お昼に食べたラーメン屋で、店の外に出た後、お釣りが多いことに気付いた。
どうやら店員が、千円札と一万円札を間違えたらしい。
かなり多く受け取ったことになる。
さて、どうする?
店に戻って事情を説明し、会計をやり直してもらうのが一番イイのは分かっている。
お店にとって、そして、僕の良心にとっても。
だが、そこで顔を出すのが、僕の中の悪魔のささやきだ。
「こんなもん、店員も気付いちゃいないんだよ。お前に非はないんだから、このまま気付かないフリで帰っちまえばいい。その金で、もっと美味いもんでも食いなよ」
悪魔が出れば天使も、と思うが、天使の立場は僕そのもののようで、「いや、でも…」程度の反論しか出来ない。
悪魔は続ける。
「いいか、世の中にはさ、詐欺師とか転売ヤーとか、他人の迷惑や損失なんかお構い無しで身勝手に振る舞う奴らがたくさんいるんだ。それに比べたら、お前がここでネコババするのなんか、大したこっちゃない」
「悪いことは悪いことだよ。気が付かなかったんならともかく、気付いちゃったんだから…」
「気付かないフリなんて簡単じゃないか。誰が見破れる?このまま歩いて駅に向かうんだ。そして電車に乗ってしまえば、あとはもう悩むこともない。この店には二度と来なくたっていいじゃないか」
僕は、ゆっくりと歩き出した。
駅に向かって。
頭の中で、このお金で何を買おう、なんてことを考えながら。
その時、
「…でもな、よーく考えてみると、そんなことしたら、寝覚めが悪くなるのは自分なんだよな。気にせずに平気でいられるキャラならともかく、お前はそんな奴じゃない。どうせ電車に乗った後も、くよくよ悩むんだろうな。俺はお前だからさ、それはそれで勘弁して欲しいんだよな」
悪魔が言う。
もはや、ささやきというよりボヤきに近かった。
「そんなお金ネコババしたって、どうせ罪悪感で気持ち良く使えないんだろうし、別にお金に困ってる訳でもないし。お金を返してお店の人に感謝される方が、寝付きも良くなって俺も救われるんだろうな」
足が止まった。
もう、駅前だ。
ここまで来てしまったら、たとえ間違いに気付いても、もう店員さんも追いかけてはこないだろう。
だけど…。
「僕に、どうしろっていうんだよ」
「知らんよ。好きにしたらいい。俺に、イヤな役回りばっか押し付けんなよ。俺だってお前なんだから」
僕は踵を返し、ゆっくりと今来た道を戻り始めた。
「そもそもさ、お前の中に、悪魔なんていないじゃん。俺のささやきなんて、お前にとっちゃ『好奇心』みたいなもんなんだろ?」
長い葛藤が終わった。
いや、単なる一人芝居か。
いずれにせよ、駅までの道のりと、店へと戻る道のりの心の軽さの違いといったら、そりゃ悪魔もオススメしたくなるよなってほどだった。
…そりゃまあ、心の片隅に、
「せっかくあれが買えたのにな…」みたいな気持ちがあったのも事実だが。
昨夜、星明かりの下で、誰かが泣いてるのを見た。
公園のベンチに座り、一人俯いて泣いていた。
星より密かに、声も立てずに。
泣きたい夜はあるだろう。
生きることに希望を持つ限り、涙はきっと生まれ来る。
その希望が叶わなかった時も、現実となった時も。
悲しい涙や、嬉しい涙。
いつでも夢を、その心に抱いて。
星空を見上げれば、ちっぽけな自分の存在に気付く。
ちっぽけだけど、泣いたり笑ったり、怒ったり落ち込んだり。
この広大な宇宙にただ一人の自分を、星明かりは優しく照らしてくれていた。
朝が近付き、もう星は帰ろうとしてる。
帰れない一人を残して。
でもきっと、もうすぐその顔を上げて、今日という一日に向けて歩き始めるだろう。
涙も乾き、捨てられなかった希望をその心に秘めて。
まるで、秘境のような場所にある年季の入った旅館に宿泊した。
登山で迷い、日が暮れ、野宿かとなったところに灯りが見え、何とかこの宿に辿り着いた。
何だか日本昔話のような展開だが、地獄に仏だ。
この季節、山で野宿なんかしたら危険極まりない。
帳場で人を呼んでも、誰も出て来ない。
しばらく待っていると、帳場の後ろの扉の向こうから声がする。
「迷子ですか。お困りでしょう。この宿は部屋案内などありません。ご自由に、お好きな部屋にお泊まりくださいませ」
…マジか。まさに日本昔話的展開。
現代の日本にこんな宿があるのか?
まあ、お言葉に甘えて、好きな部屋に泊まらせてもらうことにする。
二階の廊下の一番奥の部屋。
年季は入っているが、落ち着いた、綺麗な和室だった。
そーいえば、宿泊料金がいくらか、聞いてなかったな。
まあ、カードもあるし、払えない額ってことはないだろう。
こんな場所だし、思いのほか安いかもしれない。
床に寝転がって、天井を見上げていると、入り口の障子戸で影が動いた。
見ると、障子戸の向こうに誰かがいて、声をかけてくる。
「いらっしゃいませ、お客様。当旅館では、お食事はすべて、お部屋まで運ばせていただいております。すでに用意が出来ましたので、こちらに置いておきますね。ごゆっくり、どうぞ」
「ああ、すみません。ありがとうござ…」
障子に映るシルエットを見て、言葉が止まる。
なんというか、明らかに普通の人間のシルエットではない。
これは…ろくろ首?
体の上に首が伸びて、天井近くで頭らしき影が揺らめいている。
そんな…馬鹿な。日本昔話の…ホラー回?
ダメだって。子供が泣くって。
大人な自分ですら悲鳴を上げそうなのを何とか堪えた。
「それでは、素敵な夜をお過ごしくださいませ」
シルエットは消えていった。
恐る恐る、障子を開ける。
果たして、そこには見るから美味そうな料理の数々が並んでいた。
山歩きで疲れ切っていたが、食欲だけはしっかりある。
料理を部屋に運び、爆速で食べ終えた。
美味い。美味すぎて、怪しんでる余裕なんて無かった。
もうこうなったら、さっきの仲居の言う通り、素敵な夜を過ごすべく、開き直るしかない。
そしてその後は、本当に素敵な夜を過ごした。
檜の内風呂で疲れを癒し、いつのまにか敷かれていた布団はふかふかで、部屋の温度もちょうど良く、窓の外からは静かな虫の声。
時折、山の奥の方から、獣の咆哮のようなものも聞こえたが、なおさらこの宿に辿り着けて良かったと心から思った。
明日山を降りたら、妖怪宿に泊まったと話の種にもなるだろう。
次の日の朝、気持ち良く目覚めた。
身支度を整え、帳場に向かうと、そこにいた仲居が驚いたような顔でこちらを見ている。
「あの…昨夜ご宿泊のお客様でしょうか?」
怯えたような声。
「ええ、昨夜遅くに着きまして、二階の一番奥の部屋に泊まらせていただきました」
「二階の一番奥は…物置部屋となっておりますが…」
「えっ…?」
まあ、そんなオチが待ってるんじゃないかとは思ってた。
妖怪に接客されて、まともなサービスが受けられたとは思い難い。
とはいえ、それならあの食事は?お風呂は?布団は?…確かめるのも怖い。
とにかく、通常の一泊料金を支払って、その旅館を後にした。
後日談となるが、最近ネットで知った情報によると、ある山の奥深くにある旅館で、「妖怪宿体験ツアー」なるものを催しているらしい。
旅館側が趣向を凝らして、日本古来の妖怪出現を演出するとか。
もしかして…これは、アレか?
私は、担がれたのか?
あんな時間に旅館に到着したばっかりに、少し雑で中途半端な体験を演出されたのかもしれない。
障子に映る影絵など、どうとでも投影出来るのではないだろうか。
あの時、二階の物置部屋を確認させてもらえば良かったかな。
あの仲居も仕掛け人の一人だったのかもしれない。
だが…あれから、ネットで調べても、あの日の記憶を辿っても、あの旅館の場所は分からないまま、というか、あんな山奥に旅館など存在するはずがない、という答えに辿り着くのであった。
まさに、日本昔話的オチ、である。
桃太郎は桃から生まれ、高齢者夫婦に育てられて、鬼退治に行く。
道中、犬、猿、雉と出会い、旅をともにして、鬼ヶ島に辿り着き、そこにいた鬼達を一掃する。
戦いに勝利した桃太郎軍団は、そこで解散となり、桃太郎は一人、高齢者夫婦のもとへ帰ろうとするが、途中で迷子となり、立ち寄った海辺の村で暮らすことになる。
皆のために頑張って鬼を倒したのに、誰もその事実を知らない村で、桃太郎は意気消沈していた。
当然、桃から生まれたことを知る人もいないので、この機会に改名をする。
名前から桃を取り、名字を浦島とした。
川に流された記憶を捨てて、海のイメージにしたかったから。
何とか漁師の仕事にありついて、この村で生きていくことにする。
ある日、浦島太郎は、海岸でイジメられていた亀に出会う。
鬼を倒した拳でイジメっ子達を追い払い、生まれつき動物と話せた浦島太郎は、亀に謝礼として龍宮城へ連れて行ってもらうことになり、そこであらゆる接待を受ける。
浦島太郎は、自分の過去の武勇伝を思う存分話しまくった。
帰り際、玉手箱を渡され、戻った村では何十年もの月日が経っており、途方に暮れた彼は玉手箱を開け、まるでイリュージョンのように、一瞬にして老人へと変貌する。
ジジイとなった彼はある日、桃太郎時代に共に戦った犬と再会する。
犬は年老いた桃太郎に驚いたが、事情を聞いて同情し、共に戦った彼に何とか報いたいと、一緒に暮らすこととなり、シロと名付けられる。
ある日シロは裏山を散策し、そこに金の匂いを嗅ぎ付けた。
桃太郎を呼び、「ここ掘れワンワン!」と叫ぶ。
言われた通りにその場所を掘ってみると、大判小判がザックザク。
しかし、その光景を、隣に住む強欲ジジイが、何かを企む顔で見つめていたのだった。
そこから…年老いた桃太郎、改め浦島太郎、改め花咲か爺さんの物語が始まる訳だが、この先は皆さん知っての通りですので、割愛させていただきます。
ちなみに、桃太郎と一緒に戦った猿と雉はその後、猿は蟹と戦い敗北して遁走し、雉は一声鳴いたために猟師に撃たれ絶命し、また、浦島太郎に救われた亀はその後、TDSという場所で、名前を変えて息子と楽しく過ごしているそうです。
静かな情熱…か。
思うに、物語を書くのって、静かな情熱の為せる業じゃないだろうか。
文字だけを使って、あらゆる情景を表現する。
人が争う場面や、号泣する場面、街が破壊されるシーンだって、ひらがなやカタカナ、漢字を並べるだけで誰かに伝えることが出来る。
映画や漫画では、情熱あふれる場面はやはりそれなりにその絵面も情熱的になるから、静かなそれとはならない気がする。
派手に描きたくもなるだろう。
まあ、書き手にとっては、頭の中でその状況が展開されている訳だから、きっと多少なりともテンションは上がっているのだろうが、それを単なる文字の羅列に置き換える時点で、なんというか、気持ちが理路整然と冷静な状態に戻されているような。
そしてまた、誰かがそれを読んだ時、圧縮パックされたような文字面がその人の頭の中で展開されて情景となり、興奮や感動を伴って染み渡ってくれればいいなと…書き手は思う訳で。
それが本当に上手く出来る人達が、ものを書くことを生業にするんじゃないだろうか。
感情に振り回されて書いた文章は散文でしかない。
原稿に手書きで書いていた時代なら、その紙面に上手く感情を表現する術も多少あったかもしれないが、今や定型化された文字が画面タッチのみで現れる。
その文字自体には、個性なんて欠片も表現されない。
それを使って自分の思いや想像を伝える訳だから、これはなかなか高等な技術ではないだろうか。
例えば絵画だったら、絵そのものが個性となるだろう。
…と、こんな思うがままの文章に静かな情熱を注いだところで、いったい誰が読んでくれるというのか。
これまた書き手の苦悩だったりする。
読んでくれる人のいない文章は、ただの落書きに過ぎない。
いや、トイレの落書きだって、それなりにたくさんの人達の目に留まる。
ならば、この文章は何だ。落書き以下か?
…そんな思いも、このアプリのおかげで多少なりとも緩和されましたとさ。
めでたし、めでたし。