やあこんばんは。あなたはこの場所は初めてかな?
ここは情報の海の片隅にある、書くことや読むことを好む者たちのコロニーのひとつだ。他の者たちの姿形は見えず、文字を通してしか認識することはできないが、なかなかどうして賑わっている。
ああ、わたしはここの一住人だ。好きに呼んでくれたまえ。
あなたはここで好きに過ごしてくれていい。
毎日十九時に発表される題目に沿って、自らの思いの丈をしたためてもいいし、己の中の空想を自由に描いてみるのもいい。題目は迷える者たちへの指標のようなものだ。存分に活用してくれて構わないよ。
他の人達の思いを覗いてみるのも良いだろう。たった一つの題目が、人の数だけ様々な形に成形されていくのを見るのは、なかなか楽しいものだ。あなたの気に入る書き物に出会える可能性もあるしね。
あなたはこの場所に、定期的に訪れてもいいし、時々覗きにくるだけでもいい。その辺りに特に決まりはない。自由だよ。
あとは……ああそうだ。いくつか注意点があったんだ。
ここで好きに思いを綴ることは、一日に一つしかできない。それと出来上がったものは己の内だけに留めておくことは出来ず、即放流されることになっているから、そこは気をつけてくれ。あくまでここは、書くための習慣をつけるために生まれた場所だからね。
さてと、こんなところだったかな。
それではこの辺で。あなたにとってこの場所が、有意義なものとなることを願っているよ。
よい日々を。
/『あなたとわたし』
とても疲れて帰ってきたのに、家の扉を前にして、血の気が引いた。
スーツケースの横に、手持ちの荷物を全部置く。慌ててバックの中を漁るけど、中身はぐちゃぐちゃだ。常々直したいと思っていた私の悪い癖。まさかこんな形で後悔することになるとは思わなかった。
片道約六時間。新幹線と電車を乗り継いで、実家からやっと戻って来た、大学生一人暮らしの家の前。
肝心の鍵がどこにもない。
やばい、頭が真っ白だ。こういう時は、どうしたらいいんだっけ。
全く回らない頭を何とか捻って、管理会社に電話することを思いついたけど、電話番号を控えてない。というかそれ以前に、今は日曜の二十時過ぎ。電話できたところで絶対繋がらない。詰んでる。もうやだ。
扉の前にずるずるとしゃがみ、深くため息をつく。
思えば、今日は初めから散々だった。電車に乗り遅れたり、新幹線の指定席が使えなくなったから自由席に乗ったら、人が多すぎて座れなかったり。その後もなんだかんだずっと立ちっぱなしだったから、途中で脳貧血を起こしかけたし。
やっと帰ってきてもう一歩も動きたくないのに、家に入れない。泣きたい。
思い返していたら本当に鼻の奥がツンとしてきて、慌てて上を向く。泣いたら本当にみじめになる。泣くな。
でも、どうしよう。この辺は都会という程でもない。車がないとどこにも行けない地方と違って、徒歩圏内にスーパーやコンビニ、飲食店はちょこちょこあるけど。ネカフェとか漫喫とか、そういったのは全然ないし。
唯一希望があるとするなら、大学からできた友達が、一人近くに住んでいること。
でも、間違いなく迷惑だ。迷惑かけて嫌われたくない。
何とか自分一人でどうにかできないかと考えるけど、しばらくしても何も浮かんで来なかった。
悩みながら開いてみたスマホの充電残量は一桁になっていて、悠長にメッセージを送っている暇もないのかもと思うと、ますます焦る。
とっさに勢いで電話をかけてから、じわりと後悔が襲ってきた。
やっぱり、やめておけば良かったかな。嫌われたらどうしよう。せっかく仲良くなったのに。
耳元で呼び出し音が途切れて、もしもし、と電話口から聞こえた声に、返す言葉は少し震えて。
『え、何。どした? なんか死にそうな声してない?』
「……ごめん、あの、……今、家?」
『そうだけど』
「忙しい……?」
『特に……え、ほんと何?』
唇が乾く。心臓がうるさい。
迷いながらもぽつり、ぽつりと現状を説明する。話しながらも、頭の中は悪い予感でいっぱいで。
でも、返ってきた友達の声音は、あまりにもあっさりとしていた。
『いーよ、そしたらうち泊まりにおいで』
え、と数秒時が止まる。もしかして気を遣わせてしまったんじゃ、と勘ぐったけど、全然そんな感じの声じゃない。
大丈夫、なのかな。迷惑じゃない? 本当に?
「……い、いの……?」
『ただ、今はちょっと部屋散らかっててさ。んー……三十分くらい時間潰しててくれる? 駅前のスーパー遅くまでやってるでしょ。そこに居てよ。後で迎えに行くから』
想像していた最悪とは百八十度違う現実に、力が抜ける。
優しすぎか。
急に優しくされると、緊張の糸が切れそうになるからやめて欲しい。涙出てきた。
「うー……ありがとう……」
『はいはい、遅いから気をつけてね』
鼻を啜りながら、お菓子買ってく、と言うと、じゃあパーティしよと軽く返された。聖人なのかもしれない。
あまりにも大好き過ぎるので、これからありったけの貢ぎ物を買い込んで行こうと思う。
/『一筋の光』
むかしむかし、とある王国で、お妃様が魔法の鏡を手にしました。
その新しい鏡を自室に持ち込んだお妃様は、そこに映った自分自身を熱心に見つめながら、うっとりと呟きます。
「鏡よ鏡、この世で一番美しいのは私ね」
すると、それを受けて鏡が答えました。
[いいえ、貴女ではございません]
その鏡の言葉に、お妃様はとてもとても衝撃を受けました。
よろよろと数歩後退り、見開いた目で数秒鏡を凝視した後、ひとこと。
「…………え、今誰か喋った?」
思わず漏れた彼女の言葉に、今度は鏡が沈黙する番でした。
実はお妃様に、目の前の鏡が魔法の鏡であることは、一切知らされておりません。単に今朝がた愛用していた鏡を割ってしまい、その代わりにと用意された鏡がとってもお妃様好みの装飾だったため、上機嫌だっただけなのです。お妃様にしてみれば、おニューの鏡にいつも通り呟いたお決まりの独り言が、全く知らない人の声に突如として遮られただけ。とんでもないホラー展開でした。
不審者でも居るの……? とびくびくしながらお妃様は室内を見渡します。けれど人の気配はありません。鏡に向かって自画自賛するのがすっかり日課になっているお妃様は、恥ずかしがって普段から部屋には誰も入れませんから、当然と言えば当然です。
そうこうしているうちに、ふとお妃様は、鏡の異変に気が付きました。そこにはいつの間にか、お妃様ではなく不気味な仮面が映っていたのです。
ばっと後ろを振り向いても、当然のごとくそこには何もありません。鏡の中にだけ現れる仮面に、なにこれ怖、と思っていたお妃様は、ふと思い至りました。
「もしかして、呪いの鏡……?」
そんな話を聞いたことがあります。まるで現実味のないおとぎ話の類いでしたが、お妃様には目の前の鏡がそれに見えてどうしようもありません。
しばらく考え込んでいたお妃様はやがてふうとため息をつきました。
「やむを得ないわね、割ってしまいましょう」
[お待ちください!]
しかし、そんなことをされてはたまったものではないのが魔法の鏡。かねてより『聞かれたことに真実を返す』『聞かれていないことには答えない』を信条としていた鏡ですが、そんなものを律儀に守って壊されてはたまりません。今までの沈黙もなんのその。鏡はそれはそれは饒舌に自身のことを語りだしました。
自分が魔法の鏡であること。真実を語るものであること。先程はお妃様が自分に語りかけたがために返事をしたこと。
初めは驚きながらも、素直に鏡の言い分に耳を傾けていたお妃様でしたが。
[ですから、一番美しいのは貴女ではございません! 白雪姫です!]
突如として飛び出したデリカシーの欠けらも無い発言に、お妃様はノータイムでぶちギレてしまいました。
「あなたはいったい何様なのかしら」
鏡はいきなり声が低くなったお妃様に動揺しますが、そんなもので止まるお妃様ではありません。
「おあいにくだけれど。私は私の思い描く、最高の美をこの身に体現するだけなのよ。外野の評価など知ったことではないのだわ」
[し、しかし、客観的な意見を申しますと──]
「分かっていないようね。美醜の評価など、最終的には受け取り手の好みで変わる。なぜこの私が有象無象の好みなどに合わせなければならないの。身の程を知りなさい」
実はこの時、お妃様は鏡のことだけに怒っていたのではありません。鏡の無礼発言に、過去他人に言われた数々の失礼発言を重ね、長年溜まりに溜まった鬱憤を八つ当たりの如く打ち出していたのです。鏡にとっては実に不運な事でした。
もっとも、鏡は鏡で失礼なことを言ったことに変わりはないのですが。
「私は私の最高を追求するだけ。……余計な茶々を入れて要らない価値観を押し付けてくるのなら、ぶっ壊すわよ、あなた」
低音で放たれた最高にドスの効いた発言に、鏡はすっかり怯え切ってしまいました。
だんだん小さくなっていく鏡の中の仮面に、お妃様はフンと鼻を鳴らします。ですが微妙に怒りの収まらないお妃様は、腰に手を当てて鏡を指さし、眉根を寄せながら言いました。
「せっかくだわ。最後にその白雪姫とやらを見せてご覧なさい」
そうして鏡に映し出されたのは、白雪のように白い肌に、黒檀のように黒い髪、血のように赤い唇をもった、美しい少女の姿。
お妃様は今までの怒りを引っ込ませ、急に真顔になると、鏡の中の少女を穴のあくほど見つめます。鏡がハラハラと行く末を見守る中、無言で少女を凝視し続け、長い沈黙の末にぽつりとひとこと。
「かっわいー」
かくしてお妃様は白雪姫の隠れファンとなり、無礼を働いた魔法の鏡は無罪放免。お妃様は時折鏡に白雪姫の様子を映させては、それをにこにこと眺める日々を送るようになったのでした。
めでたしめでたし。
/『鏡の中の自分』
「空が見たいな」と、君が言った。
何の話? と首を傾げたら、君はとても儚げに笑った。そんな顔はこれまで見たことがなかったから、今まで霞んでいた目の前の景色が、急に現実味を帯びてきてしまった。
ああ、そっか。本当に終わりなんだ。もうすぐ全部が終わるんだ。
「理想郷って、あると思う?」
理想郷、か。そうだなぁ。
きっと、空が青くて、空気が美味しくて、自由にどこまでも行けるんだ。
お腹いっぱい食べられて、暖かくて、誰も傷つかなくて。皆が笑って暮らせる、そんな理想の場所。
けど、きっと現実にはないよ。あったとしても、私たちは行けないよ。
こんな体じゃ、もうどこにも行けないよ。
火の勢いが増してきた。床も壁もオレンジの炎に煽られて、焦げ臭さが鼻につく。
地上に出る階段は、倒壊した瓦礫におおわれて通れなくなってしまった。他にここから出られる道は無い。ここで終わり。全部終わり。
嫌いだったな、この研究所。
連れてこられたその日から、来る日も来る日も実験ばかり。人体実験ばかりされるから、身も心もぼろぼろになって。
でも、いいか。許すよ。どうせもうすぐなくなるものね。
膝から下の感覚がない。さっき降ってきた瓦礫に潰されたから、たぶん、もうぐちゃぐちゃだ。痛みは思った程でもないけれど、見るときっと酷くなるから、見たくない。
最後に空が見たかった。
いつか全部が終わるのだとしても、それはここじゃないどこかが良かった。
「理想郷はさ、天国にあると思うんだ」
隣で君が言う。それに応えたいけれど、声は出ない。だから、心の中で返事をする。
双子だから、伝わるかもしれない。そんな淡い期待を込めて。
君は信じてるの? 天国。
「信じる者は救われるんだって」
なあに、それ。
「一緒に行こうか。天国」
そう言って、手を握られた。繋いだ君の手はとても温かくて、いつの間にか自分の手が、とても冷たくなっていることに気がついた。周りは燃えてて暑いくらいなのに。
私は、死んだら全部そこで終わりなんだと思っていた。天国とか地獄とか、そんな都合のいいものはなくて。しょせんは全部、人がつくり出した想像なんだって。
でも、どうなのかな。あるのかな。
もし死後があるのなら、私たちが行く先は、きっと地獄の方だろうけど。
「大丈夫だよ」
繋いだ手が温かい。声につられて君を見あげると、優しい瞳と目が合った。
「天国でも地獄でも。どっちみち、行き着く場所は一緒でしょ」
独りじゃないなら、寂しくないね。そう言って笑う君に、じわじわと胸が暖かくなるのを感じた。
そうだね。生まれる前から一緒だったもの。生まれてからも、この先もずっと一緒だね。
だんだん目の前が霞んでくる。手を包む温もりを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
どうせ全部が終わるなら、最期くらい、いい夢見ながら終わろうか。
/『理想郷』
懐中時計を見つけた。
くすんだ銅色の、アンティークっぽい感じのやつだ。蓋にはごちゃごちゃした複雑な文様が彫られてる。ボタンを押して開いてみると、文字盤の真ん中がぽっかり空いてて、中の小さな歯車が噛み合ってるのが見えた。スケルトン仕様ってやつ?
とにかく、聞いてた特徴とはバッチリハマってる。これ、当たりか?
「店長ー、これっすか? 探してたやつ」
奥の方に居るはずの店長を呼ぶと、ごそごそと何かを漁っていた音がピタリと止んだ。
この骨董店は、近々閉店する。もともと店長の趣味で始めたようなもんで、普段も客なんて全然来なかったけど。まぁそれでいて、おれというバイトを常時雇ってたのも謎ではあるけど。
でも、楽して稼げて居心地も良かったのにな。なんてしみじみと浸っていると、急に棚の影からぬっと顔が生えてきて肩が跳ねた。
よく見ると店長だった。脅かすなこら。
「ああそう、これこれ! 良かったぁ。無くしたかと思ったよ」
おれの手からひょいと時計を持ってって、店長はオーバーに喜んでる。そんな大事なもんなら、分かるとこに仕舞っときゃいいのに。
「ふつーに売り出し中になってましたよ。いい加減、片付け覚えません?」
おれが居なくなったらどうするつもりなんだろう、この人。
思えば、初めの仕事はゴミ屋敷じみた店内の整理だった。この店が今、ちゃんと店として機能してるのは、おれのおかげだ。店長はいい大人のくせして、片付けがまるでできない。
「この時計、僕の思い出の品なんだ。聞きたい? 語っちゃっていいかな?」
うきうきと目を輝かせて話す店長にうんざりする。何かと喋りたがりの店長は、こと骨董品の話になるとめっぽう長い。いつもなら適当にあしらうところだけど。……まぁいいか、最後くらい。
そんなに長いこと働いてたわけでもないのに、終わるとなるとちょっと寂しい。基本暇だったけど、なんだかそれすら懐かしく思えてくるなぁ。
と、そこまで考えてふと気がついた。
「そういえば店長、この店やめるのっていつっすか? 詳しいことなんも聞いてませんけど」
いい加減教えてくれてもいいんじゃ、と思いながら話を振ると、店長は鳩が豆鉄砲食らったような顔をした。え、何その顔。
「やめないよ? 店」
「は? でも閉店するって」
「これ見つかるまでは店開けらんないなぁって意味だよ。大事なものだからね」
なんだそれ。
「あ、もしかして勘違いしちゃった?」
「……うるっさ」
恥だ。大恥だ。むかつく。無駄に浸ってたのが馬鹿みたいじゃんか。
顔が熱い。羞恥を振り払うように店長の目の前に手を出すと、その顔を睨みつける。
「特別手当ください。頑張ったんで」
「ええ、まだ勤務時間内でしょう。それくらいはさ」
「頑張ったんで。おれ、お手柄なんで」
「……まぁいいけど」
「やった」
言ってみるもんだな。
手渡された茶封筒を受け取って、いそいそと中を確認する。数秒中身を見つめてから、店内にある古い置時計に視線をちらり。
実働三時間。支給が千円。時給あたり三百円ちょい。
……しけてやんの。
/『懐かしく思うこと』