ㅤ待ち合わせの駅前に、君は真っ赤な顔で現れた。
「大丈夫?ㅤ汗すごいけど。ちょっと休んでから行く?」
ㅤ読みかけの文庫本に栞を挟み、僕はガード下のカフェを指す。
「ああ。へーき、へーき」
ㅤリュックからスポーツドリンクを出した君は、きっぱり言い切ってペットボトルを煽った。
「汗は止まんないけど、見た目より平気だから。体育祭の練習ばっかで暑さに慣れたんかな」
ㅤ触覚過敏というのかどうか、肌に何も触れない方が落ち着かないらしいと姉から聞いていた。学校では一年中長袖で通しているそうだ。
「どうせこのあと死ぬほど汗かくし」
「それもそうか」
ㅤ予報では今日は三十二度まで上がるらしい。なんなら既に超えているかもしれない。カバンにしまった文庫本の代わりに、僕はICカードを手にする。
「梅雨もまだなのに、もう夏だよね」
「だね」
ㅤ君の案内で、これから秘境と呼ばれる廃線を見に行くのだ。きっと死ぬほど暑くて、たまらなく熱い一日になるだろう。
ㅤ君の背中に続いて、僕は改札を入る。さあ行こう。僕らの夏の始まりへ。
『さあ行こう』
ㅤ植え込みや石の影を必死に見て回っていると、たまたまとおりがかった子が声をかけてくれた。
ㅤ土で汚れたヒヨコのキーホルダーは無事見つかり、雨はいつしか止んでいた。水たまりに映る空がキラキラ光る。
「この向こうには、違う世界があるらしいよ」
ㅤ私は隣をチラリと見て何気ないことのように呟いた。
「こちら側の世界に、子どもを迎えに来るんだって」
「なにそれ。テレビの見すぎじゃない?」
ㅤ明るい笑い声が返る。
「そんな話、図書室の本で見た気がするなあ」
ㅤタイトルなんだっけ、と考える横顔に、私は水たまりを指して驚いた顔を作った。
「あれ?ㅤでもいまなにか、動かなかった?」
ㅤ空の奥にさ。
「え、どこ?」
ㅤ素直で純な背中に手を添え、私は水たまりの中へと思い切り彼女を突き飛ばした。
『水たまりに映る空』
ㅤ迎えに来てくれた吉村という男は、目に付いた中華屋に私を誘い、苦手なものはないかと形だけ確認して、醤油ラーメンのチャーハンセットとギョーザを二人分注文した。奥のテレビでは、ドキュメンタリーが流れている。『ストーカー青年の真実』という美談なのか皮肉なのか分からないタイトルだ。
ㅤ愛と憎しみは似ているんです。僕が彼女に感じていたのは、その両方だったのかもしれません。
ㅤ音声を加工され耳障りな機械音と化した人の言葉が、私の心にすっと染み通った。
ㅤなんで分かってくれないの?
ㅤあなただけは私を分かってくれると思ったのに。
ㅤそう信じていた遠い記憶。
ㅤそんなの愛じゃないと言う人も居るだろうけど。愛や憎しみの対義語は、無関心だから。
「もう行くよ?」
ㅤチャーハンがまだ残っていたけど、私は諦めて席を立つ。勘定を済ませた作業着の背中に続いて、店の外へ出た。
「ご馳走様でした、すごく——」
「いやいや。なんか、あんま美味しくなかったね」
ㅤ美味しいの定義も、恋か、愛か、それとも別の何かかの定義も、所詮人それぞれだ。
ㅤ自分でなにか決めるのはやめよう。それだけを私は決めたいろんなことを諦めないとろくな事にはならないから。
『恋か、愛か、それとも』
約束だよ、そう言ってくれたのに。
あの時交わした愛は今も確かに残るのに。
私の知らない人の傍で、私の全然知らない顔で、
そんなにも優しく微笑むあなた。
約束は守りましょうって、学校で習わなかったの?
『約束だよ』
ㅤ下校時間になっても、雨はまだ降り続いていた。
ㅤ水色の傘を差したりっちゃんは、でこぼこしたアスファルトをピョンピョンと跳ねて歩く。私も水たまりを避け、白いスニーカーの底が作る泡を同じ順で踏んで歩く。
ㅤ雨はあまり好きじゃない。私はくせっ毛で、雨降りの朝は湿気を吸った髪がひどく広がった。仕事に出る支度の手を止めた母は、私の頭をギュウギュウ押したり引っ張ったりして、なるたけ手短に髪を縛るのだった。
「雨の日って、あたし好きだな」
ㅤ赤信号の前で、りっちゃんが立ち止まる。
「世界がグレーに沈んでさ、花の色とか綺麗に見えない?」
ㅤりっちゃんの傍で、ピンク色の紫陽花が揺れる。
「そうだね」
ㅤなんとなく話を合わせると、りっちゃんは私の傘の中に身を寄せた。
「恭子のその髪型も好きだし」
ㅤ唇に近づくやわらかな気配。
「傘の中に秘密、隠せるし」
ㅤ胸に触れるりっちゃんの手に手を添えて、私はそっと目を閉じた。
『傘の中の秘密』