私は今日、愛すべき存在を知った。
隣立つ存在を愛おしいと思った。そうしてそれは、穏やかな朝の朝食のように、暖かく、優しいものでできた感情だと思っていた。
故に愛は「育む」と言うのだろう?
情動に焼かれる夜を越すこともあるだろう。なれど素晴らしい絆と信頼の上に、互いが互いを認め溶け合う瞬間が、決して理性のない獣の所業が作り出したものだとは思わない。一等輝かしい生命を生み出すための儀式でもあるのだから。
私はずっと、幸せであった。そう心の底から信じていた。
今日までは。
妻は血濡れた部屋に居た。彼女の足元に倒れ伏している人間を知っていた。妻がずっと、憎く思い呪っていた人間だった。開口一番こういった。
「どうして」、と。
ここは私の店であり、仕事場だった。妻には今日は休みで級友と釣りに行くと伝えていた。
ならば、この惨劇は決して、偶然起きた悲劇なんかじゃないのだろう。彼女は、全て分かって、全てを仕組んだのだ。だから私に、この場にいない筈の、そうして全ての罪を擦り付ける筈だった相手に、どうして、と言ったのだ。
ああ、 私は。
「本当に君のことを愛していたのだ」
馬鹿みたいだ。怒りの一つも湧いてこない。きっと静かな眼をしていた。少なくとも彼女にはそう見えた。そんな筈がないのに。
泣き崩れるか、いっそ私も殺してしまうか。きっと悩んだ、そういう悲痛な顔をした、だから。
「隠してしまおう」
私は言ってやったのだ。まだ君を愛している、と。その言葉の代わりに、そう、言ったのだ。
「私は全て、黙っていよう。店はしばらく休みにしよう。ちょうど良かった、魚は一匹も釣れなかったんだ。空のクーラーボックスは沢山、積んである」
そうして震える彼女に、理解の及ばない怪物を見る彼女に、手を述べた。
「どうした? やらないのかい。私は君を愛しているから。君の願いならばなんでも叶えてやるとも。でも当の本人にやり過ごす気がないのなら仕方がない。血濡れたままでも困るというものだ、警察を呼ばなければね」
まって、待ってだめ、それはっ。
可哀想に、そんなに怯えた声を出して。けれどダメだよ、大きな声を出してはいけない。そんな情けない声を出されたら、私は。
考えるふりをして、口元を覆うように手を当てた。口角が上がりっぱなしで下がらないのがいけない。いいや、そんな情けない声を出す君がいけないんだ。そんな声を出されたら、全て欲しくなってしまうだろう。
白状しよう、しようとも。それは素晴らしい快感であった。きっと"タガ"が外れたのだ。罪と隣立つ、ただ私だけに助けを乞い願われるこの最中、私の被虐心も加虐心も自尊心も興奮も、全て、全てが満たされた。
未だ取り乱し混乱する彼女を、優しく抱きとめる。さながら家族を守る父親のように。何も間違ってはいない。私は本当に、心の底から、彼女のことが愛おしいと、本当の意味で愛していると、今初めて思ったのだから。
「ああ、大丈夫。大丈夫だとも。何があっても、私は、君の、味方だ」
震える手が、冷たい手が、必死に私のジャケットを握った。君は、君はもう二度と、この手を離せないだろう。
私は今日、愛すべき狂気を知ったのだ。
【!マークじゃ足りない感情】
宣伝していいですか?いいですよね?
僕このテーマ前に書いた……結論は「ばなな!」です()
飛べ。そう言われた気がした。蹴り落とされたの方が近かった。
堕ちたら痛い?当たり前のことを吠えるんじゃない。痛いのがイヤなら夢を叶えたいなんて言うな。
そう、強く、強く、頬を打たれた経験はあるか。
流行りの歌、小説の一節、荒々しい絵画、夢を叶えた誰かのインタビュー。
今なお、飛び続け、光る人々の言葉は心に刺さる。けれど。彼らの痛烈な発信の裏に、それと同じく、或いはそれ以上に、飛ぶ試行した人たちの姿を、見たことはあるか。
百も二百も堕ちて血みどろになった人がいる。それでもまた飛ぶのだと泣きながら、或いは当たり前のように言える人がいる。
お前はどうだ? 今度は高く、跳べそうか。
【飛べ】
僕のアイデンティティを形成するに至った、敬愛なる歌手とその歌を参考文献として書き記しておきます。
エピゴウネ 日食なつこ
「それは瞬く、星のような日々だった」
過ぎ去っては永遠に愛おしく、欲しても決して手に届かない日々。
そうして瞬きの間に消え失せた、青い夏の日々。
一等懐かしく。一等輝かしい。だから星のような記憶だと、時に大事に仕舞って、また時に盛大に喧伝した。
喧伝したらば、私が青い夏の日々を気に入っていると、いつか同級の耳に届いた。
30年ぶりに高校の友人から、会わないか、と連絡が来たときは、私の胸の中の星々は、やっぱり一等ときめいて、いつにも増してかつての日々を艶やかに、私の頭の中に映した。さながらプラネタリウムを観ているようで。私は連絡を受けてから久方ぶりの友人に会えるその日まで、少年のように心を躍らせて過ごした。
友人は、私が思っていたよりもずっと、他人行儀に第一声を発した。
そういえば宇宙は今なお広がり続けていて、目に見える星々は、地球からずっと遠ざかり続けてるのだと、その時ふっと思い出した。
それでも30も言葉を交わせば昔のノリも思い出して、思い出が故に美しいのだという懐古も哀愁も、そのまま愛せた。
愛したままで終われば、どれほど。
思ったよりもずっと他人行儀だった友人は、昔の話をするたびに口ごもり、ふとした記憶を掘り起こし思わず笑うと、その次の瞬間にはっと我に返るような素振りを度々見せた。
そうしてとうとう、意を決したように口にした。
ーー俺は、あの時のお前の言葉をずっと引きずって、それがために夢を諦めたんだ。
きっとお前は何も気付いていなかったんだろうな。人の人生を左右し得る言葉を自身の口から出した自覚さえ、お前にはなかったんだろう。
楽しそうだな。俺も楽しかった。それはウソじゃあない。だが、必ずしも真実でもない。俺はずっと、お前の隣にいることで、少なからず苦痛を感じていたんだ。きっとな。
高校を卒業して、俺たちの間には距離ができて。お前が憎いほど嫌いではなかった。だからせめて、お前がいつか思い出した昔の記憶を、あの時気づかなかったことを、気付いて悔いてくれれば。それで、それだけでいいから。そう、思っていたのに。
何も言葉は出なかった。その時初めて、永劫だと思った星は頭上で儚く砕け散った。そうして星だと思っていたものは、もっとずっと脆く、いつか砕けて消えるものだと知ったのだ。
【クリスタル】
うーん…もう一本。明るい話(?)も書けるんだぞ、僕は。という自己顕示欲です()
「二酸化ケイ素。知らないの?ただのガラスだよ」
夢も希望もないことを言う。けれどただのガラスと言うには、目の前の友人の目は愉しそうに露店に並ぶ水晶を観ていて。
だから私は意地悪に聞き返してやった。
「欲しいの? ただのガラスなのに」
すると友人は、まるでそんな質問が飛んでくるなんて想像もしてなかったとでもいうようにこちらをみて、え、寧ろ敦子はいらないの、欲しくならないの、と言ってきた。
「キレイじゃん。女の子だもん。キレイなものは好きだよ」
なんだこいつ。率直に思ったことは顔に出ていたらしい。
「違うよー。ただのガラスだけど。そんなこと言ったら、ダイヤモンドはただの炭素だよ。シャー芯だよ」
からかってるのかと本気で思ったが、友人の顔に愉悦の色はなく、それがますます私を混乱させた。
「だからさ、」
「不思議じゃない? ただのガラスなのに。どこにでもある筈のものなのに。どうしてこんなにキレイに見えるんだろうね。どうしてこんなに魅力的になるんだろう」
「ね、ただのガラスはそう見えなくなって。ガラスと同じって思うと、なおさら不思議で、なおさらキレイになるでしょう」
友人はそう言ってからからと笑った。
私は友人の口車に乗せられて、まんまと買えるギリギリのサイズの天然水晶を買って帰った。
友人はあの旅行で、土産に菓子しか買わなかったのだと知ったのは、それからすぐのことだった。
春一番が吹いた。
翌日の陽気の中のそよ風を受けて、走り出したくて堪らなくなった。それで、中学の部活は陸上部にした。
梅雨の風は、風というより大気のうねりのようだった。
湿風が毎日吹いて雨を連れてくるから、6月は大抵、筋トレをした。
夏休みは台風も吹き荒れた。
合宿は、見事に台風の過ぎた直後だった。軽井沢まで来てひたすら走るばっかりだったから、青すぎる空を憎く思った。
秋風は例年通り強かった。
大会の日、クラウチングスタートを決めた私を、追い風がびうっと駆けて、抜かしていった。
木枯らしが吹く頃、種目が変わった。
短距離から長距離に転向したのだ。気が変わった、から。そう言ったけど泣いた私を皆が慰めてくれた。
北風は身体に堪えた。
晴れると風が強くなる季節だった。持久走をしている中で、びょおお、と冷たい風が吹くと、全身細い針で刺されているような心持ちになった。
……そうしてまた、春風を感じるようになって。
気付けば陸上は大学を卒業するまで、続けていた。
最後の大会で、陸上から離れてしまったら、時にこの身を任せて、時に真っ向から抗った、いつでも全身で受けたあの風たちを忘れてしまうのかと思った。思ったら、寂しくなった。
けれどもそれは杞憂だったようで。いつでも風が吹けば、思い出す。そうして無性に、走り出したくなるのだ。
【風と】
※公開後、少しラストを弄りました。無理にお題を回収する必要もないな、となり。
知らない地平だった。
土くれがいくばくも転がる乾いた台地。身の丈三十センチメートルばかりの草が方々に広がっている。知らない地平であった、だが、ここが日本だ、となぜか疑う余地はなかった。
やがて地響きが轟く。地震か。いや違う。あれは、馬だ。何十何百という馬が、騎馬が、一心に駆けている。響くは喊声、雄叫びに近しい。
戦だ。鎧兜が曇天に鈍く映える。こちらに向かってくる。構えなければ。そうするのが当たり前のように腰に手をやった。刀はしっかりと、左腰に収まっていた。
次の瞬間には自身も馬に跨っていた。先程まで遠くから眺めていた兜を被っていた。右手には抜き身の剣を、左手は手綱を強く握って。
走れ、さもなくば死ぬぞ。思えば馬は駆け出した。前方より雨のような矢が降り注ぐ。笑えてきた。未だ敵陣までの距離は百数歩、刀なんぞ届くまい。それでも馬は前に走った。身体はどこもかしこも熱かった。
しかしそれだけで済んだらしく、また次の瞬間には届く筈がない、と思った刀で、先陣の首を切り落としていた。この男は止まることを知らぬらしい。そう、人ごとのように思う。今さらのように馬が嘶き、そうして倒れる。矢尻が何本も生えていた。振り落とされた自分は尚も構えを解かず、だが振り回された薙刀を避けることは叶わずに、
……はっと、目が覚めた。
眼前にはのっぺりとした灰色の壁がある。自室の壁だ。同時に先程の光景が夢であったと悟る。
目覚ましをみれば、いつもの起床時間よりも、珈琲一杯分早かった。早く起き出してもよかったが、しばらくじっとしていたかった。
……おかしな、夢だった。夢なんぞ何を見たって不思議ではないのだから、おかしい訳はないのだが。しかし、いくら夢であろうと、知らないことをさも見てきたかのように再現できるわけではなかろう。
インプットなんてどこにもなかった。そういう小説もドラマもてんで見ない。ましてや馬に跨ったことも、刀を握ったこともない。
ならばどうして、さもありなんと思うのか。嫌な汗が背中を伝う。脈は僅かに早かった。
「前世、とかかも知れませんよ」
言い出したのは、サブカルチャーが好きな後輩。
時刻は昼時、騒がしい食堂の中で、そう言われた俺は、箸を持ってしばし硬直した。
周囲の同僚たちは、それがあまりにも荒唐無稽すぎて俺が固まったように映った、らしい。馬鹿なこと言うなよ、アニメの観すぎだよ、なんて言葉を後輩にかける。そういえば、そんな映画が丁度流行っていた。
膨れる後輩と同僚たちがそんなやりとりを皮切りに盛り上がり始める。
夢があるじゃないですか。どこの誰とも分からない人と、運命的な繋がりがあるんですよ。
お前の前世があるとしたら、そりゃあさぞかしそそっかしい奴なんだろうな。
あー、酷いっすよ、酷い、酷い。
俺はそんな会話を、ただぼんやり聞いていた。
夕方に雨が降った。予報通りだった。だから、鞄の中には折りたたみ傘が入っていたし、なんら困ることはない。困ることはないのだが、冬の雨は、それだけで気が滅入るからいけない。
夏よりかはずっと薄く、されど雨に濡れた地面から、土の香りが湧き立ってくる。それは不思議と、今朝夢で見た、あの台地を想像させた。夢の中では雨なんて降っていなかった。森に近づけば強くなるこの香りが、むき出しの土を想起させたのか。
じっと地面を見つめる。灰色のアスファルトは、雨が落ちたそばから黒く変色していく。一瞬てらりと光った後に、水はゆっくりと地面に染み込んでいく。地下へ、下へ、……この水が染み込んでいくその先に。
その先に、あの男はいるのだろうか。
思わず二、三歩後ずさった。
あんな男が、本当にこの世界に、いつか何処かに、いたのだろうか。名も知られず、誰にも語られることもなく朽ち果てて行った人が、今も土の中で待ってるのだろうか。
そうして未だ観測されない男は、存在は、果たしてそいつ一人だけか。
ああ、名も無き男よ。未だ存在すら知らぬ男よ。ただ一晩見ただけの夢が、そこに現れただけの現れたお前が、どうして俺をここまで脅えさせるんだ。
水たまりに雨が落ちて水面が波立つ。波紋が消えたその先に、蹲る骸はないか。伽藍堂な目がこちらを見ていやしないか。そんな想像が、俺の頭から離れない。
男の存在に名前が付けば、俺はこんなにも恐ろしくは思わないのだろうか。前世なぞ、確かめる術はない。しかし男が俺の前世ということにしてしまえば、男が誰かは、少なくとも俺の中で説明が付くだろうか。しかしその思い込みが、男を確かなものにしてしまわないか。本当にいたかもしれない男を、俺の拙い想像で補完したがために、殺してしまわないか。
どうしたって、不確かだ。そのくせ、俺は今日見た夢を、今しがた思い至った、足の下の存在を、きっと一生忘れない。
なあ、男。お前の存在に説明が付けばいいのだ。そうすれば、土の下に知らない誰かが無限に埋まっている、なんて想像はしなくて済むのだ。そうすれば、俺は不安から幾ばくか解放されるのだ。
だから教えてくれ。男、お前は一体誰なんだ。
【あなたは誰】