たくさん泣いて、涙も乾いて、
笑顔を取り戻して、また一歩前へ進む。
これ以上強くはなれない。
泣かずにこの場を越えていけない。
もっとうまく世の中を泳いでいけたら、
きっと無味乾燥なつまらない人生になってた。
だから泣いていいよ。もっと泣いていいよ。
涙の理由は人それぞれだけど、
こんな時は誰だって泣くんだよ。
だから泣いていいよ。そっと泣けばいいよ。
涙の理由は教えてくれなくても、
君だけがそれを噛みしめていればいい。
瞳から零れる水滴の正体は、
悲しみや悔しさを調合した結晶。
それを惜しみなく流すことで人は、
心の中の淀みを洗い流して、
新しい明日を受け入れるんだ。
だから泣いていいよ。もっと泣いていいよ。
涙の理由は人それぞれだから、
こんな時に泣く君だって正しい。
だから泣いていいよ。そっと泣けばいいよ。
涙の理由はあえて聞かないから、
君だけがそれを噛みしめて、
大切に昇華させればいい。
Tears are a shower for your soul.
Tears are the source of your heart.
涙は君の心のシャワーだ。
涙は君の心の水源だ。
淀みを、洗い流して。
夕暮れ時の喫茶店。
男女二人の客が来店して、窓際の席に座る。
ウェイターがコーヒーと紅茶のオーダーを取ってきて、私はコーヒーの豆を挽き始める。
「それじゃ、俺達はこれで終わりってことで」
「そうだね。これ以上続けても、お互いがもっと嫌いになるだけだもんね」
「俺は別に…嫌いになったわけじゃないんだけど…」
「そーゆーの、もういいよ。早く話、進めちゃお」
「うん…あ、待って。コーヒーが…ありがとうございます」
ウェイターが、コーヒーと紅茶を机に置いて離れる。
彼氏の方が、置かれたコーヒーに無造作に角砂糖を放り込んで、話の続きを始める。
「とりあえずさ、お互いに貸してるもの、返そうか。CDとかマンガとか、お金とか」
「ああ、私のは全部あげる。あなたから借りてるものは、後で全部郵送で送る」
「あ…そう。…あ、じゃあ、俺もいいや。たいしたもの貸してないし」
「うん、じゃあ、あとは?」
「あとは…えーと、別れた後はどんな感じで接すればいいのかな?俺達」
「えー、接する必要はないんじゃない?赤の他人ってことで」
「いやでもそれは…これだけ知り合った仲なのに?」
「それが、別れるってことでしょ?変に知り合いの顔なんて出来ないよ」
「そ、そうなんだ。そーゆーもんか…」
「他には?何かある?」
「他には…あのさ、付き合ってて楽しかった思い出とか、語らない?お互いに」
「…」
「あ、いや…やめとくか。まあ俺は、楽しかったんだけどな…」
「だからそーゆーのはもういいって。二人で決めたことでしょ」
「そ、そう、そうだよね。…よし、もうこうなったら、このコーヒーが冷めないうちに話を終わらせよう。…うん、お別れだね」
「そうだね。今までありがとうね」
彼女が立ち上がる。
いよいよクライマックスか。
「あ、待って。まだ俺のコーヒーは冷めてないんだけど…あ、嘘です…サヨウナラ」
「うん、さようなら」
来店して、16分。
もう少し、じっくりコーヒーも紅茶も味わって欲しかったが、事情が事情だ、仕方ない。
とはいえ、彼氏の方は一人、まだ席に残っている。
私はコーヒーの入ったポットを持って、彼のもとへ。
「おかわり、いかがですか?サービスです」
「え、ホントですか?ありがとうございます。いただきます」
「まあ…人生いろいろありますよね。まだ若いんだし、こーゆー経験もね」
「あ、いや、よく考えてみたらね、俺の方がよっぽど多く彼女に奢ってたなって。マンガとかも、もう一回読みたいの貸したまんまなんすよね」
「…ん?それを彼女に言うの?」
「…ダメすかね?」
「そのコーヒーが冷めないうちに飲んで、帰ってもらえる?」
「…もう少し大人になって、また来ます」
うん、もっと成長して、女心なんかももう少し分かるようになって、この店のコーヒーの苦味を美味いと感じるようになったら、またのご来店をお待ちしております。
「次は御茶ノ水、御茶ノ水。お出口は左側です。」
会社帰り。
スマホとにらめっこ率98%の電車の中。
家にスマホを忘れてきて、残りの2%に収まってしまった僕は、仕方なく、出入り口ドアの上に流れるディスプレイの映像を見るともなく眺めていた。
スマホがあれば、今頃SNSに今日言われた理不尽な上司語録を書き並べていたのに。
ストレスの発散が出来ないまま、早く自宅に辿り着いてスマホをイジり倒すことを思い描く。
すると、ぼーっと眺めていたドア上のディスプレイに、突然見覚えのあるスマホが映し出された。
いや、スマホなんてどれも似たようなもんだが、あのスマホケースのデザインには覚えがある。
かなり独創的で、他の人が使っているのを見たことがないのだが。
そのスマホをテーブルの上に置き、何人かの男女がハンマーで叩き始めた。
粉々に砕け散ってゆくスマホのディスプレイ。
なんだコレ。なんでこんな映像を流してるんだ?
訳が分からないが、何故か自宅にあるはずのスマホが心配になってくる。
「次は御茶ノ水、御茶ノ水。お出口は左側です。」
ハンマー叩きは延々と続き、本体の背面パネルがめくられ、中の基板がむき出しになってきた。
その、基板の裏に挟まれる形で、一枚の写真が見え隠れしている。
そこに、僕と彼女が写っていた。
数年前まで付き合っていた彼女。
もう、お別れして、どこにいるのかも分からない彼女。
ハンマーを持つ男女の顔にも、見覚えがあることに気付く。
大学時代の友人や、もっと前に付き合っていた彼女、そして、今日俺に理不尽なセリフを吐いた上司の顔も。
画面下に、テロップが流れ出した。
「このように、呪いの源泉が隠されていることがあります。あなたのスマホ、大丈夫ですか?」
…何を言ってるんだ?
「次は御茶ノ水、御茶ノ水。お出口は左側です。」
秋葉原に着かない。
窓の外には、漆黒の闇が広がっている。
街の明かりはまったく見えない。
他の乗客達は、この異変に気付かないのだろうか。
98%はスマホとにらめっこだから、窓の外すらも見ないのだろう。
僕のスマホは粉々にされた。
あれじゃもうSNSすら使えない。
不条理上司語録をアップ出来ない。
いったい、何が起きてるんだ?
世界が混沌とし始める。
不意に、肩に手を置かれた。
見ると、数年前まで付き合っていた彼女。
「え…?なんでここに?」
「あなたこそ、なんでここにいるの?呪いは封印されたはずなのに」
「…呪いって何の話?さっきの映像って…いったい何が起こってるの?」
「ちょっと待って。あなた…どこから来たの?」
「次は秋葉原、秋葉原。お出口は左側です。」
電車が、見慣れたホームに滑り込む。
気付けば、彼女だと思っていたのは見知らぬ女性だった。
スマホに夢中で画面から目を離さない。
夢を…見ていたのだろうか?
ディスプレイには、分譲マンションの広告が流れている。
秋葉原で降りて、電車を乗り換えた。
自宅に着いて、真っ先にスマホを確認する。
無事だ。どこも壊れてない。
一日触れなかったこともあって、SNSのチェックにも時間をかける。
何となく、「御茶ノ水」「スマホ」で検索してみると、オカルトのコミュニティサイト的なところに、「スマホを持たずに、アキバに向かうのは要注意」とあった。
「誰もがスマホを常備している現代、もはやそれが、アキバに入るためのパスポートとなっている。日本有数の電気街、いや、電脳街であるアキバの何かと、自分のスマホに記憶されている何かが共鳴し合うのかもしれない。現に、御茶ノ水からアキバに向かう電車で、スマホを持たずに乗車していた人が、パラレルワールドに迷い込んだという報告例がある。アキバという街が、スマホというパスポートを持たない人間の侵入を拒んで追放しようとしているのかもしれない」
…馬鹿馬鹿しい。
パラレルワールド?
そんなわけあるか。
毎日通ってる場所なのに。
アホらしくて、今日言われた理不尽な上司語録を書き並べておこうと自分のサイトを開くが、そこで今日の出来事の記憶がないことに気付く。
御茶ノ水を越える前の記憶。
…あれ?
もしかして、僕は今も別の世界にいるのか?
スマホを持たなくても、秋葉原を通り抜けられる世界。
スマホの中に呪いを封じ込めて、あの彼女と今も会うことが出来る世界。
僕はどうしても、目の前にあるスマホをバラバラに破壊したいという欲求を抑えられそうにない。
時計の針が重なって、天を指す。
昼休憩のベルが鳴り、たくさんの人達が昼食のために職場をぞろぞろと出ていく。
私はと言えば、愛妻弁当ってやつだ。
時にこれは、羨ましがられる。
真夏の炎天下に外に出ていく必要もなかったし、外食で済ますよりも経済的だろう。
だけど、ちょっとだけ、たまには外食もいいかな、なんて。
このビルで勤務して早幾年。
近辺にあるお店をほとんど知らない。
コロナ以降、飲み会もほとんどなくなり、居酒屋すらも遠ざかった。
こうなると、ほとんどが自宅と職場の往復のみ。
いや、家族依存の私にしてみれば、天国のような環境なのだが。
でも、世の中には、高いお金を払ってでも、その店で食べるべき料理ってもんが少なからずあるんじゃないだろうか。
なんてったって、その道のプロが腕を振るって作ってくれるんだから、それはもう、家庭で生み出す限界を超えて来ること間違いなしな気がする。
もちろん、料理は愛情…なのも確かだが、きっとその道のプロは、すべてのお客さんに愛情を持って料理を振る舞えるんじゃないだろうか。
時計の針が重なって、天を指す。
仕事明け、終電で帰路につく。
帰れる家があることが癒しだ。
帰宅して、空っぽになった弁当箱を流しへ。
その時点でもうすでに、明日またここに詰められる愛情という名のおかずに思いを馳せる。
何度、時計の針が天を指し重なっても、この繰り返しの毎日は変化を欲してはいないようだ。
少なくとも、時計の針が重なるように、寄り添って生きるパートナーがいる限り。
「僕と一緒に幸せになってくれませんか」
これは、プロポーズの言葉でしょ、普通。
それがどうして、あなたと一緒に漫才コンビを組まなきゃいけないの?
いや、いずれは夫婦漫才って、いずれっていつなのよ?
そもそもが、M-1に出ようなんて聞いてなかったからね。
勝てるわけないじゃない。
…え?勝つのが目的じゃない?
たくさんの人に、笑顔を届けたい…って、私を幸せにしてくれるんじゃなかったの?
うんまあそりゃあさ、目の前に広がる客席が笑顔で埋まるのは、見ててこっちも幸せになるけどさ。
てゆーか、私達ってそこまでウケてなくない?
…え?幸せにしてくれるんじゃなくて、一緒に幸せになろうって?
確かにそう言ったけど…それは、私にもウケるネタを作れってことなの?
そんなこと言われても…まあ、考えてはみるけどさ。
笑ってもらえるネタを考えるのも、ワクワクして楽しいのは事実だしね。
うん、あなたの隣でひとつのマイクを分け合って、ステージの上で拍手をもらうこと、嫌いじゃないよ。
二人で力を合わせて、目標に向かっていくのもね。
M-1、頑張ってみようか。
もしも優勝したら、賞金で豪華な結婚式を挙げられるしね。
…え?宮川大助・花子師匠を目指そうって?
それはちょっと…笑いのベクトルが違いすぎない?
いや、もちろん好きだけど。