お題:マグカップ
甘い香りが辺りをただよっている。
私は思いきりそれを吸い込んだ。ショコラのようなその匂いをじっくり堪能して、ゆるゆると息を吐き出す。
目の前には、取っ手のついた大きいカップ。そこには宙を浮いた少女が描かれていて、異国の風景の中で優しくほほ笑んでいる。
そっと触れる指先がじわじわと温められていく。
取っ手に指を通してゆっくり持ち上げると、甘い香りがより鼻をくすぐった。期待に喉が鳴る。
傍らには昨日手作りしたお菓子。
別にバレンタインとか誰かの誕生日とか、そういうもののために作った訳ではない。ただ、私が食べたいから作った、市松模様のアイスボックスクッキーだ。
こくりとココアを飲み、クッキーに手を伸ばす。
さく、さく、と聞こえる音も楽しみながら、また褐色の液体を喉に流し込んだ。
甘くて甘くて、たまらない。
たった一人のお茶会は、まだまだ当分終わらない。
ココアもお代わりしようかな。もういっそ、これが夕飯ってことにしてもいいかも。そんな風に考えて、ふふふと笑う。
もうとっくに大人になって久しいのに、こんな子どもじみた振る舞いをしているのは端から見たらみっともないのかもしれない。
でも、別にいいよね。私は大人で、自分自身のことに責任をもって行動していいんだし。
だから、たまにはこういうゆるい食事をしたっていいし、お皿洗いをしながら思いきり好きな歌を口ずさんでもいい。
掃除機をかけるのは三日くらいサボっても死なないし、もしそれで具合が悪くなっても自己責任ってことで。
そんな風に調子良く考えながら、マグカップを覗き込む。
あっという間に姿を消したココアの代わりに、カップの底が冷え切ってこちらを見上げていた。
子どもの頃はありがたいことに、ずっと優しく守られて、とても健やかに過ごしてきた。
ジャンクフードなんて食べたことも片手で数える程度しかなくて、健康志向な両親は、うまい棒みたいな駄菓子は一切私には買い与えてくれなかった。
その片手の数を埋めたのは、彼らではなく祖父母や友人だ。祖父母がマクドナルドに連れて行ってくれた日は、私にとっては革命と呼ぶべき記念すべき一日になった。そのくらい、衝撃的だったのだ。
後に祖父母は両親、特に母親からたいそう大目玉を食らったらしい。その後暫く祖父母と会うことが許されなかったのは、それだけ母の怒りが強かったためだと思う。
私からしてみれば、違う景色を見せてくれ、違う世界があると教えてくれた祖父母に感謝こそすれ、恨む気持ちなどつゆぞ湧いてこなかったが、母からしてみれば、教育方針をねじ曲げるようなことをされて不本意だったのだろう。
大人になった今なら、二人が祖父母に腹を立てる気持ちも少し分かる気がした。子育てこそしていないけれど、もしも自分に子どもがいて、育てたい方向性がはっきりしているのにそれを妨げることを両親や義父母にされたら、怒り心頭に発する…というのは十分に考えられた。
両親の教育は概ねいいものだったと思う。
育児放棄されることも無かったし、虐待もされなかった。家に入るなと理不尽に締め出された経験も無く、橋の下で拾ったんだという安っぽい嘘で不用意に傷つけられることも無かった。差し出された手は間違いなく引っ込められることは無く、繋いだ手を不意に振りほどかれることも勿論無かった。
私はずっと、それは当然のことで、皆そうして育っているものなのだと信じていた。疑いを挟む余地はどこにも無かった。
でも成長の過程で耳にした周囲の友人たちの話で、彼らの親はそうしたふるまいを日常のどこかしらで必ずと言っていいほど何かしら行っているのだと知らされて、自分の両親の清く正しく美しい在り方に初めて気付かされた。
どういう風に成長すればこの社会で安心して生きていけるか、常に正しい道を指し示してくれていたのは幼心にも心安いものがあったけれど、その貴重さを改めて知って、私は深く両親に感謝したものてある。
二人の甲斐あって、今も基本的に規則正しく、たぶんそれなりに人として正しい生き方ができているのではないかと自負している。
でも、大人になってみて初めて分かったことがある。100%清く正しく美しく生き続けるのはすごくしんどい。少なくとも私にとっては。
子どもの頃から100点満点を取るのは大変なことだった。90点くらいまでならそれなりに取れるけれど、100点という、何の綻びもない点数を取ろうとするとすごく心に負荷がかかったのだ。
両親は完璧を求める人ではなかったので、私も無理せず自分らしくできることに取り組めたけれど、多分それも有り難いことだったのだろうと今になり思う。親になった友人たちが我が子に様々な思いや願いを託している様を伝え聞くにつけ、両親が多くを求めてこなかったことに感謝の念を抱くのである。
親元を離れて一人で暮らすようになってからは、それまでよりもずいぶんとゆるやかに生きられるようになった。100点満点は難しいし、両親も多くを求めては来なかったけれど、やはりそれなりにプレッシャーを感じていたんだろう。
マグカップに並々とココアを注いで、クッキーを好きなだけ食べる休日も、カップラーメンを啜る夜も、コンビニ飯でちゃちゃっと済ませて慌てて出勤する朝もある。それでもいいのだと、今の私はそう思えるようになった。それも多分、成長の一つなのではないかな、なんて嘯いてみる。
100点満点なんて目指さなくてもいい。自分が心地よく生きられる時間が多く取れれば、それで重畳だ。
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執筆時間…15分くらい?
今ココアを飲んでいたので、ココアを取り入れました。なお、クッキーは食べていません(笑)
子どもの頃に健康志向で育てられた子ほど、大人になるとジャンキーなものにハマっちゃうそうですね。テレビやネット、漫画を規制された子ほど、それらにのめり込んじゃうともいいますし。
何ごともほどほどが肝要かなーと思う今日この頃。
お題:もしも君が
この世に君がいなければ
僕は何の未練もなくあの世にいけるだろう
この世に君がいなければ
僕は明日も生きたいなんて思えないだろう
この世に君がいなければ
僕の世界はモノクロのままだろう
この世に君がいなければ
僕は笑うこともままならないだろう
だからどうか 君がいなくなりませんように
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5分程度でささっと。仕事の昼休憩にて。
お題:雨音に包まれて
しとしとしと。
静かな部屋の中には雨の音がほんのりと響き渡っている。
つい先日梅雨入りし、連日、雨の滴り落ちる音がBGM になっている。
ぱたぱたぱた、ピシャピシャピシャ、ザーザーザー。
その勢いによって、音は細々と移り変わっていく。
私の好きなのは、ちょうど今聴こえるくらいの音だ。ひっそりと雨を知らせる音。このくらいなら、何をするにもさほど妨げにならないし、意識すれば聴き取ることができて、ちょうどいい塩梅なのだ。
梅雨は正直あまり好きではない。
気圧のせいなのか、頭痛やめまいを誘われがちで、朝起きて窓を開けても、外の景色がどんよりしていて今ひとつ気分が上がらない。外に出かけるのも億劫になるし、車にしろ服にしろ、泥水がはねて汚れやすい。
でも、全部が嫌というわけでもないのだ。ペトリコールはちょっと好きだし、屋根を打つ雨音が天然のASMRになって心地良い。外には出たくなくなるけれど、代わりに家や図書館、カフェなんかでのんびり読書をするのも悪くない。
さて、明日は何をしようかな。
また雨音に包まれながら、何か楽しいことがしたい。
10分程度でささっと。散歩しながら書きました。
お題:これで最後
ああ、そんなに不安そうな顔をしないで。
そっと手を離して、その表情の変化していく様を見守ろうとした。でもできなかった。だって彼女は谷底に瞬く間に消えていったのだから。
「大丈夫、これで最後だから」
貴方の人生はここで潰えるの。だから何も不安になることなんてない。
口にした言葉を、あの子が耳にすることは無い。永遠にだ。
きちんとシナリオは出来上がっている。
二人で登山中、急に滑落しそうになった彼女を必死に支えたけれど、とうとう限界が来てしまった。そんな風に。
第三者が見たらやむを得ないような、そんな理由をこしらえたのだから、このことが明るみになることはない。私の行いの真実は闇に葬られる。
誰からも愛される彼女に密かに心を苦しめられ続けてきた、そんな日々もこれで最後だ。
何もかもから解放されて、初めて私は心から笑えた気がした。
見上げた空を飛ぶ鳥はどこまでも遠くへ去っていった。
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10分程度で書きました。
最近、山で起きた遭難事故の検証動画ばかり観ていたから、こんな風に山のことを書いてしまったんだと思います(笑)
お題:やさしい雨音
たたん、たたん、と機を織るような雨音が優しく耳を撫でていく。
読みかけていた本に栞を挟み、窓の外をゆっくりと眺めた。空気を取り入れるため小さく開かれた
曇天の空から絹のような雨が絶え間なく降り注いでいる。
少しだけ雨宿りするつもりで籠もった図書室は思いのほか居心地が良くて
※書きかけ
気力があれば続きを書く
2025.5.25 23:35