凍えるような寒さを覚えている。
長い、長い冬だった。いつ明けるのかもわからなかった。
何人も死んでいった。隣人が、同胞が、恋人が、家族が。そうして、飢えはひもじいと、それでもわからない馬鹿どもが大勢いた。
凍えるような寒さを覚えている。
山に阻まれ、雪などめったに降らないけれど、それでも吹きさらす寒風は体に堪えた。
体の芯まで、震えていた。抱きっぱなしの猟銃は、体温までぬくくなっていたはずだ。それでも私から温度を、際限なく奪っていった。
今日、死ぬかもしれない。
私は決して悲観的な人間ではない、故に皆思っていたことだ。明日、飢えて死ぬかもしれない。凍えて死ぬかもしれない。それでも今日まで我々は銃を掲げなかった。今日死ぬだろう、それでよかろうと思えなかった。
しかし、いよいよどうしようもなくなって、その覚悟ができてしまった。ここにいるのは皆、他ならぬ自分の意思だ。ああ、凍えるばかりのはずなのに、心臓ばかりが煩わしくなる。震えは止まりもしないのに、高揚していると、そう言うより他に、仕方がなかった。
ああ、そう。今日、死ぬのだ。死ぬだろう。
だが私が死んでも生きても、きっと今日、世界が、変わる。
世界中の人間が、この町を見る、そして知るだろう。どれほど人が強かで、また、己の手で未来を勝ち取る気概のある生き物なのかを。私の死は、決死の行動は、それを人類に証明するのだ。
深く、息を吸った。震えは幾分かマシになった。ゆっくりと吐き出した息は、当たり前のように白かった。
犬の遠吠えが聞こえた。次第に抱えた銃の輪郭が、隣人の怯えた顔が、薄ぼんやりと見えるようになってきた。
遠くでバサリと音がした。3メートルはある木の棒に、茶色く汚れた、びりびりに割かれた、旗が立つ。負ければ暴動、勝てば革命。そのくだらぬ戦に命を賭すと示した、我々の意志が翻る。
間もなく、夜明けが訪れるのだ。
【夜明け前】
今日、坂本休みだってよ。
言ったのは多分、坂村と俺と同じサッカー部の木村だったけど、雑踏の中だったから確証はない。興味もなかった。
「えっ」
嘘、やっぱり俺も興味が出てきた。俺の後ろの席の川辺が、デカい声で反応した。なんで、と木村に理由を訪ねに行った。木村の席は廊下側だから、川辺は俺に背を向けることになる。
……窓側の席は、当たり前だが教室で一番暑い。電気代をケチってクーラーの温度もそう低くない。授業中でも汗が滴るこの席が俺は死ぬほど嫌いだったが、このときばかりは感謝した。
汗で透けた川辺のブラは、水色だった。
川辺凛。サッカー部のマネージャーをやっていて、ウチのクラスで一番可愛い女子。勉強もそこそこできてクラスの中心にいる女子。
好きな人が休みで失望を1ミリも隠せない女子。
「来週さ、坂村の誕生日じゃん」
そんでもって、俺のことを良き友人だと思ってる、女子。
「それでさ、誕プレ、あげたいんだけど」
昼休みにわざわざ俺と話すために屋上まで来て、切り出した話題がこれだった。
男と二人きりでも噂が立たないほどに、川辺が坂本を好きなのは周知の事実で。
俺と川辺がただ部活が同じだけの良き友人であることも、誰もが知ってる話で。
「あんたさ、坂本と仲いいじゃん。だから、明日のオフ、暇でしょ。買い物付き合ってよ」
俺は川辺より身長が10センチ以上高いから、こいつが第一ボタンまで外していれば、角度によっては谷間が見える。存在がエロいのはこいつの罪だ。俺の不純な心が悪いわけじゃない。
「昼飯ぐらい、奢るからさ……ねえ、」
凝視するのが許されるような関係ではないので、バレないように視線を落とした。
「ねえ、聞いてないでしょ」
「んー?」
温い夏風がポロシャツの裾をわずかに揺らす。それで遠くを見たら、お手本のような積乱雲が地平線に浮いていた。
なあ、知らねぇだろ。
俺、お前のこと好きなんだぜ。
「聞いてるって、全部」
あーあ。
ずっとこのまま、ここにいてくれねぇかな。
……無理か。無理だな。
【ずっとこのまま】
20歳になった。
その日の夜には先月生まれの友人達が、一升瓶を担いで家に来た。
どうせケーキもくわねぇんだろ。
うるせぇ、余計なお世話だと、怒鳴りながらも声は笑っていた。
両親からはラインが来ていた。お誕生日、おめでとう。簡素な文に、特に返信もしなかった。1月になれば嫌でも親孝行をするのだから。
初めて潰れるまで飲んだのは、その翌週に先輩に連れ出された時だ。これでお前も大人の仲間入りだな。オウムみたいに同じことを繰り返された。悪い気はしなかった。
次の日、酷い頭痛に起きる気にもなれずに、昼過ぎまで寝ていた。西日の中で飲んだインスタントの味噌汁が、途方もなく美味かったのを、覚えている。
一月もたてば、役所からハガキが来た。年金のご案内。とんでもない文句を言いながら、しぶしぶ煩雑な手続きを行った。
どうせ貰えもしないのに、とか。これだから政治家は、とか。
……件の政治家の顔など、首相以外に分かるわけもない。それでも半年はそこらに貼られたポスターが嫌いだった。
そういう理由で、その年の選挙にも、行かなかった。
……なんとなく。
このまま年を重ねていくのだろう、と、ある時思った。
振り返ればそんな行動は、去年と対して変わりもせず、或いはそこらを歩いてるおじさんとも変わらなく思えた。
だが確かにこの年は、自分は一皮剥けて無敵な気がしていたし、このまま年を重ねる確信が、成熟した証のように思えた。
無敵な自分は、その実意外と増えた「大人としての義務やマナー」に対するストレスやもやもやを、吹き飛ばせる気さえしていた。
これも、酒が入っていた。
大層な講説を垂れる先輩に、同期諸君に、同調するするように声をあげた。
成人したのに、周りは皆俺たちのことを子供扱いするとか。
学生に対して大人の対応を求めるな、とか。
全く、矛盾しているそんな言葉が、飲み屋で高らかに謳えば正義の御旗にった。
ああ。
ならばどうして、同じことを繰り返している10年後が、こんなに虚しくなるものか。
【20歳】