ㅤ脛に走った衝撃に、手の中から箸が飛んだ。両手で脛を押さえ、痛みを堪えて呻く。コロコロと床を転がる箸の音が、耳の奥でやたら響いた。
「サイッテー」
ㅤマナミの冷え切った声が重なる。
ㅤ愛から恋を引いたら、何が残ると思う?
ㅤ向かい合った夕食のテーブルで、脈絡もなくそんなことを聞かれて。なんの気なしに答えたのだ。性欲?、と。
「なんだよ、蹴ることないだろ!」
ㅤそもそも意図も模範解答も謎な問いかけを急にしてくる方が悪い。ただでさえ、大きな問いを抱えてるってのに。
ㅤおまえならなんて答えんだよ、と逆質問すると、マナミは短く言い切った。
「家族」
「そっちかよ!」
「そっちもどっちもないわよ!」
ㅤ……難しい。迷いを見透かされてるみたいなのが。
ㅤ箸を拾って、そのままおもむろに席を立つ。マナミが不思議そうな顔をする。
ㅤソファに置いた通勤カバンに手を突っ込んだ。今を逃すと、一生切り出せない気がする。買っただけで長らく放置していたそれを、俺は神妙にテーブルの真ん中に置いたことり、という音が鼓動と似ていると思った。
『愛-恋=?』
ㅤしゃくり、と軽い音がして顔を上げた。テーブルの隅で、誰かが梨を齧っている。通所して3ヶ月、見たことのない顔だった。
ㅤ就職困難者、と呼ばれることに違和感が無くなり始めていた。なるほど、自分は確かに、就職が困難な者なのだろう。3ヶ月頑張っても針の先も引っかかる気配がない。
ㅤ気を落とさずに頑張りましょう、と初めて会った頃と変わらぬ口調で今野は発破をかけてくる。味方の存在だけで嬉しかった気持ちは、気づけばどこかへ消えていた。
ㅤおにぎりを食べ終え、デザートを詰めたプラスチック容器の蓋を取る。その間も、しゃく、しゃく、と静かな音が続いていた。俯いて果実を齧るあの人もまた、いい知らせは無しのままなのか。
ㅤ味方とも仲間とも思うつもりはないが、昼食に同じフルーツを持参していた事実が、今の私には妙に心強く思った。
『梨』
ㅤ朝陽の差す病室であなたは妙に背筋を伸ばし、外を見ながら言ったよね。
ㅤやっぱり君とはすぐにまた逢える気がするんだ。なんの根拠もないんだけどさ。
ㅤ好きだと言っていた歌を、私は小さく口ずさむ。
ㅤ現実はどうだからってことじゃないし、ずっと胸の中に生きてるとか精神論的な話でもない。
ㅤ砂に水が染み込むように、あの時のあなたをただ信じたいだけだ。
ㅤ音もなく立ち昇る煙を見上げ、心の中で呟いた。
ㅤじゃあね、さよなら——ほんの五十年くらい 。
『LaLaLa GoodBye』
どこまで行けるかな?
って呟いたあなたに、
どこまでも行けるよ
ってあたしは返した。
あの頃のあたしは、本当にそう思ってたから。
その時の唇の歪み、鼻から漏らした息、少しだけ下げた眉のことなんかを、二年経っても、それこそどこまでも、あたしは考えている。
『どこまでも』
ㅤ謂れ無いことで怒られ、去られ、嗤われ、いまや寄り添うのは自分の影だけ。細く長く伸びるそれを無言で見下ろす。
ㅤいつも望んでいない方向に歩かされ、気づいた時には知らない道に立っているのだ。どちらから来たのだったか、どこへ向かうのだったか、考えるのはやめてしまった。
ㅤ目を閉じて頭をカラにする。適当にステップを踏み、パッと目に入った方向に歩き始めた。どこかには繋がっているのが道であり、未知というものだから。
『未知の交差点』