夕暮れて、薄闇が迫る。
小学校の校門を出ると、畑に挟まれた一本道が延々と続く。
そこを、ランドセルを背負ってトボトボと歩いていた。
宿題を忘れて居残りとなり、先生に説教をされて、やっと解放されたのはついさっき。
日が暮れるのがこんなに早いとは。
辺りに人の姿はなく、道沿いの家には明かりが灯り始めた。
夜が訪れる。
街灯もほとんどなく、暗闇に包まれた景色の真ん中に、まっすぐな道が伸びている。
早く家に帰りたいと、自然に早足となり、ランドセルのベルトを両手で握りしめて、歩調をさらに速めた。
すると、歩きながら前を向く視界に、不意に人影が浮かび上がる。
そこは、まっすぐな道が交差し、十字路となっている場所。
街灯が一本、頼りなげに灯っている。
その街灯の明かりの下、逆光でシルエットとなった人の姿が、微動だにせずに立ち尽くしているのが見えた。
「知らない人に声をかけられても、ついていかないように」
先生や母親から言われた言葉。
言われなくたって、知らない人についていったりなんかしない。
だって、怖いじゃないか。
知らない人の心の中は、まるで深淵のように深く、その真実は見えない。
たとえ笑顔が張り付いていても、その偽りの表情の奥に、どんな暗い感情が渦巻いているのか。
あまりそちらを見ないようにして、通り過ぎようとした。
街灯の下に来た時、不意に声をかけられる。
「あなたは誰かしら?」
思わず立ち止まり、
「…え?」
質問の意図が分からない。
「あなたは、誰?」
同じ質問をされて、言葉に詰まる。
「誰って…」
見上げると、見も知らぬ女性だった。
笑顔だった。怖かった。
走って逃げた。
帰宅して、母親に今あったことを説明する。
すると母は、
「ああ、あの人ね。知ってるわ。目が見えないんだって」
その女性について教えてくれた。
「あなたの学校の、確か二年生の子のお母さんよ。あなたよりふたつ下ね」
「男の子?女の子?」
「男の子だったと思う。きっと、その子を迎えに行ってるのね。目が見えないから、あなたにそう聞いたんじゃない?」
「あなたは誰って?じゃあ、ちゃんと名前言った方が良かったのかな?」
「うん…でも、答えなくても良かったと思うよ。その子ね、半年前に交通事故で亡くなってるの。それからずっとあのお母さん、もういない息子さんを探して歩いてるんだって」
「あなたは誰かしら?」
あの笑顔を思い出す。
もしあの時、自分の名前を伝えていたら、彼女は何と返したのだろう。
知らない人の心の中は、まるで深淵のように深く、その真実は見えない。
彼女の悲しみの深さも、その笑顔の奥にある感情も。
それから、あの女性に会うことはなかったが、大人になった今、時折、物悲しく思い出す。
どこかで、我が子の名を告げる相手に出会えていたら、あの笑顔は、偽りでなく本物に変わったのだろうか。
だが、その時こそがやけに恐ろしく、切なさとともに、あの暗い一本道が脳裏に浮かぶのだ。
最近じゃ、あなたの夢も見なくなった。
街であなたに似た人を見つけることも。
少しずつ、あなたの存在が薄れてゆく。
誰よりも近くにいたのに、誰よりも大切だったのに。
あなたを責める気持ちであふれていた心は、今はもう、時折思い出すあなたへの感謝に置き換えられた。
あなたのおかげで強さと優しさを持ちたいと思えたし、あなたのおかげで言葉を大切にしたいと思うようになった。
人を愛するということを、本当に教えてくれたのはあなた。
恋が芽生え、愛を育む過程で、幸せの断片をいくつも与えてくれた。
感謝以外に何があるというのか。
そしてもう、記憶も薄れてゆく。
あなたの存在が、遠い過去の人となる。
そしてもう一度、新しい誰かと始める物語。
芽吹きのときが訪れる。
あなたにもらった、たくさんの気づきに感謝して、そして反省して、ここから成長して花を咲かせよう。
一度枯れてしまった花も、その種子があれば、また新しい花を咲かせることが出来る。
あなたの夢も、あなたに似た人も見なくなったけど、この感謝の気持ちだけは失くさずにいよう。
新たに芽吹いた物語に、きっと彩りを与えてくれる。
もっと大きく、美しい花を咲かせることが出来る。
高校生の頃に家出した。
行くあてもなく、隣町に流れる川の、大きな橋の下へ。
先客がいて、話しかけてくる。
「どうした兄ちゃん。親と喧嘩でもしたか?」
図星だった。正確には、父親と、だ。
「ほっとけよ。イライラしてんだ」
「そうみたいだな。まあ、若いうちはイライラもするさ」
「おっさんになってもムカつくことはあるだろ」
「どうかな。ムカついたところで、何も変わらんことを知ってるからな」
「人生あきらめんなよ。…ここに住んでんの?」
「ああ。自由気ままなホームレスライフってやつだ」
「家族は…いないの?」
「いたらこんなとこに…まあ、離散した元家族はいるけどな」
「離散したって、家族は家族だよ。帰らないの?」
「帰れたらこんなとこにいないよ。まあ、いろいろあるんだ。君もそうだろ?」
カップラーメンを作ってくれた。
それを、目の前の川の流れを見ながら食べた。
川はどんよりと流れて、空はとっぷりと暮れてゆく。
遠く橋の向こうに、街の明かりが灯り始めた。
「帰らないのか?親御さん心配してるぞ」
一斗缶で燃える火に木くずを放り込みながら、聞く。
「どんな顔をして帰ればいいのか…こんなとこで焚き火して怒られないの?」
「怒られるかもな。でも、こうしなきゃ夜も越えられない。家がないってそーゆーことだろ」
「帰ればいいじゃん。家はあるんだから」
「どんな顔をして帰ればいいのか分からないんだよ。…君と同じだな」
「もう、どれくらいここにいるの?」
「さあ…もう忘れたよ。家族の顔も忘れそうなくらいだ。…元家族、か」
「今も家族だって。子供もいるんでしょ?」
「もう、こんなんじゃ父親ヅラは出来ないよ。君の父親はこんなんじゃないだろ。それだけで幸せなんだぞ」
「…勝手に決めんなよ。どんな父親がいいかなんて、その基準はみんな違うだろ」
「まあ、そうだけどな。少なくとも、家族を捨てた父親には、愛される資格はないと思うよ」
「いろいろ事情があったんだろ。そう言ってたじゃん」
その事情については、詳しく聞かなかった。
俺も、親父との喧嘩については話さなかった。
橋の下で会っただけのおっさんに話すことでもないし。
ここで親父の愚痴を言うよりも、このまったりした時間をもう少し味わっていたかった。
試験とか成績とか進路とか、そんなことを忘れて、焚き火の温かさに包まれて。
次の日の朝早く、家に帰った。
おっさんは、
「いいか兄ちゃん、俺みたいになるなよ。人生は自分次第だぞ。どうとでも変えられる」
と言って手を振った。
そのまま返したい言葉だったが、黙って俺も手を振った。
数ヶ月後、その橋を通りかかり、自転車を止めて橋の下に降りてみたが、おっさんの姿はなかった。
どうなったのかは分からない。
人生をやり直すために行動を起こしたのか、単にねぐらを変えただけなのか、あるいは…。
だけど、あの日の温もりをイイ思い出にしたいから、俺は勝手に、おっさんが家族とともに過ごしている姿を想像する。
あくまで、勝手に、だ。
我が家の猫は3匹。
末っ子は黒猫。
自分が幼い頃から、たくさんの猫と過ごしてきたけど、黒猫はこのコが初めて。
実家に寄り付いていた野良猫が、いつの間にか4匹の子猫を産んでいて、そのうちの2匹が黒猫だった。
母猫はキジトラ。
黒猫って黒猫からだけ生まれるわけじゃないんだ。
知らなかった。
実家から、一匹もらってくれないかと打診があって、すでに2匹いたから悩んだけど、逆に、2匹も3匹も変わらないかって結論になって、遠路はるばる実家までもらい受けに。
子猫達はかなり警戒心が強く、私達が実家に到着した時からずっと、テレビの後ろに隠れて出てこない。
それをご飯で釣ったりして何とか顔を見せたところで、私の母親が捕獲してキャリーバッグに入れようとしたが、かなり抵抗したらしく、母親が手から大出血。
床に血をポタポタ垂らしながら、何とか確保成功。
そんなのを目の当たりにして、実家から車で連れ帰るのは複雑な気持ちだった。
一匹だけ、無理やり母親のもとから引き離して、こんな遠い場所に連れ去ろうとしている。
もしこれが人間だったら、間違いなく非道な行為だ。
いや、猫だって…。
後部座席のバッグの中で縮こまっている黒猫を時折振り返りながら、なんだか心が締めつけられるような思いだったのを覚えている。
だが、猫は強し、だった。
最初のうちこそおとなしかったものの、すぐに我が家に慣れ、縦横無尽に駆け回る。
先住猫と張り合い、キッチンを荒らし、おまけにマーキングまでし始めた。
去勢もしたのに…。
おかげで今は、毎晩オムツ猫に変身する。
黒猫のオムツ姿、なんともcute!だ。
ちなみに、実家の残りの3匹の子猫はすべて里親が見つかり、母猫はそのまま実家で暮らすことになったという。
しばらくして一度、我が家の黒猫を連れて実家に帰ったことがある。
母猫に再会して、離れなくなってしまったらどうしよう、また血を流す事態になったりして、なんて危惧もしていたが、2匹はほとんど絡むこともなく、淡々とそれぞれの家族の一員として過ごしていた。
まさに、猫は強し、だ。
そして可愛い。
「あの日、マンションの地下の駐車場に設置された監視カメラが捉えた映像が、コレです」
彼はそう言って、再生ボタンを押した。
特に動くものがないので、まるで静止画像のようだったが、
「もうすぐ、横切ります」
彼がそう言った直後、画面の真ん中を、何か巨大な生き物が通り過ぎていった。
「…今のは?」
私の問いに、
「ブラキオサウルスかと思われます」
真面目な顔で答える。
「恐竜の?」
「ええ、草食恐竜の」
最近、街のいたるところで、こんな映像が撮られている。
交差点を渡るトリケラトプス。
車道を疾走するヴェロキラプトル。
マンションの屋上で羽を休めるプテラノドン。
どれも、街の監視カメラに記録された映像に残されていた。
直接見たものはまだ誰もいない。
白昼堂々、たくさんの人達の目前に現れているはずなのだが。
「これは…カメラのバグなのか?それとも、トリック映像?」
「カメラに異常はありません。街の監視カメラですから、編集加工するのも難しいかと」
「それじゃあ、あれは何なんだ?街に恐竜がいるのか?」
「いや…実際に見た人はいませんしね。あれは…誰かの記憶なんじゃないかと」
「誰かの記憶?なんでそれが監視カメラに?」
「それは…分かりませんけど、これらを記録したカメラは、無線なので電波を飛ばしています。それと記憶の脳波が偶然干渉したとか…そんなところでしょうか」
「そんなこと…あり得るのか?そもそも、記憶って、誰の記憶なんだ?」
「それも分かりかねますが…いや、もしかすると…」
「なんだ?言ってみろ」
「…これは、地球の記憶なんじゃないでしょうか。恐竜の時代の記憶を持つ人間はいませんからね」
「それはそうだが…」
「あくまで仮説です。でもほら、恐竜は、交差点や車道やマンションの屋上にちゃんと配置されている。壁をすり抜けて走っていったりはしない。何か、作為を感じませんか?誰かが、自分の中にある記憶を重ね合わせて楽しんでいるような…」
「地球が、昔を懐かしんで想い出に浸っているとでも?」
「…あくまで、仮説です」
記憶が記録されてゆく。
今を生きる我々の記憶にはない映像が記録される。
その数は膨大となり、きっとしらみ潰しに探せば、そこには歴史上の人物の姿を見つけることも出来るのではないだろうか。
そうだ。きっとこれは地球の記憶だ。
ではなぜ最近になって、このような映像が記録されるようになったのか。
これが地球の記憶だとして、単に過去を懐かしんでいるだけなら、それでいい。
実際に街に恐竜が現れるわけではないのだから。
だが、これがもし、地球の、走馬灯だとしたら?
終わりを迎えようとしている惑星が、記憶をさかのぼり、過去から順に思い出しているのだとしたら?
先日見つかった映像では、旧日本軍の隊列が行進していた。
我々の生きる現在は、映像の中でもうすぐ訪れるだろう。
その時、何が起きる?
走馬灯の終わりには、いったい何が待っているのか。
…あくまで、仮説だが。