいでむなしかった。
下を向いていれば誰とも目が合わなくて楽だ。だから自然といつの間にかそうしていた。だけど、そうすると今度は歩いてる時に人とぶつかる。考えた結果、僕は相手の足元あたりを見て行動することにしたんだ。電車に乗る時も、近所のスーパーに行く時も。大学の学食に行く時だってそうしている。目に飛び込んで来たのは濃い紫色。和名だと菫色と表現するのが相応しいのかもしれない。僕が学食でカツカレーを頼もうとしている時にふわりと視界に入り込んできた。ふわふわ揺れるそれは踊っているようにも見える。というか、まさしくこれは踊っているのだろう。紫色の下から突き出た足がその場で軽くステップを刻んでいる。いったいどういうつもりなんだ。カレーのことを一瞬忘れるぐらい、この紫の主が気になる。何があっても、これまでずっと視線は斜め45度以下を徹底してきたというのに。
とうとう我慢ができなくてゆっくりと目線を持ち上げる。僕の目の前に居たのは、紫色のシフォンスカートを履いた女の子だった。スカートだから女なのは当たり前なのだけれど。彼女と初めて目が合う。瞬間にどきりとした。向こうは僕に向かって笑いかけた。知り合いでもないというのに、何故。僕は言わずもがな挙動不審になってしまう。再び下を向こうとする僕に、彼女は、ねぇ、と話し掛けてきた。
「ラスト1食らしいの。譲ってくれない?」
「……へ」
彼女は僕の後ろを指差す。そこにある壁には“カツカレー1日限定20食”という張り紙。
「……あ、どうぞ」
「ありがとう」
にこりと笑って彼女は僕の前に並ぼうとする。けれど、もう一度僕の方に振り返って、
「今みたいに顔上げてたほうがいいよ。余計なお世話かもしれないけど」
そう言って、男ばっかりのカレーの行列らしき人集りの中へ紛れていった。
未読のままのLINEが1件あるんだよ。
キミからの最後のLINE、もう12年もそのままにしてあるの。
受信日時は3月11日 14時42分。
トーク画面を開かなくても見える部分が、
“今日は定時であがれそうだよ”。
もしかしたらこの続きがまだあるのかもしれないけど
確かめてないから分からない。
確かめる勇気がない。
そうしたところでキミは絶対に帰ってこないから。
あの日本当に定時で帰ってきてくれてたなら
夕飯はキミの好きな唐揚げにしてたと思うよ。
たまには飲もうかな、って、ずっと前に買ってたお酒も用意してさ。
食べ終わったら、一緒にマリオカートやろうって言ってたかも。
でも結局、私もそんな状態じゃなくなって考えてたこと何ひとつ出来なかったんだけど。
唐揚げは愚か、冷蔵庫も流されちゃったから。
あの時すぐにLINEに気付けてたら。
返事をすぐに返せてたら。未来は変わったのかな。
考えても仕方のないことをまた考えてる。
心がどん底の時は今でも、キミはいつ帰ってくるんだろう、って思っちゃう。
マリオカートだって、1人でやってもつまんないよ。
辛いよ。
寂しいよ。
なんか言ってよ。
ねぇ、
目が覚めると。
真っ白い天井だった。思わず色覚異常になったかと思うほどに、染み1つ見当たらない白。どうやら僕は仰向けになっているらしい。
視覚の次に反応したのは嗅覚だった。薬品の匂い。消毒液のそれみたいな、あんまり好んで嗅ぎたくない匂い。
その次は聴覚。ピッピッ、と規則正しい機械音が聞こえる。音のほうへ首を動かそうとした。でもできなかった。辛うじて左目の端で何だかよく分からない機械で固定されているのが見えた。
そこでようやく記憶が蘇ってきた。お陰でここが何処だかも分かった。となると、腕や首が動かない理由も治療されたお陰なんだろう。ことの事態をわりと落ち着いて受け入れられた。
助かったんだ。無事、ではないが生きている。良かった。そう思えたら途端に眠くなってきた。なのに、部屋の外が騒がしい。続いてバタバタとやかましい音が近付いてくる。まだ駄目ですよ、と叫びにも近い女性の声が聞こえたその直後、バン、と扉を開く音が聞こえた。
「先生!!」
殆ど泣いてるような声に続いて、動かせない僕の視界の中に彼女の姿が現れた。やっぱり彼女は泣いていた。
「やぁ佐藤さん」
僕の落ち着き払った挨拶に、彼女は今以上に顔を歪める。大粒の涙が溢れ出て僕の顔の上に落ちた。
「大丈夫?怪我はない?」
「私は……何ともなかった。先生が助けてくれたから」
「なら良かった」
「良くないよ……」
「どうして泣くの?助かったんでしょ、僕。泣かなくていいよ」
それでも彼女の涙は止まらない。すごい嗚咽でどうにかなってしまいそうだ。こんなに僕は落ち着いているのに、逆に彼女の動揺はおさまろうとしない。
こんな時、抱き締めてあげられたらいいのに。生憎今は自分の力で身体を動かせない。落ちてくる彼女の涙を顔で受け止めながら早く治りたいと強く思った。
でも治る頃には、逆に彼女を抱き締める理由が無くなってしまう。今は、彼女の不安を払拭できるなら抱き締めてあげたいと思えるけれど。元気になったら彼女に触れる理由がない。それを思うと少し、辛い。
「大丈夫だよ」
言葉で人を抱き締めることができたなら。今の僕はどんなにすごく恥ずかしい言葉でも言えるだろう。おとぎ話の王子様になった気で、キザなセリフを囁ける。
でもそんなことはできないから。当り障りのない大丈夫を投げ掛ける。
でも、そのたった一言に彼女は必死に涙を堪えて、くしゃくしゃの笑顔を見せてくれた。綺麗だと思った。