「ごめん、なに?」
名前を呼ばれて目を上げたら、君はわざとらしく呆れた顔をする。
「週末の待ち合わせ、変えてもいい?」
「あ、うん、いいよ。どこにする?」
教室の中はさわがしくて、君は少し身を乗り出した。シャンプーの香りだろうか。お花屋さんの店先を通り過ぎたときみたいな、清々しい緑の匂い。
「コラッ、席につきなさい。授業時間ですよ」
遅れてきた担任の声に、君が渋々席を立つ。
「あとでね」
教壇から、次の学校に行くまでは我が校生徒の自覚を持って、などとお決まりの文句が始まった。年明けからいい聞かされ、もはやげんなりする言葉だ。『私、言ったよね?』と『申し訳ないけど』が口癖の年配教師はクラス中から疎まれてる。でもそれも、明日で終わり。
通路を二つ挟んだ席で、耳に髪を掛ける君が見えた。真剣に話を聞くときの癖だ。本当に真面目で偉いなと思う。そして途方もなく可愛いと思う。
これからも、今までみたいに会ってくれる?
新しい友だちとの時間のほうが大切になったりしないよね?
口にするのはまだ怖い言葉を舌の上だけで転がして、私はただ君を見ていた。
『怖がり』
雨の音で目が覚めた。
見慣れた天井に水面のような模様が揺れる。薄暗い静けさに規則正しい呼吸が満ちる。
ずれた毛布を肩に被せて、安らかに閉じられた瞳を見下ろす。瞬きしてる間に消えてしまったらどうしようなんて、馬鹿なことを考える。傍にこうしていられるなんて、まだ夢の中みたいで。
起きてほしいけど起こしたくない。見つめられたいけど見られたくない。そう思ったら瞳が開いた。二三度瞬いてから、掠れた響きの「おはよう」が降る。私の隣に星が溢れる。
『安らかな瞳』『星が溢れる』
急停車した地下鉄はなかなか発車しなかった。広告のヴィジョンをぼんやり眺めていた先輩が、
「いっぱい喋ってたら喉痛なってきた」
と鞄からポーチを取り出す。
「どっちがええ?」
白い手のひらに、赤と緑の個袋が載っていた。赤はいちご、緑はマスカット。
「じゃあ、こっちで」
礼を言ってマスカットを取ると、先輩がニヤリとした。
「そっちやと思た」
満足そうに頷いて、先輩は赤い袋の封を器用に切った。
私はいつも、この手の袋がなかなか開けられない。しばしの苦闘の末、ようやく黄緑の粒を口に放り込む。懐かしい甘さが口に広がる。
「ほんま不器用やんなぁ」
手の中でポーチをいじりながら先輩が言う。ジッパーにプリンのチャームがついた、派手な柄のポーチだった。
「先輩やって——」
私は反撃を試みる。
「どこからでも切れますってドレッシングの袋、よう失敗しとるやないですか」
「うっわ、見られとったんかい」
降って湧いた私と先輩の時間を、優しい甘さが埋める。ドレッシングを開けるのが下手で、飴の袋を開けるのは得意。部長にもちゃんと意見するのに、小学生みたいな誤字をやらかす。ぬいぐるみが好きだとか、竹野内よりは反町派だったとか。知ってるあなたより知らないあなたのほうが、まだこんなにも多い。
なあ地下鉄。もうこのままずっと停まっててくれへんかな。それが無理ならせめて、LINEでも交換できるまで。
『もっと知りたい』『ずっと隣で』
髪をあらかた乾かし終えて、冷凍庫から小さなアイスケーキを取り出す。皿にも載せずフォークを突き立て、さっそくひとくち食べた。
お風呂上がりでぽかぽかする身体に、口の中でふわりと溶けるクリームの甘さが心地よかった。
ダイニングテーブルの椅子に浅く腰を下ろす。斜めに座ったままでスマホを開き、トーク画面を出した。会話の履歴は十日前で停まっている。
番号はずっと変えてないから、これまでの会話がずっとここにあった。昔の手紙のやりとりも大学時代のチャット履歴も、視覚的な物は全部取ってあるって知ったら君は引くだろうな。
スマホが震え、画面が勝手にスクロールされて、最新の言葉を表示した。
『誕生日おめでとう!』
『ありがと。覚えてたんだ』
『既読はやっ』
語尾に、爆笑する絵文字。
『なにしてたの?』
と訊かれて、
『ひとりでケーキ食べてる』
と食べかけのアイスケーキの写真を送ると、しばらく間が空いてから下手くそなフォークのイラストが送られてきた。
『一口もらった!』
いつの間にか、君を好きでいる時間のほうがこんなに長くなっている。何年経ってもこういうところが好きなんだなと思い知らされるだけの時間。それは過ぎ去った過去であり、愛と平和の日々であり、平穏な日常に違いないのだろうけど。
『あ、ごめん。由那が起きた。由利はお風呂だからさ』
娘さん、また来てるのか。
『うん。行ってあげなよ』
『ごめんね。また連絡するわー』
改めて、お誕生日おめでとうのスタンプが届く。くだらないことを考えてスタンプの柴犬が滲むんでいく。
なにしてたの? って訊かれて、あんたのこと考えてたよとか、正直に言える私たちならとても良かったのにななんて、馬鹿なことを。
「……飲も」
先日自分への誕プレのつもりで取り寄せた紀州南高梅の梅酒を棚から取り出して、ロックグラスにだばだばと注いだ。
『過ぎ去った過去』『愛と平和』『平穏な日常』
電車を降り、ホームですぐに着信履歴をタップした。行き違う時って、なんでこんなにもとことん行き違うんだろう。
呼び出し音を五回数えたところで一旦諦める。右のまぶたがまたピクピクしていた。
こんな時はさっさと帰って寝るに限るのだと思いながら、自宅とは反対の改札を出る。歩きながら、もう一度架け直した。
しんとした住宅街で、雲のない闇に白い月が浮かぶ。そういえば朝のテレビでなんとかムーンだと言っていた。なんだったかな。
自販機の前で立ち止まり、「今日の月」と検索する。ポケットの小銭をつかんだつもりが、十円玉が勢いよく機械の下に転がっていった。次の瞬間スマホが鳴動する。
名前の思い出せない月より転がったお金より買おうとした珈琲より、余程大事な名前に私は指を伸ばす。
『月夜』『お金より大事なもの』