出かけようと扉を開けた矢先に雨。
みるみる黒い雲が広がり、雷が轟いた。
今日に限って予報を見逃したのは、確かに僕の落ち度だけど。
君とはぐれて狂いだした心の羅針盤。
あれからなにをしても上手くいかないんだ。
いちばんの基準が根底から揺らいで、
ふらふらゆらゆら
まるで当てずっぽうの方角を示す。
真っ赤に染まったレーダーの画面を閉じ、僕は大きく息を吐く。
まっすぐに闇雲に、煙る空へ飛び出した。
『心の羅針盤』
じゃあここで、と君が立ち止まる。
「あさってね」とか「また来週ね」とか、いつも手を振り合う場所で。
続く言葉が切り出せなくて。
次に会う時を決めてから別れていたんだと初めて気づいた。
風のやんだ駅前で上げかけた手を止めて、君がこちらを振り仰ぐ。
「またね」
ぎこちなく振られた指先は、あまりにも綺麗で。
縁が巡れば会えるといいねなんて、甘い意味では決してなく。
これきりにしようという合図だと、不思議なくらい分かったんだ。
どうしようもなく鈍すぎた僕にも。
『またね』
愛する人の声を聞き、
愛する人の手に触れて、
愛する人の生きる世界で、
わずかな時をともに過ごした。
泡になりたいわけじゃない。
命を差し出したつもりもない。
好きな気持ちを消せなかっただけ。
静かな海にこぽりと浮かびあがる小さな泡に、足を患った美しい少女の面影を彼は思い出す。寄り添う妻の腰を、抱いた瞳で。
『泡になりたい』
最初に声をかけてきたのはあなただった。
そこだけすっと光が差した。
綺麗な花が咲き乱れ、世界を春風が吹き抜けた。
過ごす時間が増えるほど、いつしか僕は自惚れていた。
自分があなたに選ばれたのだと。
酷いよずっと本音は隠して、
いまさら苦しかったなんて。
独り寝に耐えるベッドはまるで熱帯夜の再来。
夜更けになっても朝日が差しても、下がる気配のない温度に焼かれて。
終わらぬ夏の堂々巡りに、成す術もなく身を焦がす。
『ただいま、夏』
ユラユラとのぼっては消えていく泡の向こうで、君は黙っている。
氷はもうほとんど溶けてしまった。
いつも君のすることが、僕のしたかったことだと思わせられる恋だった。
ソーダ水を注文する声に
同じものを
と重ねると、
真似しないでよ
と君は小さく笑った。
同じタイミングで運ばれた同じ分量の炭酸は、今日も君の方がずっと早く飲み終わってしまう。
窓の外を眺めたまま、君が黙っている。
『ぬるい炭酸と無口な君』