鏡の中の自分は、本物の自分なのか、それとも偽物なのか。
本当の自分を映してはいるが、鏡の中に自分はいない。
そこにあるのはただの板。
本物はここにいる一人だけだ。
朝起きて、鏡の前に立った。
何か、違和感。
右目の横にあったホクロが、鏡の中では左目の横に。
いや…鏡に向かって見れば右側にあるが、あれは私の左目じゃないか。
あれは本当に私なのだろうか。
それとも、あれが本当の私なのだろうか。
矜羯羅がる。
鏡の中の世界はこちらと何ら変わりはないのか。
左右対称なのは既知のものだとしても、例えば色は?
動きが少し遅れたりすることはない?
違うタイミングで瞬きしたり?
そんな妄想。
ある訳のない妄想だが、鏡の中の世界のことなんて、誰が知り尽くしているというのか。
その鏡に向かって突進してみたところで、粉々になって血まみれになるだけ。
だからそろそろアホな妄想はやめて、顔洗って歯を磨いて仕事に行こう。
今日も一日、頑張るぞ。
…あれ?今、鏡の中の自分が、サムズアップサインを送ってきたような…てか、お前も俺なんだから、一緒に仕事に行くんだよ。
他人事みたいな顔すんな。
前回に引き続き、眠りにつく前に、ふと思ったこと。
モノを書くことは、音楽と同じように心を安心させてくれるなーと。
自分の心の中にあるイメージを、文字にして言葉にして文章を作る。
モヤモヤとしていたイメージが、形を持って目に見えるようになる。
書いてみて、ああ、自分はこれが言いたかったんだ、と気付いたりする。
ノープランで書き始めて、着地点は見えていなくとも、思うがままに書き続けると、言葉が次々と湧いてくる…時がある。
これがゾーンなのか?と思うほど。
一心不乱に書き続けていられる。
一心不乱に書き続けていたくなる。
我に返った時、その文章の良し悪しは問わずとも、そこにひとつの作品が存在している。
世界にひとつだけの、自分が生み出した作品が。
…と、そんな大層なものでもないが、こんな感覚でモノを書くことを楽しんでいる。
まあ単純に、人と話す時も言葉がうまく使えるようになるし、職場のメールのやりとりも無機質なのが多い中で、温かみのある人間らしい文章を書けている自負がある。
日記を毎日書くのも苦にならない。
そんな感じで、いろいろと毎日が充実する。
頭ん中がスッキリと整理できるしね。
…とゆーよーなことを、眠りにつく前に考えていると、きっとどーでもいいことだからなのか、すんなり眠りにつくことが出来てAll OK。
皆さんも試してみては?
今日の朝、ふと思ったことを。
最近、音楽をちゃんと聴いてない気がする。
通勤時や、家でのんびりしてる時、必ず音楽は流しているのだが、まさにBGM、ただそこに流れているだけの音として聴いているな、と。
以前は、音楽の優先順位がもっと高かったんだと思う。
電車の窓の外に流れる景色を眺めながら、まるでそれがその曲のミュージックビデオかのように聴き入っていた。
今は、通勤時はスマホをイジりながら、家でも、ネットで何かしら検索しながら、だったりする。
そして、曲の再生は、知らないうちに終わっていたりする。
これって、寂しいなと思った。
素晴らしい音楽がこの世界にはたくさんあるのに、こんな風に、流すように聴いているだけなんて。
音楽に上の空であるほど、頭の中は余計な心配や不安で満たされる。
素敵なメロディに包まれながら、嫌なことなんて本来考えられないはずなのに。
思えば、パニック障害を発症したのも、音楽との付き合い方を変えてしまった頃からなんじゃなかったか。
もっと心にエモーションを。
情報や知識ばかり詰め込んでたら、頭がいつかカッチカチになる。
そして心もカッピカピになる。
そうなる前に、もっとたくさん音楽を聴こう。
エモかったり、励まされたり、切なくなったり、ワクワクしたり。
電車に乗りながら、歩きながら、くつろぎながら。
その時々に合った音楽がある。
こんな幸せなことが他にあるだろうか。
…いや、まあ、あると思うけど、とにかく、音楽の力は絶大だ。
そしてこの世に音楽がある限り、その力は永遠だ。
音楽さえあれば、永遠に歩き続けられる。
そんなことをふと思った朝、私が聴いていた曲は、
THE BLUE HEARTS の「情熱の薔薇」
永遠なのか 本当か
時の流れは続くのか
エルドラドを探して、川を上流へと遡り、そして出会えた理想郷は、黄金の国だった。
男はノートに書き残した。
「これは私の理想郷ではない」と。
誰も辿り着けなかったはずのエルドラドに、彼は一人、到達していた。
アマゾン川上流奥地にあるとされた黄金郷。
そしてそこには、欲望と呪いが渦巻いていた。
彼には分かるのだ。
人の思念が織りなす気流を読み取ることが出来る。
理想郷を目指して、夢と希望に満ちた冒険の末、この地に辿り着き、埋もれるほどの黄金を目にして、我を見失う。
欲望と呪いに翻弄され、この地を後にする者達。
そして、一切を忘れるのだ。
エルドラドを発見したことも。
ありえないほどの巨万の富を手にしたことも。
彼はニューヨークに戻り、古ぼけたアパートに身を置いた。
そしてしばらくすると、再び、夢と希望に満ちたあの冒険が恋しくなってくる。
それはつまり、私達には理想郷が必要だということ。
男はノートに書き残した。
「私の理想郷は、いつだって私の心の中に」
アマゾンの奥地よりも険しく、黄金を積み上げたエルドラドよりも満ち足りた世界が、このオンボロアパートの片隅に築かれる。
その名は、ユートピア。
驚いたことに、このアプリに投稿した作品の文字数が20万文字を超えている。
20万って。そりゃ読み直す気にもなれんわな。
ほとんど垂れ流しに近い。
文章、書いてみたいな、ぐらいの気持ちで始まって、気付けば最近は長文続き。
調子に乗ってんな、俺。
思えば、始まりは、教科書の片隅に書いた落書きからだった。
絵じゃなくて、文字の落書き。
「見てみなよ、夜空に輝く夜光虫。砕かれた星屑と、闇を吸い込んで泳ぐ、暗き海原」
みたいな意味不明なつぶやきを、端っこの空白に小さく書いていた。
誰が見るでもなく、学校を卒業したら教科書は処分されて。
なのに、この文章はしっかりと覚えてる。
まさに、厨二病ってやつだ。
あの頃そんな言葉はなかったが。
なんかカッコイイ言葉が作れたぞ、俺、文才あんのかも、なんて勘違いが助長され、今に至る。
まあ、悪い気はしない。
好きなことを続けられてる訳だから。
ただ、あの頃、このアプリに出会っていたら、もう少し何かが変わってたんじゃないか、とも思うのよ。
いや、スマホがあったら、かな。
教科書の片隅なんかじゃなく、誰かに読んでもらえる場所に書けていたら。
お金とか仕事とかの話ではなくて、自分という人間の心の中の話。
もっと世界が広がって、何かを見い出せていたかもしれない。
そんなことを思いつつ、いや…でも、教科書やノートの片隅に書いたからこそ、あんな小っ恥ずかしいフレーズを表に出せたのかもしれないな、なんて、過去の自分を擁護することも忘れずに。
懐かしく思うこと、それは、あの頃の自分もいろんなことを考えて、文字にして、悦に入って、勘違いして、幸せだった時代があったこと。
そして今もこうしてモノを書くことを楽しんでいられるのは、本当に幸せなことなんだな、と再認識。
20万文字なんて、まだまだだよ。
作品数が20万を超えたら、自分を褒めてやろうじゃないか。