画面の上からと下からそれぞれ二回ずつスクロールし、念の為もう一度更新ボタンを押してから、僕は端末を投げ出した。今回も自分の名前はどこにもない。
ベッドに仰向けになると、溜息が出た。これだけずっと落ち続ければ少しは切り替えも上手くなりそうなものなのに、毎回新鮮に地の果てまで落ち込む。
生き方を否定されたわけでも、人格を攻撃されたわけでもない。この賞には評価されなかったというだけのことなのだ。めげずに淡々とまた次を書くだけだ。これまでと同じように。
でもなあ、今度のは、かなり自信あったんだよなあ……。
スマホから通知音がして、のろのろと画面に目をやる。
気分転換に短編を投稿しているサイトにいいねが押されたらしい。
リンク先に表示された、半年ほど前に書いた文章を斜め読みしたところで、新着コメントに気づいた。
『遅ればせながら読みました。惹き込まれて一気読みでした。ヒロインに感情移入しすぎて最後少し泣いてしまいました。遅い感想ですみません。また読ませてくださると嬉しいです』
見覚えのないアカウントだった。コメント投稿は2ヶ月前。応募作の推敲に追われていた頃で、通知なんか碌に見ていなかった。普段から小説を読むのが好きで、ふと目に止めてくれたのだろう。
波しぶきのような淡い緑のアイコンを見つめていると、小瓶に入れ波にさらわれた手紙を拾ったような温かな気持ちが込み上げてきた。
起き上がってパソコンを立ち上げる。次作の構想なら実は山ほどある。この世はまだまだ書いてみたいものだらけなのだ。
そうだ、前回サブエピソード扱いにしたモブ視点で、別の話を組み上げても面白いかもしれない。だとすると、医療関係の下調べが必要か。いや、待て待て。
頭の中であれやこれやと勝手に湧き立つ考えを一旦なだめる。その前にまずはお礼だ。波しぶきの下の返信ボタンを、神聖な気持ちで僕はタップした。
『波にさらわれた手紙』
蝉の声をミンミンと最初に形容したのは誰なんだろう。
急な坂を登りながら、そんなどうでもいいことを僕は考えた。
頭を空っぽにしてしまうと耐えられないほどの暑さだ。
夏生まれの君と蝉の声の話をしたのは、まだ肌寒い頃だった。
ミンミンなんて、聞こえないよね?
と言った僕に、
そうかも。
と同意してくれた君。
ジージーとかシュワシュワじゃないのかなあ。種類によるんだろうけど。
シャンシャンとかシヌシヌって聞こえる時もない?
え? そうなの?
夏になったら検証しなくちゃ!
僕の言葉に笑った君の耳元で、髪が一筋風に揺らいだ。
耳につく8月の蝉の大合唱。
やっぱりジージーとシュワシュワとしか、僕には聞こえない。
高台に立つ僕を、あの日のようなぬるい風が吹き過ぎていった。
『8月、君に会いたい』
僕にとってこの世界はとても眩しいものだった。
室内の蛍光灯。直射日光。パソコンの画面。車のヘッドライト。
酷い時は頭痛がしたり、勝手に涙が出てきたり。
光過敏と呼ぶのだと知った。
普段使いが許可されると、サングラスはとても便利だった。
光刺激だけでなく、こちらの視線も遮ってくれるのだ。
お陰で周りをじっくり観察できた。
隣のデスクのきみのことも。
画面を真剣に見つめる瞳の綺麗さに、
リズミカルにキーボードを叩く指先に、
こっそりチョコを摘む顔に、
僕の心は日に日に過敏にさせられる。
この世の全てのひかりは、きみから発されているのかもしれない。
明度を落としたはずの視界で、恋の光が眩しくて。
『眩しくて』
迫る車体に思わず身を縮めた。次の瞬間、むわりとした風に包まれる。当然来ると思った痛みはほとんど感じなくて、衝撃と熱さ、ただそれだけが俺を齧った。
左足が動かない。いや、首も指先すらも。自分の身体がどうなっているのか知る術がなかった。
目の前には、アスファルトの地面がひろがっている。夏でもないのに夏の匂いがする。地面に倒れてることだけはわかった。あるいは数メートル飛ばされたかもしれない。
「大丈夫かっ!? 」って駆け寄って来る人も居ないもんなんだなあ。
ドラマで見るような風景と比べて馬鹿な感想を抱いていると、救急車の音が聞こえた。
どくん、どくん。
心臓の音がやけに響く。耳の中で直接鳴っているみたいだ。まだ立派に生きてる証。
自分の鼓動が熱い。死にたくないと訴えてるみたいに。
なんだよ。
今更そんなに頑張るなよ。
おまえも俺も、もうじゅうぶん頑張ってきたじゃないか。
救急車の音が止まった。数人の呼ぶ声が近くなったり遠のいたりする。
そして世界が、ふつりと途絶えた。
『熱い鼓動』
タイミングが良かったことなんかない気がする。
誰にでも懐く犬にさえ吠えられる、
SNS始めたら早々に乗っ取られる、
傘を忘れたら雨が降る(だから、母にとって絶対晴れて欲しい日には必ず傘を持たされた)、
残り一個の特売品は目の前で持ってかれる、
ほかにも……
「それは……難儀なことで」
君は古い言い回しで、ひょこりと顎を突き出した。
「だからさ、潔く仏滅にしたんだ」
「え?ㅤどゆこと?ㅤ今日仏滅なの?」
「うん」
「なんでまたわざわざ……」
「別に合わせた訳じゃないよ?ㅤたまたまだったんだけど。別の日にしなかったのは、タイミングとかじゃなくて、暦のせいに出来るかなあ、って……」
われながら馬鹿らしくなって、声がどんどん小さくなった。
黙っていた君がプッと吹き出す。
「そんな弱気な告白はじめて」
君の笑顔の眩しさ。
え?ㅤこれってさ、ひょっとして。期待してもいいやつ!?
「どうかなあ」
声に出したつもりはなかったのに、返事があって驚いた。
口に手を当てたまま何も言えないでいると、
「日曜日、デートしてよ」
信じ難い言葉が飛んでくる。
「私のために都合つけてくれたら、返事してあげる」
まって、まって、追いつかないから。タイミングなんか、全部ぶっ飛ばされてる!
『タイミング』