市役所を出たら空が暗くなっていた。駅までの道を辿りながら、親切な人だったなと思い返す。ただでさえ複雑極まりない手続きを、なんとかこなしてやるかという気持ちがちょっとだけ出てくる。
三橋と名乗った窓口の女性は、四つ葉の形のピアスをしていた。同じモチーフを好んだ誰かが否応なく目に浮かぶ。二年経って思い返しても結構キツい言葉たちが、胸の奥にまた火を熾す。
エメラルド色に煌めく幸せの象徴が、形の良い耳を飾るところを思い出し、立ち止まってぎゅっと目を閉じた。
いっそ嫌いになれたらいいのに。小さく息を吐いてから、明るい地下鉄の階段をくだる。
仕方ないね。まだこんなにも好きなんだから。どうしようもない焰を、もう少しだけくすぶらせていよう。
『消えない焰』
過去は変えられないからときみは言った。それは確かに嘘じゃない。放った言葉。零れた気持ち。いいこともそうでないことも、みんなみんなバレてしまった。
ひらりひらり、グレイの羽根が目の前でひるがえる。曇り空から抜け落ちたかと思わせるほど、それは淀んだ灰色だった。持ち上がっては落下して。揺れる羽根が風に煽られる。地面でひととき休むことすら許されないみたいに。
厚い雲がものすごい速さで流されていく。向かう未来が同じならいくらでも挽回できるなんて、単純な浅はかさも押し流されていく。
答えははじめから、全部きみが持っている。
『揺れる羽根』『終わらない問い』
杉浦先輩のデスクには、年季の入った箱が置いてある。有名すぎる某レジャー施設で販売されていたらしきお菓子の缶だ。
側面には、施設キャラクターであるネズミのカップルが、満面の笑みでポーズを決めており、そばには開園15周年記念の凝ったロゴが刻まれていた。そして、蓋の上のシールにはこう書いてあった——ひみつのおかしばこ。
月曜日の出社直後、先輩はチョコレートのファミリーパックを豪快に開け、逆さにして箱にぶちまける。仕事が立て込むと無言で箱を引き寄せて、中身を立て続けに口の中に放り込んだ。私の不得意な、高カカオのチョコレートだった。
「なにがひみつなんですか?」
いつだったか、一度本人に訊いてみたことがあった。
昼休憩の仮眠で癖のついた前髪を手で押さえながら、先輩は「え?」と半笑いでこちらを振り向いた。
「その箱」と私が指差すと、
「ああ」と腑に落ちた顔をして、先輩に手を掛ける。とても優しい目と指先が、慈しむ仕草で縁を撫でた。
「ふふっ、秘密」
自分から訊いておきながらなんだか恥ずかしくなって、私は曖昧に頷いてパソコンに目を戻した。
『秘密の箱』
「今年、秋風って吹いたのかな?」
なんか、気づいたらもう冬じゃん! と、歩きながらスマホを取り出して侑子が口を尖らせる。
確かに、ここ数日の気温の下がり方は異様だった。つい数週間前まで、夏のじめっとする気持ち悪さに文句を言っていた気がするのに。
「こうも乾燥してくるとさ、認識してくれなくなるよね、指紋」
液晶画面に押し付けていた親指を諦め、侑子はポケットから右手を出して番号を打ち込み始めた。
でもね、足元で枯葉の音をさせるこの風が、手袋を片っぽずつにできそうな冷たい風が、あたしは結構好きだったりするけど。
『秋風🍂』
急に気温が下がると、手足の先がざわざわする。上がるときはそうでもないのに。
ほかにも、カレンダーやノートの残りが少ないと気づいたときとか、後ろから呼び止められたときとか。やり残したはずの何かを、どうしても思い出せない感じ。
あなたの顔を目にした瞬間、そんなことを考えた。一見穏やかな表情ながら、目の奥だけは笑っていない。ざわざわした指先を無意識に握りしめると、すぐに慣れた感覚に収まってそれきり忘れてしまっていた。今思えばそれこそが、終わりの始まりだったのかもな。
『予感』
(スマホ無事修理に出しましたので、遡り編集しました。代替機の操作性がなかなか良きで。数日だけのご縁なのが残念です)