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※公開後、少しラストを弄りました。無理にお題を回収する必要もないな、となり。


 知らない地平だった。
 土くれがいくばくも転がる乾いた台地。身の丈三十センチメートルばかりの草が方々に広がっている。知らない地平であった、だが、ここが日本だ、となぜか疑う余地はなかった。
 やがて地響きが轟く。地震か。いや違う。あれは、馬だ。何十何百という馬が、騎馬が、一心に駆けている。響くは喊声、雄叫びに近しい。
 戦だ。鎧兜が曇天に鈍く映える。こちらに向かってくる。構えなければ。そうするのが当たり前のように腰に手をやった。刀はしっかりと、左腰に収まっていた。
 次の瞬間には自身も馬に跨っていた。先程まで遠くから眺めていた兜を被っていた。右手には抜き身の剣を、左手は手綱を強く握って。
 走れ、さもなくば死ぬぞ。思えば馬は駆け出した。前方より雨のような矢が降り注ぐ。笑えてきた。未だ敵陣までの距離は百数歩、刀なんぞ届くまい。それでも馬は前に走った。身体はどこもかしこも熱かった。
 しかしそれだけで済んだらしく、また次の瞬間には届く筈がない、と思った刀で、先陣の首を切り落としていた。この男は止まることを知らぬらしい。そう、人ごとのように思う。今さらのように馬が嘶き、そうして倒れる。矢尻が何本も生えていた。振り落とされた自分は尚も構えを解かず、だが振り回された薙刀を避けることは叶わずに、



 ……はっと、目が覚めた。

 眼前にはのっぺりとした灰色の壁がある。自室の壁だ。同時に先程の光景が夢であったと悟る。
 目覚ましをみれば、いつもの起床時間よりも、珈琲一杯分早かった。早く起き出してもよかったが、しばらくじっとしていたかった。
 ……おかしな、夢だった。夢なんぞ何を見たって不思議ではないのだから、おかしい訳はないのだが。しかし、いくら夢であろうと、知らないことをさも見てきたかのように再現できるわけではなかろう。
 インプットなんてどこにもなかった。そういう小説もドラマもてんで見ない。ましてや馬に跨ったことも、刀を握ったこともない。
 ならばどうして、さもありなんと思うのか。嫌な汗が背中を伝う。脈は僅かに早かった。



 「前世、とかかも知れませんよ」

 言い出したのは、サブカルチャーが好きな後輩。
 時刻は昼時、騒がしい食堂の中で、そう言われた俺は、箸を持ってしばし硬直した。
 周囲の同僚たちは、それがあまりにも荒唐無稽すぎて俺が固まったように映った、らしい。馬鹿なこと言うなよ、アニメの観すぎだよ、なんて言葉を後輩にかける。そういえば、そんな映画が丁度流行っていた。
 膨れる後輩と同僚たちがそんなやりとりを皮切りに盛り上がり始める。
 夢があるじゃないですか。どこの誰とも分からない人と、運命的な繋がりがあるんですよ。
 お前の前世があるとしたら、そりゃあさぞかしそそっかしい奴なんだろうな。
 あー、酷いっすよ、酷い、酷い。
 俺はそんな会話を、ただぼんやり聞いていた。

 夕方に雨が降った。予報通りだった。だから、鞄の中には折りたたみ傘が入っていたし、なんら困ることはない。困ることはないのだが、冬の雨は、それだけで気が滅入るからいけない。
 夏よりかはずっと薄く、されど雨に濡れた地面から、土の香りが湧き立ってくる。それは不思議と、今朝夢で見た、あの台地を想像させた。夢の中では雨なんて降っていなかった。森に近づけば強くなるこの香りが、むき出しの土を想起させたのか。
 じっと地面を見つめる。灰色のアスファルトは、雨が落ちたそばから黒く変色していく。一瞬てらりと光った後に、水はゆっくりと地面に染み込んでいく。地下へ、下へ、……この水が染み込んでいくその先に。

 その先に、あの男はいるのだろうか。

 思わず二、三歩後ずさった。
 あんな男が、本当にこの世界に、いつか何処かに、いたのだろうか。名も知られず、誰にも語られることもなく朽ち果てて行った人が、今も土の中で待ってるのだろうか。
 そうして未だ観測されない男は、存在は、果たしてそいつ一人だけか。

 ああ、名も無き男よ。未だ存在すら知らぬ男よ。ただ一晩見ただけの夢が、そこに現れただけの現れたお前が、どうして俺をここまで脅えさせるんだ。
 水たまりに雨が落ちて水面が波立つ。波紋が消えたその先に、蹲る骸はないか。伽藍堂な目がこちらを見ていやしないか。そんな想像が、俺の頭から離れない。

 男の存在に名前が付けば、俺はこんなにも恐ろしくは思わないのだろうか。前世なぞ、確かめる術はない。しかし男が俺の前世ということにしてしまえば、男が誰かは、少なくとも俺の中で説明が付くだろうか。しかしその思い込みが、男を確かなものにしてしまわないか。本当にいたかもしれない男を、俺の拙い想像で補完したがために、殺してしまわないか。
 どうしたって、不確かだ。そのくせ、俺は今日見た夢を、今しがた思い至った、足の下の存在を、きっと一生忘れない。

 なあ、男。お前の存在に説明が付けばいいのだ。そうすれば、土の下に知らない誰かが無限に埋まっている、なんて想像はしなくて済むのだ。そうすれば、俺は不安から幾ばくか解放されるのだ。
 だから教えてくれ。男、お前は一体誰なんだ。

【あなたは誰】

2/19/2025, 5:22:06 PM