お題:子供の頃は
子どもの頃は、成人したら大人になるのだと愚直なまでに思っていた。
自分は二十歳が成人とされた世代なのだけれど、二十歳というのは、子どものまなざしから見つめると、本当に大人に見えた。
例えば、『クレヨンしんちゃん』のななこお姉さんなどは、本当に素敵な大人の代表格だった。しんちゃんや野原家への優しく気配りのある接し方に、大学生は大人なのだ、と子どもながらに感じさせられたものである。
(一方で、みさえや書店の店員さんなどの、等身大の大人の姿もかなり描かれていたのだが、当時は、大人といえばななこお姉さん、とさえ思っていたかもしれない)
しかし、である。
いざ自分が成長してみて、おやおやおや? と疑問が首をもたげた。
成人してみても全然、子どもの頃と内面的な変化が無いのである。
大人だけど相変わらず虫は苦手だし、漫画は好きだし、なんならアニメもたまに観る。ゲームも、昔のように頻繁にはやらないけど、たまにやると、やっぱり面白いなとわくわくする。友達に会えれば嬉しい。
ただ、何気ない場面で子どもと接する時や働いている時などに、大人として必要な振る舞い方を「演じている」。そういう感覚が絶えずある。
下戸で嫌煙家で博打も好まない。大人が好むそうした行為にあまり惹かれない。こうなってくると、大人らしい大人というより、子どもらしい大人、と言えるかもしれない。
子どもと接していると、こちらに子ども時代があったということへの意識があまり無い様子に接することがしばしばある。
でも、考えてみれば確かに、自分の幼い頃もそうだったかもしれない。経験していないことは、誰しも分からないものである。分からないものは無いもの、と思っても子どもなら無理はない。
大人になるということは、ある種、自分の中で私的な時間と公的な時間との間で精神的な区切りをつけることなのかもしれないと思う。
社会的なペルソナを演じることができるようになり、社会的に求められる人物像を多かれ少なかれ演じられるようになった時こそ、大人になった、と言えるのかもしれない。
そんな風に思う今日この頃である。
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執筆時間…15分くらい
お題:未来
子どもの頃から今でも、未来というものを思い描くことができない。
ずっと、二十歳を超えてからの未来がイメージできなかった。いや、それ以前に、高校生の自分、大学生の自分なども既に満足に想像できなかった。当時色々家庭で大変なことがあり、生きているのさえ嫌になっていたのも大きい。
キャリアデザインという言葉など、自分の子ども時代にはまだ馴染みはなかった。将来何になると聞かれても、見たことのある仕事しか想像がつかなかった。
仕事も、結局、親が認めるものでないと許されない圧があった。そういうものに巻かれて、何もかも思考を放棄して就職してみたけれど、結果的にその仕事は致命的に自分には向いていなかった。その仕事を選ばなければその学部に通った意味はないというのに。
何のために自分は生きているのだろう。
上の兄は、己のやりたいことを幼い頃から貫き、努力を欠かさぬ人だった。そのやりたいことの他に芸術の才能もあり、親からも世間からも認められてきていた。自分には何もなかった。ただ、立派な兄が常に何歩も先を歩いているのを後ろからただ見守っている日々だった。
施設の祖母から、お前はいつ結婚するのか、ずいぶんと適齢期を過ぎているが大丈夫なのか、結婚式に参列したい、お前の親だって結婚を望んでいる、親孝行をしてやりなさいと延々と話をされた時も、心は冴え冴えと冷たく澄んでいた。
普段なら親しくやり取りができたのに、この時はもう一言も口にしたくなくなっていた。
誰かを喜ばせるために就職して、結婚して、そういう誰かのための歯車になる生活の中にも喜びはあるのかもしれない。でも、自分には、これ以上自分を他人の寄越す枠に無理やりはめ込んで、誰かの喜びのために自分の喜びを殺す生き方はもうしんどくてとてもできそうにないことだけは間違いない事実だった。
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執筆時間…30分もかかってない
お題:好きな本
こんなお題が出されると、読書好きとしては非常に困る。
何故なら、語りだしたら止まらなくなってしまうからだ。
好きな本、それは自分には無数に存在する。一番、とか二番、などと順位をつけるのも難しいくらいに、好きな本だらけだ。
うーん、何の本の話をしようかな……と、頭を捻ってみるが、いろいろ話したくて仕方がないので、困る。それはもう、非常に困る。しかも、厳密に言うと自分の場合、本、というより作家推しなことが多くて、本を語るというよりは寧ろ、作家ごと本について語る、みたいな感じになってしまう。
例えば、瀬尾まいこさんの本はどれも心にじんわりと柔らかくて温かなものが沁みてくる作品ばかりで大好きだ。
高校の頃、書店で『幸福な食卓』がワゴンに山積みになって売られているのを見かけて、直感的に手に取ったのが最初の出会いだった。
当時はハードカバーの本でも見かければ躊躇なく買っていた頃で、ネットなどで調べたりせず、自分の感覚で本の表紙を書店で見て、これはと思うものを買って読んでいた。今思うと、なかなかチャレンジャーで勇気があるなと思う。お小遣いで本を買っていた子どもの頃は、そういう無軌道な偶然に身を任せるのが好きだった。
あと、気になるけどどんな作品だろう、というものは、書店で何ページか試し読みをして、これはいけるぞ、と確信をもてたら購入していた。
『幸福な食卓』は、父親のトリッキーな発言に端を発する作品で、ここからどうなるのだろうとわくわくさせられながら読み続けた。実のところ今となっては作中の展開も結末もおぼろだったりする。
でも、瀬尾さん作品からは一貫して、読後に「明日からも頑張って生きていこう」と思えるような、柔らかな慈しみや励ましの力を感じているので、多分あの作品も、そういうポジティブなパワーを貰えるお話だったのではないかと思う。
(これを書いていて、久々に読み返したくなってきた(笑))
最近読んだ瀬尾さん作品で好きなものは『私たちの世代は』『掬えば手には』『その扉をたたく音』『そして、バトンは渡された』などなど。まだ本は読めていないけれど、『夜明けのすべて』は映画を観てきて非常に面白かったので、原作は果たしてどうなっていたのか確かめたいと思っている(けど、そういえばまだ読んでいなかったことに今気付かされた(笑)近い内に読もうと思う)。
別の作品、作家の話に移ろう。
社会情勢的に、ロシアとウクライナの戦争など大勢の人が辛く苦しい目に遭い続けていることを思うと色々心が揺れてしまう日々である。そんな中では、自然とスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチさんのノンフィクション小説『戦争は女の顔をしていない』や、逢坂冬馬さんの『同志少女よ、敵を撃て』、『歌われなかった海賊へ』などが胸に深く突き刺さった。これを好き、と言うのは少し違うのかもしれないけれど、作家の方々の丹念な取材や調査、凄まじい筆力によって、戦争を実体験していない自分に文学という形で戦争の様相の凄惨さを切実なまでに伝えてくるもので、大切に何度でも読み直したい珠玉の名作たちだと思う。
幸いなことにこれまでの人生で戦争は経験していないけれど、新型コロナウイルス感染症による未曾有のパンデミックを経験する中で、生活を制限させられ我慢を強いられること、物資の高騰や不足など、戦時中の方々も経験していたようなことの一部分を体感することができた。その結果、こうした作品への解像度が上がったことも、戦争文学の読書に没頭した一要因であることはまず間違いないだろう。
他の作品、作家の話に移ろう。
島本理生さんの恋愛作品がとても好きだ。小手鞠るいさんのものも大学の頃は好んで読んだが、最近はあまり読めていない。ずっと続けて読み続けているのは島本理生さんの作品である。好きな作家はたくさんいるけれど、何度でも繰り返し定期的に読み直す作品は、島本理生さんばかりだ。
映画にもなった『ファーストラヴ』や『Red』も好きだけれど、何度も何度も読み返すのは『波打ち際の蛍』『わたしたちは銀のフォークと薬を手にして』である。いずれも年に一回、夏頃になると読みたくなって手にしている。どうしてこんなに好きなのか、自分でもうまく言葉にはできないけれど、何度もここに立ち返ってきたくなる作品なのだ。まるてわ心をここにつなぎとめる、錨のような作品たち。多分人それぞれそういう作品は違うのだろう。たまたま自分の場合は島本理生さんのこれらの作品なのだ。
他の作品、作家の話に移ろう。
(この流れが、本当に永遠に続きそうな気がしてくる……!)
子どもの頃に何度も何度も繰り返して読んでいて、今となってはもう、ほとんど読み返すことはないけれど、心の中にずっと友達のようにあり続けている作品がある。今年の春に亡くなられた、宗田理さんの作品『ぼくら』シリーズだ。もう、好きという言葉では足りないくらいに大好きで、ぼくらの仲間は自分にとってかけがえのない友だちとして今もずっと側にあり続けている。
最初に読み始めたのは、あまりに邪道だけれど『ぼくらののら犬砦』からだったと思う。兄の部屋にあったそれをたまたま読んで、そこから興味をもったような気がする。もうあまりに子どもの頃すぎて、記憶がねつ造されている気もしなくはない(でも、多分そうだったはず……)。大人になった英治の姿を見てから、子ども時代に移っていった。
自分の子どもの頃は、角川書店のぼくらシリーズしか書店には無くて、当然ながら今の可愛い英治たちのイラストが多種多様に描かれたぼくらシリーズは無かったし、英治たちの容姿などはどんなものなのか、具体的には知る由もなかった。
『ぼくらの七日間戦争』『ぼくらの天使ゲーム』『ぼくらの大冒険』『ぼくらの秘島探検隊』などは実写映画のメンバーが表紙を飾っていて、しいて言うならこれらの表紙写真が英治たちの印象に多少影響していただろうか。いや、でも何となくは参考にしていたけれど、自分の中の英治たちの姿はやっぱりぼんやりとあったように思う。相原は何となくだけど顔立ちは整っていそうだろうなぁ(今で言うなら「塩顔」なのかなぁ)とか、英治はぽやーっとしていそうな素朴であどけない感じの子だろうなとか、純子は昭和のアイドルみたいな感じの可愛い子だろうなとか、そういう何となくのイメージ。絵を描くのは苦手だけど、当時、自分なりの彼らのイメージを絵にしてひとり遊んでいたことがある。
たくさんの登場人物がいるのに、一人ひとりはっきりと個性が際立っていて、それぞれに魅力があって、ぼくらのみんなと本当に友だちになりたいと当時、すごく思ったものだった。
思春期なこともありいろいろ捻くれていて(捻くれているのは今もまぁ多少は残っているけども…)、でもそういうものを人に対して表すのは苦手な自分にとって、ぼくらの仲間たちが大人に対して正々堂々真っ向から反抗していく姿は非常に清々しく、格好良く見えたものだ。
子どもを馬鹿にして舐めた態度をとる「ムカつく」大人を、世間的には「無力で、大人の庇護下にある」はずの子どもたちが知恵と勇気をもって全力でぶちのめす。
とても分かりやすいジャイアントキリングの構図が、うまく言語化できない大人の日々の抑圧に耐えている身としては、たまらなく魅力的だった。
宗田さんの作品の、子どもたちへの柔らかなまなざしと、子どもを子どもとしての枠に留めず自由に解放してくれる優しさのようなものが本当に大好きだった。いや、作品を読まなくなって久しいのでこうして過去形で表しているけれど、今も変わらず好きだ。
それに、宗田さんのこともすごく尊敬している。常に社会情勢を取り入れながら作品をブラッシュアップしていく方だった。最新のガジェットなんかも作品に出てくるし、社会で問題になっていることを即座に作品に反映させているし(なんなら『ぼくらの七日間戦争』だって、安保闘争という少し前の社会であった出来事を反映させていた訳だし)、毎回新作が出るたびに、感性が瑞々しくて若々しい方だなと驚かされ続けた。
ずっと健康に長生きしてほしいと心から思う作家の一人だった。そういう風に祈りのような気持ちを抱く作家の筆頭だったと言えるくらい、自分にとっては神様のような作家だった。
毎年新作が出るたびに、そういえばもうすぐ100歳も近いよなぁ、それなのにかくしゃくとされていてすごすぎる…と、畏敬の念を抱いてもいた。
いつお亡くなりになってもおかしくないと思いながらも、新作が次々に出て、驚かされつつもすごく嬉しくて、さすが宗田さん、と感じていた。
訃報を知った日、茫然としながら仕事に取り組んだ。信じたくなかった。でもご年齢もご年齢だし、宗田さんが本を出している出版社の方々が軒並み追悼の文章をSNSにあげていて、夢ではないことも分かっていた。
正直、今も時折悲しくなることがある。もう宗田さんの新作が読めないんだなと思うと寂しくもなる。
でも、昔のシリーズ作品は内容を覚えるほど読み込んでいるけど、その後に出てきたシリーズ追加作品についてはまだそこまで熟読はできていなかった。だから、新作という形で宗田さんの作品と出会うことはもうできないけれど、まだじっくり読み込めていないぼくらの後発作品を大切に読んでいくことをしていきたいなと思っている。それに、2A探偵局シリーズもまだ読めていない作品が結構あるし、宗田さんの他の著作で目を通せていないものもある(いっちょかみスクールシリーズとか…)。そうして考えると、宗田さんの遺してくださったたくさんの作品がこれから先、新たな友だちになってくれるのだろうなという期待がわいてくる。
いやもう、このお題、書こうと思うと延々と書けてしまうなぁ……。
他にも好きな本もとい作家は山ほどある(いる)。浅原ナオトさんや青山美智子さん、伊坂幸太郎さんや今村翔吾さんや宇佐見りんさんや乙一さん(山白朝子さん)、窪美澄さん、辻村深月さんや長岡弘樹さん、中山七里さん、凪良ゆうさん、西尾維新さん、町田そのこさん、三浦しおんさん、宮島未奈さん……全部話したいけど、だんだん打つ指が疲れてきたので、この辺りで一旦やめておく。
もしかしたら、後でこっそりこの先も書き足すかもしれない。
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執筆時間…多分一時間以上やってる。
途中から夢中になっていたから、いつから書いていたかもちゃんと把握していない。
このテーマは沼すぎる。完全に好きな本などを語りたくてうずうずしている身にとってはある意味毒だ……。
日常でも小説について語れる友人がたくさんいたらいいのだけれど、生憎そうではないので、もくもくと本を読み、たまにSNSの壁打ちみたいなアカウントで感想を垂れ流している。読書について語れるSNSの友達は二人、執筆について語れる友達は一人いるので、彼や彼女らとたまに語り合うのが密かな自分の楽しみだ(なお、読書と執筆について語れる友達は共通の一人で、つまり、自分がこういうことを語れるSNSの友達は二人だけということになる)。
当然ながら壁打ちということは反応も取り立ててないので、別に鍵をかけている訳でもないけれど、ただ一人感想を呟いて終わる感じである。孤独だけれど気ままに好きなようにやっている。大勢からフォローされている読書アカウントの方などはやりとりが楽しそうな反面、大勢から常に見られていたり、毎回反応が沢山あって返信が大変そうでもあるので、どちらも一長一短なのかもしれない。
お題:あじさい
紫陽花は土壌の成分によって赤色や青色に変化する。そういう性質をもつからなのか、花言葉も「移り気」「浮気」などというちょっと斜に構えたものが多い。
犯罪捜査の際も、遺留品や遺体などが紫陽花の近くに埋められている場合、その影響で花の色が変化するとされており、貴重な情報源になるらしい。推理小説などで扱われることも多いので、ご存知の方も多いだろう。
ざっくりいうと、酸性だと青色、アルカリ性だと赤色になるとか何とか。
もし紫陽花をカラフルにしたいなら、その生えている場所のあたりに色んなものを埋めてみるといいのかもしれない。翻って考えると、もし同じ土地なのに隣り合う紫陽花の色が違うのならば、その側には「何か」が埋まっているのかもしれない……。
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執筆時間…10分程度
なお、自分が読んだ、紫陽花のことについて作中で扱われていた小説は、長岡弘樹さんの『教場』シリーズ内でのことである。多分シリーズでは比較的最近の作品の中だったような気がする…けど、なにぶんだいぶ前に読んたものなので、何番目の小説でかは覚えていない。
お題:好き嫌い
好き嫌い、という言葉がある。
好き、という言葉に関してはまぁ、特に思うことはない。
一方で、嫌いという言い方は、その対象を突き放すような冷たさをはらんでいるように思う。決して理解し合うことはないような、受け入れることはないような、近寄ることはないような、そんな壁のようなものが間にある言葉ではないかと思う。
だから自分は、何かの好みについてなど話す時には、好きなもの、という言い方はするが、その対義語代わりには基本的に、「苦手なもの」という言い方を好んで使っている。
ただ、例外はある。
虫などのどうしても好きになれない生き物に対してだ。「ご」から始まって「り」でおわる名前を呼ぶだけでゾゾーッとするアイツとか、何度も何度もしぶとく家の周りに巣を作って群れをなす憎たらしい蜂とか、夏にセミファイナルでこちらを驚かせてきたり、大声で鳴きわめいてきて耳に五月蝿い蝉とか、足がたくさんあって殺虫剤をかけるとその足がばらばらにもげて苦しんで死んでいく姿もちょっと不気味に感じるゲジゲジとか、洗濯物についてくるとどう取り外したものか思い悩むカメムシとか、部屋の中にしれっと入ってきてカサカサ動き回ったり巣を作ったりする蜘蛛とか……他にもハクビシンとかネズミとかコウモリとか蛇とか……もうとにかく色々……色々……。
彼らもただこちらと同じようにこの世に生を受け、ただ普通に生きているだけなのは重々承知しているけれど、もう生理的に無理なのだ。
自分の暮らす地域はどちらかといえば田舎にあたり、こういう生理的に無理な生き物たちがあちらこちらを闊歩(?)しているので、本当にしんどい。もし自分がお金持ちなら、虫やこういう生き物を撃退するのが得意な人を雇いたいくらいには嫌いである……。
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執筆時間…20分くらい