逆井朔

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5/9/2026, 2:32:47 PM

お題:忘れられない、いつまでも。

 二つ結びにしていた髪をポニーテールにするようになって、もうずいぶん経った。
 両耳の横でうさぎの耳のように黒髪をぶら下げていた学生時代のあの頃、私はずっと恋をしていた。
 同じクラスの近藤くん。かの有名な新選組の近藤勇と同じく勇という名前だけど、「ゆう」と読む、ということを4月の自己紹介で必ず口にしていた、童顔の男の子。
 勇という名前なのに、ほんわかと柔和で、たおやかに微笑む姿が好きだった。声変わりをしてもかなり高めの声で、合唱コンクールのときは男子で唯一ソプラノグループに入っていたっけ。
 隣の席で大して親しくもない私が消しゴムや鉛筆をなくして困っているときは、嫌な顔一つせずにさっと自分の筆箱から予備のものを貸してくれた。教科書を忘れた時も、机と机の真ん中の所に自分の教科書を置くのを嫌がらずにやってくれる貴著な男子だった。
 思春期に入ると男子の多くが、どことなく女子に対して距離をとるのが常のようになった。教科書を見せてと声をかければ煙たがられたり、外野から相手に気があるのではなどとからかわれたりしてげんなりする。
 幼い頃は男が女がなんてさして目くじら立てなかったのに、なぜ年齢を重ねたら性別の違いで爪弾きにされるのか、理解に苦しんだ。
 そんなふうに刻一刻と変化を続ける周囲の環境のなかで、けれど勇くんは決して揺るがなかった。女子だからと腫れ物に触れるような扱いをしてくることは決してなく、困っている人がいたらいつでも誰にでも平等な優しさを向けてくれる。とてもよくできた人だった。だからこそ、中学の頃の私がずっと意識していた人だった。

 だからこそ、同窓会の誘いが来たとき、一も二もなく飛びついた。
 とっくに誰とも連絡を取らなくなって久しかったけど、当時の友人と没交渉気味だからこそ、近藤くんに会える可能性がほんの少しでもあるならそれにすがりたかったのだ。

 立食パーティーの中で、私は常にちらちらと辺りを気にし続けていた。
 昔なじみたちとの久方ぶりの再会は、想像していたより存外悪いものではなかった。さして気まずい空気になる訳でもなく、あの頃こんな遊びが好きだったよね、あの漫画が流行ったよね、ドラマはこんなのが好きだったね、と、互いの間の空白を縫うように、思い出を手繰る質問が飛び交うのがちょっとくすぐったくて、当時の空気感が蘇ってくる感じもあって、何となく心地よかった。もうすっかりあの頃から変えて久しいのに、なんだか今も髪を二つ結びにしているみたいな、そんな気がしてくる。
 それぞれ数人ごとにテーブルが分けられていて、私のテーブルには近藤くんはいなかった。最初は各々の席のメンバーで食べて、語り合って、というのが自然な流れになっていたから、ここを離れて彼を探す、というのも中々難しい。
「あ、そういえばさっきびっくりしたんだけど」
「分かる、近藤くんでしょ?」
 こそこそと、同じテーブルの酒井さんと東さんが掌を扇のようにして内緒話をしているのに気づくのと、近藤くんの名を聞き取るのとはほとんど同時だった。
「あ、あの、今もしかして、近藤くんのこと話してた?」
 こちらから声をかけるのに少し勇気が要った。どもりながら尋ねると、当時もさして親しくなかった二人は、ちらとこちらの声かけに気づいて顔を向けてくる。温度がほとんど感じられない、無機質な目。
「――……ああ、うん」
「そういや、加藤さんはあの頃結構、近藤くんと仲良かったっけ?」
 関係の浅い東さんから見て、私たちはそんなふうに見えていたのか。今さらながらに過去の答え合わせをされたような気がしつつ、曖昧に頷く。
「どうかな。もしかしたらそうだったかも」
「じゃあ近藤くんのこと、知ってた?」
「全然気づかなかったよー、私」
「ウチもウチも、あれは意外だったわ」
「まぁでも、今ってそういう時代だもんね」
 要領を得ない話に小首をかしげていると、二人の興味は薄れたようで、こちらへの視線はすいと互いへと戻された。
 近藤くんの身に何があったのか、中途半端に聞かされた話で、余計に気になってしまった。
 特に親しい子がいる訳でもない飲み会は苦行と言っても差し支えなくて、軽く見渡す限りでは近藤くんも見当たらなくて、人疲れしてしまった私は一度、お手洗い休憩をとることにした。
 パーティー会場となっている地元のホテルの会食場を抜け出しても、誰からも気にかけられることが無い。気楽だけれど、それが少しだけ寂しかった。

 壁にあつらえられた鏡を、じいと見つめる。あの頃二つに結んでいた髪を、今は下ろしていた。そっと両手で二つ結びにしてみると、大人になったはずの私の顔が、瞬く間に幼く見えてくる。
「――あれ、もしかして加藤さん?」
 気づいたら背後に女性が立っていた。メイクを直しに来た人かもしれないと思い横にずれようとして、鏡に映るその人を思わず見つめる。
 見たこともない女性だった。でも、確かに見覚えがある。
「ああ、こんな見た目じゃもしかして分かんないよね」
 ハスキーな声でからからと笑っているその人を、私は確かに知っていた。
「ゆうです」
 近藤勇と書いて、ゆう、ってよく名乗ってたんだけど、覚えてないかな?
 その一言にハッとして、記憶のなかの勇くんと目の前の女性が結びついた。
「あ、の、近藤勇くん? よくノートとか消しゴムを貸してくれた」
「よかった! 覚えててくれたんだね」
 ほっと胸をなでおろす仕草をして微笑む姿は当時と変わりないように見える。
 でも、あの頃の勇くんはきちんと男子用の学生服をしていたし、髪も短く切りそろえていた。
 今私の目の前に佇む彼は、背中まで伸びる艷やかな黒髪をバレッタで留めていて、ひだがたくさんついた臙脂のスカートを可愛く着こなしている。何より、ここは女子トイレなのに彼は普通に入ってきている。
「えっと、勇くんはもしかして、女の子なの、かな」
「――……うん、そうなんだよね。勇って字は今は平仮名に変えて、女として生きてるんだ」
 当時も見た目は柔和で中性的のところがあったけれど、こうして本人が女性として振り切って服装やメイクを整えると、男子だった頃の面影がほとんどどこにも残っていない。たぶん、何も事情を知らない人が彼を見かければ、可愛い女子だとすぬ思うだろう。
「昔と違う姿で同窓会に来るのって、怖くなかった?」
 口について出たのはそんな失礼極まりない質問だった。会いたかったとか、もっと言うなら適切な言葉があったはずなのに、よりによってそんな言葉が出てしまった。
 なのに近藤くんはこんな私に嫌な顔一つせず答えてくれた。
「確かにちょっと勇気は要ったかな。でも、どうせいつか風の噂で親とかから本当か嘘か分からない話を聞かれるくらいなら、ちゃんと自分で姿を見せて事情を話して正しく理解してもらったほうがいいなって思ったから、来てみたって感じ」
 こんな小さな田舎町では、よその家庭のあれこれが貴重な会話のきっかけになりやすい。人の口に戸はたてられぬとはよく言ったものだけれど、田舎町だと娯楽が乏しいせいか、都会の何倍も噂の回りは早かった。だから近藤くんがそんな風に決断したのもとても納得してしまう。
「あのね、私、近藤くんに会いたくて同窓会に来たんだ」
 私も勇気を出して口にしてみると、彼(彼女)の口元がほころんだ。
「えっ、そうなの? 嬉しいな」
 相手に嫌がられていないことに安堵して、更に話しかける。
「近藤くん、いつも優しかったでしょう。当時の男子女子ってちょっと微妙に険悪というか距離があったけど、近藤くんからはそういうのを感じなくて、こちらが困ってたらいつも親切にしてくれて、私、そういうのが本当に嬉しかったんだよね」
 だから、また会えたらいいなと思っていた。ずっと君の姿を会場で探していたくらいには、待ち望んでいた。どんな好青年になっているかなと勝手に妄想していたけれど、実際は想像と随分違っていた。――でも。
「また会えて嬉しいよ。こんなに綺麗な人になってるなんて予想外だったけど、その服もメイクも似合ってて可愛い」
 メイクは自然な感じで、口紅も淡い茜色で、落ち着いた近藤くんによく似合っている。グレーのニットカーディガンも、シックな感じで今の彼の装いにピッタリだった。
「ありがとう。すごく嬉しい」
 照れたようにはにかむ姿に胸をきゅっと鷲掴みにされたような気がした。これは周囲の男子のハートも狙い撃ちされているのではなかろうかという気もしてくる。
 さらに勇気を出して、ひと言。
「――あのさ、ゆうちゃん。連絡先交換しない?」
 友だちになってほしいんだ。
 そう告げると、両手で顔を覆ったゆうちゃんが、ゆっくりと顔を上げて言った。
「勿論だよ」
 双眸の端がほんの少し光っているのを、見なかったことにした。

___
2026.5.8 23:32
途中爆睡してたので正確な時間は不明ですが、トータル40分くらいで書いたかな?

5/3/2026, 12:20:02 PM

お題:二人だけの秘密

(※トラウマ描写、グルーミング描写、幼児への性加害描写(匂わせ程度ですが)、嘔吐描写あり)

_____




















 いいかい、このことは僕たち二人だけの秘密だよ―……。


 子どもの頃の思い出がふいに記憶の箱の中から溢れ出てきて、思わず我が身をかき抱くようにしてしゃがみ込んだ。
 言葉にならない嗚咽が溢れ、途中から逆流してきた食べ物がぐしゃぐしゃの状態で地面にびしゃりと広がった。止めることができないその流れは、やがて胃液の酸いた味に辿り着き、何も出てこないのにただただ苦しい状態がしばらくの間続いた。

 心療内科にかかるようになってもう随分と経つ。
 きっかけは、わが子の成長だった。
 幼稚園を無事に卒園し、小学生になり、ここまで大きくなってくれたことが本当に嬉しかったし、ここに至るまでが一つの長い旅路だったように思えもしたものだった。
 その子が三年生に上がったとき、不意に自分の子ども時代が蘇った。これがいけなかった。
 当時の副担任は、とても容姿が整っていて、女の子たちからは王子様みたいにチヤホヤされていた。たぶん、今思うと、自分の顔の良さを自覚して、それを利用するのに長けていたんだと思う。
 問題は、その対象が私のような子ども相手だったことに尽きる。
 クラスのクソガキみたいな男たちと先生は全然違う。落ち着いていて、穏やかで、下ネタなんか絶対言わない。いつも優しく、私たち女の子の話を聞いてくれる。
 当時の私は、そんな風に彼にすっかりのぼせ上がっていた。
 その時点で今の私ならおかしいと思う。女子の、それも幼い子の話ばかり丁寧に聞き、男子に対しては冷淡とも言えるほど素っ気なかった。
 でも、当時は私も子どもで、そういう大人がいびつで歪んでいるということに、ちいとも気づくことができなかったのだった。
 放課後の教室は軽く、その先生の開いたサロンみたいな感じで、女子が少しだけ残っては、先生と他愛のない話をして盛り上がっていた。皆で話すから、どうしても先生と話す機会は多くなくて、ちょこっと話せるだけでもバカみたいに舞い上がって、嬉しくなった。
 先生の低くて大人っぽい声が、すごく素敵で、ずーっと聞いていたかった。
 学校では、差別やいじめを助長しないために、先生に対しても友達に対しても敬語を求められ、相手をあだ名や下の名前で呼ぶことは認められていない。
 でも私は、ずっと先生に呼んでほしかった。その艶のある声で、美緒って。そしたらきっと、もっと自分の名前が好きになれるような気がしていた。

 先生の「サロン」でおしゃべりするとき、その表情の細かな変化も見逃したくなくて、ずっと先生の顔ばかり飽きもせずに見つめていた。
 きっとその時の私は、物欲しそうな顔でもしていたんだろう。だから、あんな風に目をつけられてしまったんだ。

「鴻野さん、今日、このあと少しだけ時間はありますか」
 皆が帰ろう、とランドセルを背負い直すなか、私も同様にヨイショとキャラメル色のそれを背負っているところだった。
 本当に小さな声で、耳元に囁かれたとき、小さな熱が背筋をつぅと駆け抜けていくのが分かった。電気が流れたみたいな衝撃で、憎たらしいことに、その時の感覚は今でもはっきり覚えている。
 先生が私を呼び止めてくれた。それだけなのに、まるで宝くじに当たったみたいに嬉しかった。他の子にバレたら、きっと羨ましがられたり妬まれたりする。だから私は先生と同じか、それより小さな声で返した。
「いくらでもあります」
 この返事を聞いた時の彼の表情は、当時はうまく言い表すことができなかった。
 今の私なら的確に表せる。よく言えば陶然としていて、悪く言えばすっかりやにさがっていた。酒にでも酔ったような、そういう顔つき。身近な大人が子どもに見せたことのない、不思議な顔だった。今思えばそれこそが、警鐘だったのかもしれない。そこで引き返せば、こんな地獄に長居する羽目にはならなかったのに。
 一度皆と家に帰って、それから、学校と家との間のあたりにあるコンビニで先生を待った。そうするように先生から指示されたからだ。
 親は共働きで、家には誰もいなくて、二人とも遅くに帰ってくるから、家を抜け出すのに言い訳なんて必要なかった。でも一応、友だちと遊んでくる、と念のためメモだけ書いて家を出た。すっかり浮き足立って。
 周りの友だちには、幼稚園の頃から彼氏のいる子もいたけど、私はそういう人はいたことが無かった。だから、夢想した。
 きっと大人はこんな風に好きな人とデートするんだ。私も、先生にとって特別な相手にしてもらえるのかもしれない、なんて。
 本当にバカみたい。そんなわけ、あるはずないのに。

 先生は、白いワンボックスカーで現れた。後部座席との間にはのれんのようなものがあって、後ろ側は見えないようになっていた。
 先生は私を後部座席に乗せると、ドライブしよう、と言って、遠くまで車を飛ばした。
 どこに行くのか分からないなかでも、私には不安なんて無かった。
 思い返せばこういうことからして、本当にありえない。なんで私はずっとそれを受け入れていたのか。淡い憧れを完全にいいように利用されていた。今なら分かる。グルーミングされていたのだ、私は。
 一番言いなりになりそうな女の子だったから、使われた。多分その程度のことだったのだ、あの人にとって。

 適当な場所で車を止めた先生は、車のエンジンを切ると、私のいる後部座席に乗り込んできた。
 今思うと、窓ガラスはマジックミラーのようになっていて、内側から外は見えるけど、外から私たちは見えなかった。
 そこで、私は。

 記憶がどんどん溢れ出て、今の私と昔の私がごちゃ混ぜになる。そうして胃液だけが口からぴちゃぴちゃ地面に出ていく。

 恋人にするみたいに愛おしげな眼差しで見つめられ、髪を手で梳かれ、唇にうやうやしく触れられ、舞い上がっていた。
 首筋に触れられて、くすぐったさのようなしびれを感じて身をよじると、なぜかとても喜ばれた。
 そっと指先で背中をつーと撫ぜられ、あっと甲高く声が漏れると、弱点を見つけたとばかりに攻め立てられる。こちょこちょとくすぐられているんだとばかり思ったけれど、先生の目的は違った。

 気づいたら先生が、私の平たい胸の蕾を撫でていた。何をしているのか分からず首をかしげる私に、先生は笑って言うのだった。

 美緒ちゃん。僕の恋人になってくれるかい?
 僕は君だけを大人扱いするよ。
 君を幸せにするし、気持ちよくもする。この場所も、恋人だけが触ることを許される場所なんだ。だから恋人の僕にだけ、触らせておくれ。

 恋人にしてもらえる。そのことがただ嬉しくて、何を言われてるか正味半分も理解していないままに頷いた。
 そうして、私は先生に「可愛がられた」。「大人扱い」もされた。

 大人は恋人同士のことはわざわざ他言しない。人に言うと、いろいろ陰口を叩かれたり、失礼なことを言われたりする。だから皆秘密にするものなんだ。
君も僕の恋人なんだから、このことは誰にも言ってはいけないよ。僕も、君が大切だから誰にも言わない。このことは、二人だけの秘密だよ。誰にも邪魔されない楽園にいこう。

 一見甘やかな口説き文句に、小学三年生の私はすっかり魅了されて、そしていいように身体を許した。それが大人の恋愛で、私だけは成熟した大人なのだと彼の言葉で都合よく思い込んだ。


 _____

電車に乗りながら30分くらいで書きました。
また後で続きが書ければ書きます。 

2026.5.3 21:30
 _____

よいこの皆は、未成年に手を出す成人を信用しないでね、という感じです。
甘やかな言葉で取り繕っても、そこにはむき出しの性欲と征服欲があるだけです。
自律と自立がまだ難しい未成年に、さも自分だけが味方である、恋人である、と嘯いて、いいようにもて遊ぶ大人は決して格好いい年上の恋人などではありません。
ことに、学校の先生と生徒、児童の恋愛や、未成年といい大人の恋愛をよしとする漫画を見かけるたび、それをフィクションとして受け止められる人だけが読んでいるのか、心配になります。
(自分は虚構と割り切って、現実ではあり得ないことと理解しながら読むことはあります)
本当に切実に心配になる世の中なので。

2026.5.4 0:21 追記

6/15/2025, 12:51:53 PM

お題:マグカップ

 甘い香りが辺りをただよっている。
 私は思いきりそれを吸い込んだ。ショコラのようなその匂いをじっくり堪能して、ゆるゆると息を吐き出す。
 目の前には、取っ手のついた大きいカップ。そこには宙を浮いた少女が描かれていて、異国の風景の中で優しくほほ笑んでいる。
 そっと触れる指先がじわじわと温められていく。
 取っ手に指を通してゆっくり持ち上げると、甘い香りがより鼻をくすぐった。期待に喉が鳴る。
 傍らには昨日手作りしたお菓子。
 別にバレンタインとか誰かの誕生日とか、そういうもののために作った訳ではない。ただ、私が食べたいから作った、市松模様のアイスボックスクッキーだ。
 こくりとココアを飲み、クッキーに手を伸ばす。
 さく、さく、と聞こえる音も楽しみながら、また褐色の液体を喉に流し込んだ。
 甘くて甘くて、たまらない。
 たった一人のお茶会は、まだまだ当分終わらない。
 ココアもお代わりしようかな。もういっそ、これが夕飯ってことにしてもいいかも。そんな風に考えて、ふふふと笑う。
 もうとっくに大人になって久しいのに、こんな子どもじみた振る舞いをしているのは端から見たらみっともないのかもしれない。
 でも、別にいいよね。私は大人で、自分自身のことに責任をもって行動していいんだし。
 だから、たまにはこういうゆるい食事をしたっていいし、お皿洗いをしながら思いきり好きな歌を口ずさんでもいい。
 掃除機をかけるのは三日くらいサボっても死なないし、もしそれで具合が悪くなっても自己責任ってことで。
 そんな風に調子良く考えながら、マグカップを覗き込む。
 あっという間に姿を消したココアの代わりに、カップの底が冷え切ってこちらを見上げていた。
 子どもの頃はありがたいことに、ずっと優しく守られて、とても健やかに過ごしてきた。
 ジャンクフードなんて食べたことも片手で数える程度しかなくて、健康志向な両親は、うまい棒みたいな駄菓子は一切私には買い与えてくれなかった。
 その片手の数を埋めたのは、彼らではなく祖父母や友人だ。祖父母がマクドナルドに連れて行ってくれた日は、私にとっては革命と呼ぶべき記念すべき一日になった。そのくらい、衝撃的だったのだ。
 後に祖父母は両親、特に母親からたいそう大目玉を食らったらしい。その後暫く祖父母と会うことが許されなかったのは、それだけ母の怒りが強かったためだと思う。
 私からしてみれば、違う景色を見せてくれ、違う世界があると教えてくれた祖父母に感謝こそすれ、恨む気持ちなどつゆぞ湧いてこなかったが、母からしてみれば、教育方針をねじ曲げるようなことをされて不本意だったのだろう。
 大人になった今なら、二人が祖父母に腹を立てる気持ちも少し分かる気がした。子育てこそしていないけれど、もしも自分に子どもがいて、育てたい方向性がはっきりしているのにそれを妨げることを両親や義父母にされたら、怒り心頭に発する…というのは十分に考えられた。
 両親の教育は概ねいいものだったと思う。
 育児放棄されることも無かったし、虐待もされなかった。家に入るなと理不尽に締め出された経験も無く、橋の下で拾ったんだという安っぽい嘘で不用意に傷つけられることも無かった。差し出された手は間違いなく引っ込められることは無く、繋いだ手を不意に振りほどかれることも勿論無かった。
 私はずっと、それは当然のことで、皆そうして育っているものなのだと信じていた。疑いを挟む余地はどこにも無かった。
 でも成長の過程で耳にした周囲の友人たちの話で、彼らの親はそうしたふるまいを日常のどこかしらで必ずと言っていいほど何かしら行っているのだと知らされて、自分の両親の清く正しく美しい在り方に初めて気付かされた。
 どういう風に成長すればこの社会で安心して生きていけるか、常に正しい道を指し示してくれていたのは幼心にも心安いものがあったけれど、その貴重さを改めて知って、私は深く両親に感謝したものてある。
 二人の甲斐あって、今も基本的に規則正しく、たぶんそれなりに人として正しい生き方ができているのではないかと自負している。
 でも、大人になってみて初めて分かったことがある。100%清く正しく美しく生き続けるのはすごくしんどい。少なくとも私にとっては。
 子どもの頃から100点満点を取るのは大変なことだった。90点くらいまでならそれなりに取れるけれど、100点という、何の綻びもない点数を取ろうとするとすごく心に負荷がかかったのだ。
 両親は完璧を求める人ではなかったので、私も無理せず自分らしくできることに取り組めたけれど、多分それも有り難いことだったのだろうと今になり思う。親になった友人たちが我が子に様々な思いや願いを託している様を伝え聞くにつけ、両親が多くを求めてこなかったことに感謝の念を抱くのである。
 親元を離れて一人で暮らすようになってからは、それまでよりもずいぶんとゆるやかに生きられるようになった。100点満点は難しいし、両親も多くを求めては来なかったけれど、やはりそれなりにプレッシャーを感じていたんだろう。
 マグカップに並々とココアを注いで、クッキーを好きなだけ食べる休日も、カップラーメンを啜る夜も、コンビニ飯でちゃちゃっと済ませて慌てて出勤する朝もある。それでもいいのだと、今の私はそう思えるようになった。それも多分、成長の一つなのではないかな、なんて嘯いてみる。
 100点満点なんて目指さなくてもいい。自分が心地よく生きられる時間が多く取れれば、それで重畳だ。

****
執筆時間…15分くらい?
今ココアを飲んでいたので、ココアを取り入れました。なお、クッキーは食べていません(笑)

子どもの頃に健康志向で育てられた子ほど、大人になるとジャンキーなものにハマっちゃうそうですね。テレビやネット、漫画を規制された子ほど、それらにのめり込んじゃうともいいますし。
何ごともほどほどが肝要かなーと思う今日この頃。

6/15/2025, 3:52:19 AM

お題:⁠もしも君が
 この世に君がいなければ
 僕は何の未練もなくあの世にいけるだろう
 この世に君がいなければ
 僕は明日も生きたいなんて思えないだろう
 この世に君がいなければ
 僕の世界はモノクロのままだろう
 この世に君がいなければ
 僕は笑うこともままならないだろう
 だからどうか 君がいなくなりませんように

_____
5分程度でささっと。仕事の昼休憩にて。

6/12/2025, 10:01:06 AM

お題:⁠雨音に包まれて
 しとしとしと。
 静かな部屋の中には雨の音がほんのりと響き渡っている。
 つい先日梅雨入りし、連日、雨の滴り落ちる音がBGM になっている。
 ぱたぱたぱた、ピシャピシャピシャ、ザーザーザー。
 その勢いによって、音は細々と移り変わっていく。
 私の好きなのは、ちょうど今聴こえるくらいの音だ。ひっそりと雨を知らせる音。このくらいなら、何をするにもさほど妨げにならないし、意識すれば聴き取ることができて、ちょうどいい塩梅なのだ。
 梅雨は正直あまり好きではない。
 気圧のせいなのか、頭痛やめまいを誘われがちで、朝起きて窓を開けても、外の景色がどんよりしていて今ひとつ気分が上がらない。外に出かけるのも億劫になるし、車にしろ服にしろ、泥水がはねて汚れやすい。
 でも、全部が嫌というわけでもないのだ。ペトリコールはちょっと好きだし、屋根を打つ雨音が天然のASMRになって心地良い。外には出たくなくなるけれど、代わりに家や図書館、カフェなんかでのんびり読書をするのも悪くない。
 さて、明日は何をしようかな。
 また雨音に包まれながら、何か楽しいことがしたい。

10分程度でささっと。散歩しながら書きました。

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