「今は幸せなんですか?」
その質問とともに、君は車をスタートさせた。
「幸せだよ。少なくとも、あの頃よりは」
私は答え、車窓に流れる街並みを眺める。
「それは良かった。私も今は充実しています。」
強がりには聞こえない。
僕の方も、嘘は言っていない。
君と喧嘩ばかりしていた頃に比べれば、少なくとも今の方が幸せだ。
別れた妻と一年振りに会って、僕達の恩師でもあり、仲人でもあった人のお墓参り。
お互いに今は独身で、付き合っている恋人はいるが、このお墓参りだけは二人で行くことにした。
少しの後ろめたさを感じながらも、それぞれの相手には関係のない人だからと勝手に納得して。
そして、二人で一緒に顔を見せた方が恩師も喜ぶだろうと。
「彼氏にはなんて言ってきたの?」
「そのまま伝えたよ。元旦那とお世話になった人のお墓参りに行くって」
「へー、ちゃんと受け入れてくれるんだ。僕は、男友達と競馬に行くって嘘ついてきたけど」
「やめなよ、そーゆーの。後でバレたらマズイよ」
「今バレてもマズイんだよ。そーゆー人なの」
「ふーん、ホントに愛されてるんだね。あの頃の私とは大違いだ」
「そーだっけ?君にもそんな時があったような気がするけど」
「えー、もう、思い出せないな。イイ奥さんやってた記憶はないよ」
「それはお互い様だよ。だから僕達、別れたんだろ」
一時間ほどで到着して、お墓の清掃を行い、花を手向ける。
君が用意してくれた、キンセンカ。
道中の車の中で、うっすらと甘い香りと、ハーブのような独特の香りを漂わせていた。
二人並んで手を合わせ、しばらく思いを馳せる。
空の高いところで、トンビの鳴く声が響いた。
「次のお墓参りはどうしようか?」
帰りの車中。ほのかに、花の香りが漂う。
「次は…別々かな。彼がね、結婚しようって言ってくれてるの。まだ、時期は未定なんだけど」
「そっか、おめでとう。先を越されたな。僕もちゃんと将来を考えないとな」
「そーだね。きっと彼女も待ってると思うよ。嘘ついて出かけてるなんて知られたら、ショック受けちゃうかも」
「うん…ちゃんと考えるよ。今日はありがとう。車と、花と、アドバイス」
「どーいたしまして。それじゃ、この辺でいいかな。車止めるね」
君の車を降りて、小さく君に手を振る。
君も笑顔で手を振って、車をスタートさせた。
君が離れてゆく。
車に残っていたキンセンカの独特な香りが、僕の記憶の中で君と結びつく。
「今は幸せなんですか?」
そう聞かれて、喧嘩ばかりしていた頃と比べてしまった。
そうじゃない時期のことを、無理やり心の奥に閉じ込めて。
いや…もう、やめよう。
君は今や、僕にとって赤の他人。
うまくやれてた頃の思い出なんて、あればあるほど辛くなる。
キンセンカの香りとともに、君の記憶を消してゆく。
自宅アパートへの帰路を辿りながら、忘れるための努力をする。
家に着いてドアを開ければ、また違う香りを感じることが出来るだろう。
それが、今の僕にとっての、幸せの種となる。
だけど、きっとこれからも、あのキンセンカの香りとともに、君を思い出すことになるのかもしれない。
もう、会うことのない君を。
心がざわめく時、あの人が現れる。
「大丈夫だから、安心して」
あの人にそう言われると、ホントに大丈夫なんだと思えた。
だから、さっきからずっと待っている。
あの人が現れるのを。
ビルの屋上。深夜三時。
心が苦しくて、楽になりたいと思った。
今日学校で起きたことを思い出して、涙がとめどなく流れる。
フェンスを越え、眼下の街を見下ろした。
「大丈夫だから、安心して」
背後から声がする。
振り返ればあの人が、フェンスの向こうに立っていた。
「ホントに大丈夫だと、思う?」
「ああ、今までだってそうだったろ?僕を信じて」
「でも、怖いんだ。足がすくんで、動けなくなる」
「誰だってそうだよ。でも、一歩踏み出す勇気があれば」
「そしたら、何かが変わるの?」
「ああ、すべてが終わる」
「…あなたは、私を救いたいの?それとも…」
「君の救いとは何だ?この世界に生き続けること?それとも、消え去ること?」
「そんなの、分からない。だから、ずっとここに立ってる」
「それはね、君次第なんだよ。僕は君に、大丈夫だから安心して、と伝えたいだけ。明日学校で立ち向かうのも、今ここで命を断つのも」
「そんな…私が決めなきゃいけないの?どうしたらいいか、分からない」
「決めるのは君だよ。君が自由に決めていい。だけど、君が死んだら悲しむ人のことを考えて。僕のことは考えなくていい。またいつか会えるから」
半年前に、交通事故で死んでしまった私の恋人。
きっと、私の心が作り出した幻。
あなたに会いたくて、でもまだ、この世界にも大切な人がいて。
今、いつにも増して、私の心がざわめいている。
駅前で待ち合わせ。
遅れてやって来た友達が、開口一番、
「すぐそこでさ、お前を探してる女性に会ったんだけど。身に覚えある?」
「僕を?どんな女性?」
「綺麗な人だったよ。二十歳くらいかな」
「それは光栄だね。最近あんまり探してもらえなくなってたから」
「お前、そんなに派手なカッコしてるのにな。見つからないもんだな」
「周りに溶け込むのが上手いんだよ、僕は。こんな雑踏の中なら、特にね」
「その女性も探すのに苦労してるようだったよ。ここにいるよって教えてあげたくなった」
「それをしちゃブスイってもんだよ。日本語合ってる?」
「無粋、な。合ってるよ。いやでもさ、見つからなくてホントに困ってるみたいだったからさ。眉間にしわ寄せてスマホとにらめっこしてた」
「それはそれは。美人が台無しだね。僕を探すのを楽しんで欲しいんだけどな」
「それにしても、なんでお前みたいな普通のメガネくんを探すのが流行ったんだろうな、あの頃」
「さあね。僕はただ、人混みに紛れてただけだからね。ここにいるよってアピールはしてたけど」
「そんな、サンタクロースみたいな格好でな。待ち合わせしても絶対に見つける自信があるよ」
「そう思ってても難しいみたいだよ。あ、そろそろ時間じゃない?飛行機に乗り遅れるとマズイよ」
「そうだな、行くか。今度はいつ日本に来るんだ?」
「さあ…どうかな。また僕が日本でブームになるようなことがあれば、お忍びで来たいとは思うけど」
「そん時は、彼女やワンちゃんも連れてな。おじいちゃんもイギリスにいるんだっけ?」
「うん。オドローも先に帰ってる。あっちでは今もまだ人気者だからね、僕達」
一人の女性が駅の改札を抜けて出てきて、僕を見て驚いた顔をしてる。
彼女が僕を探してくれていた女性か。
確かに綺麗な人だ。
これからも僕を探して欲しいな。
それが僕の生きがいだから。
「よし、じゃあ行くか。また会おうぜ、ウォーリー」
透明なガラスのように、君の心の中は見透かされる。
せせら笑う奴らが通り過ぎるのを待って、君は路地裏から顔を出し、頬を伝う涙をぬぐう。
本当は、やり返したい。
あんな薄っぺらい奴らに負けたくない。
でも、透明な心はガラスのように脆く、投げつけられた石によって粉々に砕かれ、その破片で大切な人までも傷つけてしまう。
ならば一人で生きる。
誰にも迷惑はかけたくない。
君はそう言って、自分の部屋に鍵をかけ籠城した。
君が本当に望むものが、この世界には存在しないから、誰かと争うつもりもなく、奪い合うこともない。
だけど、人の悪意はそこかしこに転がっていて、ともすれば踏みつけて破壊してしまう。
そして、容赦ない攻撃が始まる。
この世界のすべてが透明で、お互いの心を見せ合うことが出来たら。
何かを隠す壁があるから、その何かのために分かり合うことも出来ない。
そしてただ、力の強い者だけが道路の真ん中を闊歩する。
硬く、耐久性のある金属で心を覆い、弱さをひた隠して道路に唾を吐く。
せめて、透明な金属があればいいのに。
「それでも、この世界には立ち向かわなくちゃいけないんだってよ」
「心がガラスのように砕かれたら、もう何も出来ないよ」
「砕かれない心を持って。そして、他人と分かり合って」
「そんなこと、理想論でしかない」
「世界中に蔓延した疫病があっただろ。それから身を守り、その上で人と見つめ合えたのは?」
「…アクリル板?」
「よし、素材をそれに変えていこう」
透明性では少し劣るが、水族館の魚達だって守られている。
そう言うと、君は少し笑って、
「あんなに雄大な世界を、心に作り上げられたらイイね」
出来るさ。
まずは部屋の鍵を壊して、外の空気を吸い込んで。
粉々になった心は、箒で拾い集めて丁寧に再構築だ。
大丈夫、透明な心のおかげで君の優しさは皆に知れ渡っているから、きっと少しずつ補強してくれる。
さあ、始めよう。
一日が終わり、また始まる。
人生はこれの繰り返し。
一度たりとも滞ったことはない。
ストライキで止まったりもしない。
淡々と、粛々と、夜が更けて朝が来る。
就寝前に、明日が来ることを疑わない幸せ。
どんな明日になるかは分からないけれど、来ない未来よりはマシだ。
今日がどれだけ辛くても、終わる。
明日も同じ自分だけど、今日の終わりとともにリセットしてしまおう。
いろんな人生があって、いろんな想いがある。
今日が幸せだった人、どん底を味わった人。
どちらにも、同じ夜が来て同じ朝が来る。
ここで一旦終わらせよう。そして始めよう。
昨日とは少し違う自分になってみてもいい。
リセットした後に、少しオプション付けてみたりして。
最近ちょっとイラつくことが多いから、のんびりモードを発動しようかな。
他人の言動に流されないように。
昨日は不機嫌な物言いをしてしまった人達にも、今日は穏やかな自分で接してみよう。
何かあった?と不審がられるかもしれない。
そしたら、「一旦終わって、また始めてみた」と答えよう。
何度だってやり直せるって言うじゃない。
ホントにそうだと思う。
やり直しちゃいけない法律なんてないから。
あっても守らんけど。
そして、やり直すんなら、もう少しうまくやれる。
同じ轍は避けて通るからね。
今度このお題に出会う時は、きっとうまいこと修正されているはずだ。
終わり、また初まる、
これはこれで、人間味があっていいけどね。