窓で弾ける雨粒を、ぼんやりと眺める。
そういえば洗濯物を干しっぱなしだったと思い出したが、今となっては後の祭りだ。
「早川さん、仕事のカタがつきそうだったら早く帰りなさいね。これから本格的に降るらしいわよ」
上司が帰り支度をしながらノートパソコンを閉じた。
「…後、1時間だけ頑張ります」
「そう?私は先に帰るけど、戸締りよろしくね」
彼女の消えた事務所は、静寂に包まれる。
家に、帰らなければいけない。
そう分かっているのに帰る気にはなれなかった。
携帯がバイブして着信を伝える。
画面に表示された名前に、ため息をついて後5コールして切れなかったら出ようと心に決めた。
1…2…3…4…5…
「…もしもし」
「あ、やっと出た。ちょっとアンタいつ帰ってくるのよ…洗濯物も干しっぱなしだし、ご飯だってまだなのよ?」
「…今日は仕事で遅くなるって伝えただろ?洗濯物は取り込んでくれて構わないし、ご飯だって待ってなくていいよ」
「なんで私がアンタの洗濯物を取り込まなくちゃいけないのよ。ご飯だって、疲れて帰ってきた私に作らせるつもり?」
俺は疲れてない、って言いたいのだろうか。
「…分かった。すぐ帰るよ」
「そう?急いでね」
切れた無機質な電話音に深く深くため息をついた。
「…はぁ、」
「早川くん」
帰ったとばかり思っていた上司が、いたたまれなさそうに眉を下げて立っていた。
「あ、すんません。業務中に私用の電話なんか…」
「別に誰もいやしないからいいけど…それより、大丈夫?」
「何が、ですか?」
「だって、辛そうに泣いてるから…」
気づけば俺の頬を流れる雫が、窓の外で降る雨のように零れ落ちた。
「無理しないでいいのよ。辛くなったら話聞くし、逃げたくなったらいつでも頼ってね。早川くんは、頑張りすぎてるわ」
そう言ってカバンから彼女は未開封のチョコレートを取り出した。
「甘いものでも食べて、帰りなさい」と笑う彼女に、思わず抱きついて大人気もなく泣いてしまう。
そんな俺に彼女は困ったように笑いながら「セクハラで訴えられないかしら」と俺の頭を不器用に撫でた。
「HELLO!」
軽快な声。シャボン玉を弾いた時みたいな一瞬の音。
「今なら絶賛1分間だけ、この世のどんな質問にも答えてあげよう」
軽快な女性の声は高らかに笑う。
「…もしも未来が見れるなら、貴女は何が見たいですか?」
「んんん?!」
驚いた声をした彼女は、それでいて少し嬉しそうに言葉を返す。
「そうだなぁ。例えば、競馬の結果とか宝くじの当たり番号とかかなぁ!」
「…自分の事じゃないの?」
「はははっ!!自分の未来なんて見ても見なくても関係ないよ!だって私たちは今を生きてるんだからさ!」
そうだろ?
なんて言って、電話はツーツーと無機質な音を立てた。
誰よりも、ずっと、アナタの事が好きだった。
人の想いに順番なんてつけれるものではないかもしれないけど、多分この世界でアナタのパパとママよりアナタを好きだった。
強がりな私はアナタを好きだなんて1度も言ったことがなかった。
「お前って、本当に俺のこと好きだよな」
って呆れたように笑うアナタに「そんなことないよ」と可愛くもない言葉を零した。
誰よりも、ずっと、アナタの事が好きだった。
ウエディングベルの向こうに幸せそうに笑うアナタと、幸せそうに笑う彼女をぼんやりと見つめて静かに手を叩いた。
誰よりも、ずっと、アナタの事が好きだから。
アナタのこれからが、ずっとずっと幸せであればいいと願う。
猫なんて、拾わなければ良かった。
一人暮らしで猫なんて飼ってれば友達の呑みにも気軽に行けない。
少しほっといたって猫は寂しくないよ
なんて友達は言うけど、捨てられてたこの子がどんな気持ちであの段ボールの中に居たかなんて人間の私には分からない。
ずっと寂しい思いをしてたんじゃないかって思ってしまったって仕方がない。
この子を拾った時、私も寂しかったのだ。
仕事も上手くいかずに、婚約していた相手の浮気が分かって、友達とも喧嘩して…
私とこの子は寂しいもの同士
名前は特に付けなかった。
1人と1匹だけの生活で、必要ではなかったから。
ここ数日、具合が悪そうなこの子を最寄りの動物病院へ連れて行って、名前を書く欄でパタリと手が止まる。
看護師さんは、「拾ってきたばかりなら名前が無いのは仕方がないから、次までにお名前を決めてあげてください」って言うけど、この子との生活ももう5年が経つ。
名前、なんて必要だろうか。
名前なんて付けてしまえば…
「ただの風邪ですね。お薬出しますので1週間後また様子を見せに来てください。他に、お困り事はございますか?」
1週間。
それまでにこの子の名前を決めなきゃいけないのかと心がザワついた。
「…名前って、決めなきゃいけないんですか」
ふと口から零れた言葉にお医者さんは少し驚いた顔をしたが、すぐに優しく笑った。
「どうしても名前を決めたくないなら、それはそれでいいですよ。…ただ、これから、ずっと、この子が歳をとるまで傍にいるのは貴女です。この子には貴女しか居ません。名前はこの子がこの世に生まれた時に最初に貰うプレゼントですから、無いよりはあった方が素敵だと思いませんか?」
病院から出ると疲れたのかこの子はケージの中で丸まって眠っていた。
真っ青な雲ひとつない晴天を見上げて、ふと思いつく名前を口に出す。
にゃー
と、眠たげな目でそれでいて嬉しそうに見える表情で鳴くこの子に、これから、ずっと呼び続けるであろう名前を付けた。
兄が死んだ。
誰にでも優しくて、誰にでも親切で、誰もが憧れる理想の兄。
共働きだった両親の代わりに、年の離れた私の親代わりをしてくれてた。
自分だって自由に遊びたい時があっただろうに、私を優先して、自分のことはいつだって二の次三の次だった。
「私も子どもじゃないんだし、好きにしていいんだよ?」
高校の帰り道。
仕事帰りの兄がいつも待ってくれていた。
職場の付き合いだってあるだろうに、いつも18時30分には必ず大通りの交差点で待ってくれていた。
「俺が好きでお前の世話してるんだよ。兄ちゃんの楽しみに付き合ってくれよ」
そう愛おしそうに私を見る兄に嘘はなかったと思う。
「明日は友達と遊ぶから、待ってなくていいからね」
突如鳴り響いた急ブレーキの音。スローモーションに見えた世界で兄が驚いた顔をして、私を強く突き飛ばした。
兄の軋む体が突っ込んできたトラックに跳ね飛ばされる光景が、コマ送りみたいに一瞬。
甲高い悲鳴に我に帰れば血塗れの兄が地面に横たわっていた。
「お兄ちゃんっ!!」
泣き声より叫び声に近い私の声に兄はかろうじて私の姿を捉えた。
「…ぶ、じ…?」
「私の心配より、自分の!あ、あっ、きゅう…救急車…呼ば、呼ばな」
「だ、い…じょぶ。お前に、け…が…がなく、て、よかった」
「お兄ちゃんはそれでいいの!?私の面倒ばっかり見させられて!今日だって私さえ待ってなければこんな事故にだって遭わなくて良かったのに!!なんで、いつも、…お兄ちゃんは、それでよかったの!?」
「お、れは…1度だって、面倒、だなんて…思ったこと、ないよ。いつ、も、俺の…わ、が、ままに…付き合って、くれ、て…ありがとう」
遠くで鳴るサイレンの音に、兄の声がかき消される。
最期に兄が私の名前を呼んだ気がした。
周りの喧騒とサイレンの音に混ざって、聞こえないくらいの小さな声で兄は、大切な宝物のように私の名前を呼んだのだ。