「進むしかない、というのは、なんて残酷なのだろうな」
きっと、喪に服しただれかの独り言だった。
『止まることを許された人間だけが、灰になる権利を有する』
権利と宣うのはあまりにも不謹慎だろうか。
だが確かに、彼は打ちひしがれる誰かを見ていた。
それは当たり前の話。
誰が消えても。何を成しても。どんな結果が残っても。
頭上を太陽が一周したら24時間経って。
今より24時間後は、明日なのだ。
これは定義の話。言語の話。
故に自身の意思とは関係なく時間は刻まれる。
……誰が、歩行だと言ったのだろう。誰が進行だと言ったのだろう。
僕らは生きているだけで、停滞を許されない生き物であった。
ああ、それでも。
打ちひしがれた誰かは、いつかの未来に何かを成すだろう。
ならば僕らは泣いても喚いても、尻を叩かなければなるまい。
ならば僕らは、やっぱり進むしかないのだ。
【明日に向かって歩く、でも】
「ねぇ、人間って、何でもできるんだよ」
嘘みたいなホント。軽やかに、何事もないように告げた彼女の声色は、僕をからかう時のそれで。だから、どうかな、なんて苦笑しながら返した。
後から見返せば、それなりの思い出を作ったのに。君の名前と同時に思い返されるのは、いつも決まって、勿論冗談だよとこぼした、君の後ろ姿だった。
大層な夢を語ることをダサいと思った。思春期の僕はいつだって、ロマンチストを鼻で嗤っていたのだろう。それなりの大学に入って、中堅企業に勤めるよ。つまらないけれどリアルな将来を語ることがカッコいいとすら思っていた。
その頃の僕は、社会の授業が好きだった。歴史も面白かったけれど、それ以上に政治・経済、なによりも哲学に惹かれた。
ああ、有り体に言えば、厨二病。17の夏の終わり、先生は期末テストの範囲と称して、僕にニーチェを引き合わせた。ニヒリズム。虚無主義。思春期真っ只中の僕は、都合の良い解釈をした。曰く、今のあることに意味なんて一つもなくて、大成するなにかも運命も宿命もない。嫌な悦。けれども僕は、少なくとも周りより世界を知った気になっていた。鼻を伸ばしたピノキオみたいに。
僕がこんなにも世界を舐め腐って得意満面であれたのには、勿論理由がある。僕の人生が、うまく行き過ぎていたのだ。部活に打ち込んだ。それなりに心の置ける友人がいた。家族との関係も良好だった。問題らしい問題が、どこにもなかった。そうであるから、クラスで『イケてる』人間でもなかったのに、彼女がいた。
よくある話だ。同じ委員会に所属していて、なんとなく話す機会が多かった。そうしていくつかイベントが終わる頃に、クラスメートに軒並み「付き合ってるの?」と聞かれただけ。本心がどうだったかは知らないけれど、彼女は悪ノリが好きだったから。そう聞かれる度に、僕の腕をとって「いいでしょ〜」と返した。まもなく僕らの関係は、公認になった。
実際僕は、否定をしようと思ったのだ。僕と彼女はあまりにも、似ても似つかなかったから。嘘かホントかも分からないこと、くだらない話を彼女は好んだ。ペンギンが空を飛んだら、とか、デロリアンがホントにできたら、とか。『ニヒルな』僕は、その度にツッコミを入れて、彼女はますます上機嫌になる。僕らの会話の大半は、そんな『たられば』な話で埋まっていった。当時の僕は煩わしい、なんて友人に自慢していたけれど、それならば別れればいいじゃん、と言われて何も言えなくなった。
それなりの思い出を作った。遊園地、水族館、夜の学校のプール、夏祭り。彼女がいたずらの感覚で選ぶ僕らの遊び場は、結果として恋愛小説のテンプレートみたいになった。
それでも僕らの距離は、縮まらなかった。いつどこで彼女と話しても、どう見ても僕たちは冗談を交わす友人だった、それ以上のなにものでも、なかった。
……今思えば、虫の良すぎる話だ。鬱陶しいと嘯きながら、この距離感を維持したがった。そう思っていたのは僕だけだったかもしれないのに。
「ねぇ、人間って、何でもできるんだよ」
よく、憶えている。高3の、僕が冬服を着た最初の冬の日。面倒くさがって校則で定められるまで夏服だったから、もう木枯らしが吹く頃の、黄昏時。もう何度も一緒に帰れないね、なんて話をしていて唐突に、彼女は言った。
嘘みたいなホント。軽やかに、何事もないように告げた彼女の声色は、僕をからかう時のそれで。だから、どうかな、なんて苦笑しながら返した。数歩先を歩く彼女が、止まらずに話しかけたから。彼女が僕の顔を見ないで話しかけることが今まで一度も無かった、なんて、僕には気が付かなかったから。
「……勿論冗談だよ」
それっきり、彼女は黙った。僕はいつも通りツッコミが欲しいのかと思って、でも誰でも火星に行けるわけじゃないし、誰でも金メダルが取れるわけじゃないでしょう、なんて返した。彼女は返事をしなかったけど、2、3頷いた様に見えたから、それ以上会話を続けることを、しなかった。
その日はそのまま別れた。数日間、またいつものように他愛もない話をして、気がつけば受験が始まった。僕らが会うこともなくなった。
そう言えば彼女から進路の話を聞いたことがなかったな、なんてことにようやく気がついたのは、共通テストが終わった後だった。あの後彼女と会ったのは、卒業式の1回きりだった。僕は気になっていたけれど、2次試験の結果が出てない、とか、部活で話がある、とか、ともかく気を使うことが多すぎて、結局彼女に聞くことはできなかった。
僕らの関係は、そのまま自然消滅した。悔いも未練もなかった。それ以来、彼女と会うこともなくなった。
彼女の名前を再び耳にしたのは、それから20年以上も後のことだった。
日本人初の女性飛行士。彼女は火星に行くらしい。今のお気持ちをお伝えいただけますか。無数に炊かれるフラッシュの中で、彼女はインタビュアーにこう言った。
『誰でもできるんですよ。できたんです』
大層な夢を語ることをダサいと思っていた。
その時になって初めて、本当は、大層な夢を語る自分が好きな奴がダサいだけなんだって、気がついた。
【手のひらの宇宙】
長くしようと思って長くしてはいるのですが…
如何せんテーマからブレますね……精進します……
凍えるような寒さを覚えている。
長い、長い冬だった。いつ明けるのかもわからなかった。
何人も死んでいった。隣人が、同胞が、恋人が、家族が。そうして、飢えはひもじいと、それでもわからない馬鹿どもが大勢いた。
凍えるような寒さを覚えている。
山に阻まれ、雪などめったに降らないけれど、それでも吹きさらす寒風は体に堪えた。
体の芯まで、震えていた。抱きっぱなしの猟銃は、体温までぬくくなっていたはずだ。それでも私から温度を、際限なく奪っていった。
今日、死ぬかもしれない。
私は決して悲観的な人間ではない、故に皆思っていたことだ。明日、飢えて死ぬかもしれない。凍えて死ぬかもしれない。それでも今日まで我々は銃を掲げなかった。今日死ぬだろう、それでよかろうと思えなかった。
しかし、いよいよどうしようもなくなって、その覚悟ができてしまった。ここにいるのは皆、他ならぬ自分の意思だ。ああ、凍えるばかりのはずなのに、心臓ばかりが煩わしくなる。震えは止まりもしないのに、高揚していると、そう言うより他に、仕方がなかった。
ああ、そう。今日、死ぬのだ。死ぬだろう。
だが私が死んでも生きても、きっと今日、世界が、変わる。
世界中の人間が、この町を見る、そして知るだろう。どれほど人が強かで、また、己の手で未来を勝ち取る気概のある生き物なのかを。私の死は、決死の行動は、それを人類に証明するのだ。
深く、息を吸った。震えは幾分かマシになった。ゆっくりと吐き出した息は、当たり前のように白かった。
犬の遠吠えが聞こえた。次第に抱えた銃の輪郭が、隣人の怯えた顔が、薄ぼんやりと見えるようになってきた。
遠くでバサリと音がした。3メートルはある木の棒に、茶色く汚れた、びりびりに割かれた、旗が立つ。負ければ暴動、勝てば革命。そのくだらぬ戦に命を賭すと示した、我々の意志が翻る。
間もなく、夜明けが訪れるのだ。
【夜明け前】
今日、坂本休みだってよ。
言ったのは多分、坂本と俺と同じサッカー部の木村だったけど、雑踏の中だったから確証はない。興味もなかった。
「えっ」
嘘、やっぱり俺も興味が出てきた。俺の後ろの席の川辺が、デカい声で反応した。なんで、と木村に理由を訪ねに行った。木村の席は廊下側だから、川辺は俺に背を向けることになる。
……窓側の席は、当たり前だが教室で一番暑い。電気代をケチってクーラーの温度もそう低くない。授業中でも汗が滴るこの席が俺は死ぬほど嫌いだったが、このときばかりは感謝した。
汗で透けた川辺のブラは、水色だった。
川辺凛。サッカー部のマネージャーをやっていて、ウチのクラスで一番可愛い女子。勉強もそこそこできてクラスの中心にいる女子。
好きな人が休みで失望を1ミリも隠せない女子。
「来週さ、坂村の誕生日じゃん」
そんでもって、俺のことを良き友人だと思ってる、女子。
「それでさ、誕プレ、あげたいんだけど」
昼休みにわざわざ俺と話すために屋上まで来て、切り出した話題がこれだった。
男と二人きりでも噂が立たないほどに、川辺が坂本を好きなのは周知の事実で。
俺と川辺がただ部活が同じだけの良き友人であることも、誰もが知ってる話で。
「あんたさ、坂本と仲いいじゃん。だから、明日のオフ、暇でしょ。買い物付き合ってよ」
俺は川辺より身長が10センチ以上高いから、こいつが第一ボタンまで外していれば、角度によっては谷間が見える。存在がエロいのはこいつの罪だ。俺の不純な心が悪いわけじゃない。
「昼飯ぐらい、奢るからさ……ねえ、」
凝視するのが許されるような関係ではないので、バレないように視線を落とした。
「ねえ、聞いてないでしょ」
「んー?」
温い夏風がポロシャツの裾をわずかに揺らす。それで遠くを見たら、お手本のような積乱雲が地平線に浮いていた。
なあ、知らねぇだろ。
俺、お前のこと好きなんだぜ。
「聞いてるって、全部」
あーあ。
ずっとこのまま、ここにいてくれねぇかな。
……無理か。無理だな。
【ずっとこのまま】
20歳になった。
その日の夜には先月生まれの友人達が、一升瓶を担いで家に来た。
どうせケーキもくわねぇんだろ。
うるせぇ、余計なお世話だと、怒鳴りながらも声は笑っていた。
両親からはラインが来ていた。お誕生日、おめでとう。簡素な文に、特に返信もしなかった。1月になれば嫌でも親孝行をするのだから。
初めて潰れるまで飲んだのは、その翌週に先輩に連れ出された時だ。これでお前も大人の仲間入りだな。オウムみたいに同じことを繰り返された。悪い気はしなかった。
次の日、酷い頭痛に起きる気にもなれずに、昼過ぎまで寝ていた。西日の中で飲んだインスタントの味噌汁が、途方もなく美味かったのを、覚えている。
一月もたてば、役所からハガキが来た。年金のご案内。とんでもない文句を言いながら、しぶしぶ煩雑な手続きを行った。
どうせ貰えもしないのに、とか。これだから政治家は、とか。
……件の政治家の顔など、首相以外に分かるわけもない。それでも半年はそこらに貼られたポスターが嫌いだった。
そういう理由で、その年の選挙にも、行かなかった。
……なんとなく。
このまま年を重ねていくのだろう、と、ある時思った。
振り返ればそんな行動は、去年と対して変わりもせず、或いはそこらを歩いてるおじさんとも変わらなく思えた。
だが確かにこの年は、自分は一皮剥けて無敵な気がしていたし、このまま年を重ねる確信が、成熟した証のように思えた。
無敵な自分は、その実意外と増えた「大人としての義務やマナー」に対するストレスやもやもやを、吹き飛ばせる気さえしていた。
これも、酒が入っていた。
大層な講説を垂れる先輩に、同期諸君に、同調するように声をあげた。
成人したのに、周りは皆俺たちのことを子供扱いするとか。
学生に対して大人の対応を求めるな、とか。
全く、矛盾しているそんな言葉が、飲み屋で高らかに謳えば正義の御旗にあった。
ああ。
ならばどうして、同じことを繰り返している10年後が、こんなに虚しくなるものか。
【20歳】