飛べ。そう言われた気がした。蹴り落とされたの方が近かった。
堕ちたら痛い?当たり前のことを吠えるんじゃない。痛いのがイヤなら夢を叶えたいなんて言うな。
そう、強く、強く、頬を打たれた経験はあるか。
流行りの歌、小説の一節、荒々しい絵画、夢を叶えた誰かのインタビュー。
今なお、飛び続け、光る人々の言葉は心に刺さる。けれど。彼らの痛烈な発信の裏に、それと同じく、或いはそれ以上に、飛ぶ試行した人たちの姿を、見たことはあるか。
百も二百も堕ちて血みどろになった人がいる。それでもまた飛ぶのだと泣きながら、或いは当たり前のように言える人がいる。
お前はどうだ? 今度は高く、跳べそうか。
【飛べ】
僕のアイデンティティを形成するに至った、敬愛なる歌手とその歌を参考文献として書き記しておきます。
エピゴウネ 日食なつこ
「それは瞬く、星のような日々だった」
過ぎ去っては永遠に愛おしく、欲しても決して手に届かない日々。
そうして瞬きの間に消え失せた、青い夏の日々。
一等懐かしく。一等輝かしい。だから星のような記憶だと、時に大事に仕舞って、また時に盛大に喧伝した。
喧伝したらば、私が青い夏の日々を気に入っていると、いつか同級の耳に届いた。
30年ぶりに高校の友人から、会わないか、と連絡が来たときは、私の胸の中の星々は、やっぱり一等ときめいて、いつにも増してかつての日々を艶やかに、私の頭の中に映した。さながらプラネタリウムを観ているようで。私は連絡を受けてから久方ぶりの友人に会えるその日まで、少年のように心を躍らせて過ごした。
友人は、私が思っていたよりもずっと、他人行儀に第一声を発した。
そういえば宇宙は今なお広がり続けていて、目に見える星々は、地球からずっと遠ざかり続けてるのだと、その時ふっと思い出した。
それでも30も言葉を交わせば昔のノリも思い出して、思い出が故に美しいのだという懐古も哀愁も、そのまま愛せた。
愛したままで終われば、どれほど。
思ったよりもずっと他人行儀だった友人は、昔の話をするたびに口ごもり、ふとした記憶を掘り起こし思わず笑うと、その次の瞬間にはっと我に返るような素振りを度々見せた。
そうしてとうとう、意を決したように口にした。
ーー俺は、あの時のお前の言葉をずっと引きずって、それがために夢を諦めたんだ。
きっとお前は何も気付いていなかったんだろうな。人の人生を左右し得る言葉を自身の口から出した自覚さえ、お前にはなかったんだろう。
楽しそうだな。俺も楽しかった。それはウソじゃあない。だが、必ずしも真実でもない。俺はずっと、お前の隣にいることで、少なからず苦痛を感じていたんだ。きっとな。
高校を卒業して、俺たちの間には距離ができて。お前が憎いほど嫌いではなかった。だからせめて、お前がいつか思い出した昔の記憶を、あの時気づかなかったことを、気付いて悔いてくれれば。それで、それだけでいいから。そう、思っていたのに。
何も言葉は出なかった。その時初めて、永劫だと思った星は頭上で儚く砕け散った。そうして星だと思っていたものは、もっとずっと脆く、いつか砕けて消えるものだと知ったのだ。
【クリスタル】
うーん…もう一本。明るい話(?)も書けるんだぞ、僕は。という自己顕示欲です()
「二酸化ケイ素。知らないの?ただのガラスだよ」
夢も希望もないことを言う。けれどただのガラスと言うには、目の前の友人の目は愉しそうに露店に並ぶ水晶を観ていて。
だから私は意地悪に聞き返してやった。
「欲しいの? ただのガラスなのに」
すると友人は、まるでそんな質問が飛んでくるなんて想像もしてなかったとでもいうようにこちらをみて、え、寧ろ敦子はいらないの、欲しくならないの、と言ってきた。
「キレイじゃん。女の子だもん。キレイなものは好きだよ」
なんだこいつ。率直に思ったことは顔に出ていたらしい。
「違うよー。ただのガラスだけど。そんなこと言ったら、ダイヤモンドはただの炭素だよ。シャー芯だよ」
からかってるのかと本気で思ったが、友人の顔に愉悦の色はなく、それがますます私を混乱させた。
「だからさ、」
「不思議じゃない? ただのガラスなのに。どこにでもある筈のものなのに。どうしてこんなにキレイに見えるんだろうね。どうしてこんなに魅力的になるんだろう」
「ね、ただのガラスはそう見えなくなって。ガラスと同じって思うと、なおさら不思議で、なおさらキレイになるでしょう」
友人はそう言ってからからと笑った。
私は友人の口車に乗せられて、まんまと買えるギリギリのサイズの天然水晶を買って帰った。
友人はあの旅行で、土産に菓子しか買わなかったのだと知ったのは、それからすぐのことだった。
春一番が吹いた。
翌日の陽気の中のそよ風を受けて、走り出したくて堪らなくなった。それで、中学の部活は陸上部にした。
梅雨の風は、風というより大気のうねりのようだった。
湿風が毎日吹いて雨を連れてくるから、6月は大抵、筋トレをした。
夏休みは台風も吹き荒れた。
合宿は、見事に台風の過ぎた直後だった。軽井沢まで来てひたすら走るばっかりだったから、青すぎる空を憎く思った。
秋風は例年通り強かった。
大会の日、クラウチングスタートを決めた私を、追い風がびうっと駆けて、抜かしていった。
木枯らしが吹く頃、種目が変わった。
短距離から長距離に転向したのだ。気が変わった、から。そう言ったけど泣いた私を皆が慰めてくれた。
北風は身体に堪えた。
晴れると風が強くなる季節だった。持久走をしている中で、びょおお、と冷たい風が吹くと、全身細い針で刺されているような心持ちになった。
……そうしてまた、春風を感じるようになって。
気付けば陸上は大学を卒業するまで、続けていた。
最後の大会で、陸上から離れてしまったら、時にこの身を任せて、時に真っ向から抗った、いつでも全身で受けたあの風たちを忘れてしまうのかと思った。思ったら、寂しくなった。
けれどもそれは杞憂だったようで。いつでも風が吹けば、思い出す。そうして無性に、走り出したくなるのだ。
【風と】
※公開後、少しラストを弄りました。無理にお題を回収する必要もないな、となり。
知らない地平だった。
土くれがいくばくも転がる乾いた台地。身の丈三十センチメートルばかりの草が方々に広がっている。知らない地平であった、だが、ここが日本だ、となぜか疑う余地はなかった。
やがて地響きが轟く。地震か。いや違う。あれは、馬だ。何十何百という馬が、騎馬が、一心に駆けている。響くは喊声、雄叫びに近しい。
戦だ。鎧兜が曇天に鈍く映える。こちらに向かってくる。構えなければ。そうするのが当たり前のように腰に手をやった。刀はしっかりと、左腰に収まっていた。
次の瞬間には自身も馬に跨っていた。先程まで遠くから眺めていた兜を被っていた。右手には抜き身の剣を、左手は手綱を強く握って。
走れ、さもなくば死ぬぞ。思えば馬は駆け出した。前方より雨のような矢が降り注ぐ。笑えてきた。未だ敵陣までの距離は百数歩、刀なんぞ届くまい。それでも馬は前に走った。身体はどこもかしこも熱かった。
しかしそれだけで済んだらしく、また次の瞬間には届く筈がない、と思った刀で、先陣の首を切り落としていた。この男は止まることを知らぬらしい。そう、人ごとのように思う。今さらのように馬が嘶き、そうして倒れる。矢尻が何本も生えていた。振り落とされた自分は尚も構えを解かず、だが振り回された薙刀を避けることは叶わずに、
……はっと、目が覚めた。
眼前にはのっぺりとした灰色の壁がある。自室の壁だ。同時に先程の光景が夢であったと悟る。
目覚ましをみれば、いつもの起床時間よりも、珈琲一杯分早かった。早く起き出してもよかったが、しばらくじっとしていたかった。
……おかしな、夢だった。夢なんぞ何を見たって不思議ではないのだから、おかしい訳はないのだが。しかし、いくら夢であろうと、知らないことをさも見てきたかのように再現できるわけではなかろう。
インプットなんてどこにもなかった。そういう小説もドラマもてんで見ない。ましてや馬に跨ったことも、刀を握ったこともない。
ならばどうして、さもありなんと思うのか。嫌な汗が背中を伝う。脈は僅かに早かった。
「前世、とかかも知れませんよ」
言い出したのは、サブカルチャーが好きな後輩。
時刻は昼時、騒がしい食堂の中で、そう言われた俺は、箸を持ってしばし硬直した。
周囲の同僚たちは、それがあまりにも荒唐無稽すぎて俺が固まったように映った、らしい。馬鹿なこと言うなよ、アニメの観すぎだよ、なんて言葉を後輩にかける。そういえば、そんな映画が丁度流行っていた。
膨れる後輩と同僚たちがそんなやりとりを皮切りに盛り上がり始める。
夢があるじゃないですか。どこの誰とも分からない人と、運命的な繋がりがあるんですよ。
お前の前世があるとしたら、そりゃあさぞかしそそっかしい奴なんだろうな。
あー、酷いっすよ、酷い、酷い。
俺はそんな会話を、ただぼんやり聞いていた。
夕方に雨が降った。予報通りだった。だから、鞄の中には折りたたみ傘が入っていたし、なんら困ることはない。困ることはないのだが、冬の雨は、それだけで気が滅入るからいけない。
夏よりかはずっと薄く、されど雨に濡れた地面から、土の香りが湧き立ってくる。それは不思議と、今朝夢で見た、あの台地を想像させた。夢の中では雨なんて降っていなかった。森に近づけば強くなるこの香りが、むき出しの土を想起させたのか。
じっと地面を見つめる。灰色のアスファルトは、雨が落ちたそばから黒く変色していく。一瞬てらりと光った後に、水はゆっくりと地面に染み込んでいく。地下へ、下へ、……この水が染み込んでいくその先に。
その先に、あの男はいるのだろうか。
思わず二、三歩後ずさった。
あんな男が、本当にこの世界に、いつか何処かに、いたのだろうか。名も知られず、誰にも語られることもなく朽ち果てて行った人が、今も土の中で待ってるのだろうか。
そうして未だ観測されない男は、存在は、果たしてそいつ一人だけか。
ああ、名も無き男よ。未だ存在すら知らぬ男よ。ただ一晩見ただけの夢が、そこに現れただけの現れたお前が、どうして俺をここまで脅えさせるんだ。
水たまりに雨が落ちて水面が波立つ。波紋が消えたその先に、蹲る骸はないか。伽藍堂な目がこちらを見ていやしないか。そんな想像が、俺の頭から離れない。
男の存在に名前が付けば、俺はこんなにも恐ろしくは思わないのだろうか。前世なぞ、確かめる術はない。しかし男が俺の前世ということにしてしまえば、男が誰かは、少なくとも俺の中で説明が付くだろうか。しかしその思い込みが、男を確かなものにしてしまわないか。本当にいたかもしれない男を、俺の拙い想像で補完したがために、殺してしまわないか。
どうしたって、不確かだ。そのくせ、俺は今日見た夢を、今しがた思い至った、足の下の存在を、きっと一生忘れない。
なあ、男。お前の存在に説明が付けばいいのだ。そうすれば、土の下に知らない誰かが無限に埋まっている、なんて想像はしなくて済むのだ。そうすれば、俺は不安から幾ばくか解放されるのだ。
だから教えてくれ。男、お前は一体誰なんだ。
【あなたは誰】
恵まれた人生だとは思っていない。これが世間一般に謳われる普通でないのも知っている。
飛び交う怒号、じめじめとした泣き声、漂うアルコール臭。
うっせぇ、うぜぇ、くっせぇ。あんたらの間にどんな因縁があるか知らねぇ、いずれにしても手前のガキの前でやるんじゃねぇ。
終いにはあの顔の赤いおじさんはお袋に飽きて、自分にだけ優しくしてくれる愛人の下へ飛び出していく。めそめそ泣き続けるお袋は、ただ何もされてない俺にごめんね、といい続ける。なにが? それを言ってどうなる? 俺は目の前の母親を壊す言葉を知っている、ただ言ってやるほどの熱意がないたけ。だから俺は今日も沈黙を貫く。
お前は、大人だろ。自由も権利も勝ち取れる地位を持っているのなら、声を上げろよ。俺は、俺には、ただ泣くしかできないお前の下から、離れることも許されてねぇのに。
それでも俺にはあんたらの血が流れてる。遺伝子と環境が人を作るなら、どうあがいたって未来は明るくないだろう?あんたらが俺の目の前で繰り広げるクソみたいな日常は、俺のいつかの未来だろう。
ああ、無常。絶望? いいや虚無だ。故に未来に期待はない。結論を出してから、俺は一度だってマトモに授業を受けてない。遅刻、サボり、お前はこのままだと留年だぞ、なんて言ってくる先公はウザくて仕方ないが、こいつに何を言ってもどうにもならないことは知っている。
タバコも飲酒もやった。群れを作ったりはしなかった。売られたケンカは全部買った。戦績は悪い方。勝つためにやってるわけじゃない。
いつの間にか俺は噂の対象になるくらい有名になった。やべぇ奴、怒らせたら怖い奴。別に学校で人を殴ったことはなかった。
好きにしろよ。周りがどうあれ何かが変わるわけじゃない。
学期が変わって新任が入ってきた。如何にも先生になりたくてなりました、みたいな若い奴。
そいつは俺にしつこく付き纏った。なんでも生活指導部、なんだとか。やかましいったらありゃしねぇ。だからある日言い放った。
「意味あんの?」
そいつは言った。大学が云々、可能性が云々。聞き飽きた理想郷の話。そいつが謳えるのは俺と違う世界の奴だけだ。そりゃそうだ。俺は誰にもなにも言ってない。言ってないなら、やっぱり周りには、俺はお前らと同じ世界に生きているように、見えるだろう。だがそれが理解されてなんになる? 何もかもが面倒くさい。
だから俺は。わざわざ足を止めて振り返って、そいつの目をしっかりと見て、鼻で嗤った。口角もへらり、と上がった。
そいつは俺が逆上すると想定していたのだろう。或いは全く無視するとか、分かってますよ、なんて言って愛想笑いをするか。ああつまり、そいつは、しつこく俺の後を追ってきたそいつは、初めて言葉を詰まらせた。そうしてそれから、俺の後を追うのをやめた。
ようやく俺の周りが静かになった。いいだろ、構うなよ。
努力は確かに実るかもしれないが、俺の将来はほとんど確約されている。カーテンの閉じられた部屋の中。いくらも転がる酒の缶。金を稼ぐ宛があってもなくても、隣には気の弱そうな女がいて。俺はそいつの髪の毛を引っ掴んで、拳を振るう。きっとイメージの再現性は完璧だ。誰がどう見たって、クソッタレな野郎だよ。
行き着く先がクズだと決まっているのなら、俺は金を稼がない方がいい。俺はきっと、人よりずっと早く死んじまう方が、いい。うまく生きる為の知恵も処世術も、俺は身に着けない方がずっと社会の為になる。心の底からそう思ってる。
だから。
あんたには、馬鹿な俺がどれだけ言葉を尽くしても、俺の世界も未来も理解できねぇだろ。なんで全部知ってますみたいな顔ができるんだ。
あいつだ。新任の、生活指導部の、あいつが、数週間置いて俺の前に再び立った。泣きそうに、痛々しそうに眉を寄せて。
だが立ちはだかるばっかりで、なんすか、と聞いても口を開けては閉じてを繰り返しただけ。話がないなら邪魔なだけ。踵を返して、そこで引き留めるようにようやく言った。
「君の事情を知った。聞いて回ったんだ」
……は、と多分俺の口から漏れた。何を知ったって、なぁ、俺の世界の、なにを。
「……大変、だったね」
カッと頭が熱くなった。気づけば俺は掴みかかって、そいつを押し倒していた。そのまま拳が出る、なのにそいつはされるがままで。
ふざけんな、ふざけんな、この馬鹿野郎。声に出ていた。
なぁ、ふざけんなよ、お前。その言葉が、一番俺を馬鹿にしてるって、わかんねぇのか。一番俺を惨めにするって、わかんねぇのかよ。
無我夢中で叫び続けた。その日その後、俺は数年ぶりに声を上げて、泣いた。
【やさしくしないで】