自慢する人って嬉しそう。
まあ、そりゃそーか。
これで自分の株を上げられる…と思ってるんだから。
いやでも、それは株を下げてることに何故気付かない?
聞いてる方もそんなに馬鹿じゃない。
得意げに自慢する人に、本音で感心してると思うのかな。
それは幼さの表れだと思う。
子供の自慢話ってえげつないよね。
きっとそーやって、自分に自信を付けていくんだろう。
それを、大人になっても続けている人達。
自信の無さの表れでもある訳だ。
マウントを取ることに必死な彼らは、そのすべてが意味のないことであると気付かない。
そして、そんな彼らを卑下することもまた、意味のないこと。
だって、彼らはそれが嬉しいんだから。
自慢することが。マウントを取ることが。
うんうん、凄いねと聞いてあげるのが、円滑な人間関係のコツなんだろう。
でも、それがなかなか出来ないのも、幼さの表れなのかもしれない。
今日は久々の自社研修で、グループミーティングをやらされて、その中にやたらと仕事自慢をするおっさんがいて…各自5分の持ち時間だってのに10分以上喋り続けて。
そんな一日だったので、こんな意味のないことばかり並べてしまった。
明日からはまた気を取り直して、もっと心豊かな作品を作り上げよう。
自慢じゃないが、私には出来る。
…きっと、たぶん。
あなたとわたしがであったはまべで、
わたしはずっとまっています。
あなたはわたしをうしなっても、
あまりかなしくはないのかもしれませんが、
わたしはあなたがいないこのはまべが、
さみしくてなりません。
だって、あのひのゆうやけはきれいだった。
ふたりでみたゆうやけ。
あれからずっとあめつづきで、ふしぎにおもってたら、
それはわたしのなみだでした。
ながれつづけるなみだ。
ゆうやけさえにじんでしまう。
あなたがいなければ、
わたしははまべのいしのようなそんざい。
いこくから、ながれついたにんぎょう。
それがわたし。
いちどきり、あなたにひろわれたのに、
いっしょにはまべであそんだのに、
きたないにんぎょうはすてろといわれて、
あなたはわたしをてばなした。
あの、おとなたちをゆるせない。
あなたとわたしのあいはえいえんだから。
いっしょみたゆうやけのように、きれいなものだから。
このきたないからだをすててでも、
あなたにあいにいきます。
じゃまするものをはいじょして。
まっていて。
いま、むかっています。
雨音が心に染み入る時がある。
たとえば、誰かとお別れした後。
一緒に楽しく遊んで、お別れの時が来て、駅前で手を振って、離れてゆく電車を見送って。
そんなサヨナラの後の帰り道、柔らかい雨が降り注げば、きっとそれは心に染み渡る。
私にも、そんな経験がある。
雨は時に優しくて、時に冷たくて、時に痛い。
照りつける日差しより優しい雨。
肌を濡らし、心に染み入ってくる。
何故だろう、哀しい場面のはずなのに、世界に祝福されてる気がするのは。
きっと、自然の営みに、ほんの少しでも触れ合い混じり合うことが出来るから、なのかもしれない。
冷たく激しい雨に打たれても、きっといつかは乾くから、人生はいつだってやり直せるんだな。
すべてを洗い流して、新しい自分になって。
…まあ、そんなカッコ良くはいかないけど、柔らかい雨の音は、間違いなくリラックスを感じさせてくれるし、その香りには郷愁を覚える。
私の人生にとって、必要不可欠なものなんだ。
だから、天気予報に振り回されたりしない。
サイコロの目を見るように、何が出るかなのワクワク感で、朝を迎える。
どんなに辛いことがあったって、お構い無しで朝が来る。
静かに暗闇に沈んでいたいのに、否応無しに朝が来る。
世界は誰中心でもないから、当たり前の営みを当たり前に続けるだけ。
だけど人間は自分がすべてで、自分以外の何もかもが「その他大勢」なんだよ。
家族だって然り。
心がつながってるとか、心はひとつとかの、比喩表現。
実際には人はそれぞれ別個体な訳で、「お前に俺の何が分かるんだよ!」ってセリフは、あながち間違っていないと思う。
分かる訳ないんだよな。
分かられちゃ困る。
自分だけの心の、形のない感情。
それでも、分かり合えないままで生きていくのも辛い。
人は人とつながりたいんだ。
想いを共有したいんだ。
だから、言葉を使う。
私達がつながる唯一の手段は、きっと言葉だろう。
話しても、書いてもいい。
孤立した私達が分かり合うための、一筋の光。
どんなに辛いことがあったって、お構い無しで朝が来る。
カーテンの隙間から、私達を暖める一筋の光。
これはきっと、私達への救済措置だ。
宗教的なものじゃなくて、世界が、人間がそういうもんなんだと思う。
暗闇に沈み続けることを良しとする思考回路なんて持ってない。
きっと、誰もが。
だから、今日も陽の光をたくさん浴びて、伝えたい言葉をたくさん持って、大切な人達とつながっていたい。
雨の日なら、明日に期待。
必ず晴れる日は来るから。
一筋の光から始まる朝が、必ず訪れるから。
何だろう、哀愁を誘うもの…次元大介とか?
ハードボイルドと哀愁は表裏一体だよね。
でもそれじゃ話を広げられそうにないから、もっと身近な…我が家の猫の話。
我が家では現在、三匹のネコを飼っているが、そのうちの一匹、先代の猫が死んで次の子としてお迎えしたニャンコ。
里親募集の保護猫だったが、ボランティアの方の話では、「人の膝に乗るのが大好きな子です」という説明だった。
あれから五年。
未だに、家族の誰もが頭を撫でることすら出来ないまま。
抱っこなんてもってのほか。
触ろうとすると怒るわけではなく、死にものぐるいで逃げる。
そして、ベッドの下に潜り込む。
そこからしばらくは、姿さえ見せなくなる。
決して、虐めたり怖い思いをさせたりなんかしていない。
食事の時間になると、ちゃっかり顔を出して、可愛い声で鳴いてくる。
ご飯もちゃんと食べる。
でも、そんな時でも気は許さず、食事中に手でも出そうもんなら、またすぐに隠れてしばらく出てこなくなる。
カリカリほったらかしで。
子供の頃から実家でもたくさんの猫を飼ってきたが、こんな猫はいなかったな。
いったい何にそんなに怯えているのか…今や、他の二匹は普通に家族に懐いてる。
三ヶ月前にお迎えした末っ子までもうベタベタなのに、それを見てても一向に態度を変えないとは、これ如何に。
まあ…孤高の猫なんだろうな。
ハードボイルド、そして哀愁を誘う猫。
…無理矢理過ぎる?
でもホント、ある意味、一匹狼で、迎合せずに、馴れ合わずに、我が道を突き進んでいるとも言える。
カッコイイじゃないか。
私の中ではすでに、「コイツを思う存分撫でることが出来るのは、きっとコイツが死んだ時なんだろうな」なんて、悲しい諦めを抱いている。
哀愁漂うエピソードじゃないだろうか。
これが我が家の現在の猫事情。
改善策を探してネットも漁りまくったが、どれも効果なし。
ウチの猫には当てはまらなかった。
もういいや、と思って過ごしているが、なんか最近、ちょっとだけ距離を縮めてきているような…気がしてる。
結構な頻度で、すぐそばを通り過ぎる。
キャットタワーで眠っている時に近付いても逃げない。
…手を出した途端に雲隠れだが。
猫の話でどんだけ書くんだってくらい書いてるので、もうこの辺で。
ちなみに今、その猫は、キャットタワーの一番高い場所から、私を見下ろしています。
まるで、「勝手に俺のこと書くなら、命の保証は無いぜ」みたいな、ハードボイルドな表情で。