ㅤ喋り終えたとき、私は肩で息をしていた。息継ぎをほとんどしていなかったらしい、指先がじんじんして、身体のあちこちが酸素を求めて細かく震えている気がした。
ㅤ時折小さな相槌を挟みながら黙って聞いていた相手が、机の上で組んでいた指先を解いた。
「話してくださってありがとう」
ㅤ直接関係ないこと言ってしまうかもしれないけど、浮かんだことをまずお伝えしてもいいですか、と訊かれ私は頷く。
「前に別の患者さんに言われたんですけどね、不安な気持ちは心が書いた手紙みたいだって」
ㅤ私は手元のメモに目を落とす。初めての場所で話す時は必ず準備しているものだ。意識していなかったのに、幾つも書かれた『不安』という文字が、ドキュメンタリー番組でよく見る演出のように、そこだけ明るく浮かび上がった。
「私はいま、あなたからお手紙をもらった気持ちになりました」
ㅤこの手紙を、ひとりで読むのは難しいかもしれない。良かったら、これから少しずつ、一緒に開いていきましょう。
ㅤこれは、私が私に宛てた手紙を、読み解いていく物語なんだ。そんなことが、なんの根拠もなくストンと私の中に落ちてきた瞬間だった。
『手紙を開くと』
ㅤその瞬間、世界から音が消えた。
ㅤ連休の晴れた銀座で僕は息を飲む。彩りの波の合間から、向こう側に立つ姿がまるでビームのようだった。
ㅤ見かけてもおかしくない場所だ。二人で来たことも何度もあった。背格好が似ているだけで、別人かもしれない。僕の頭の中を目まぐるしく思考が飛び交う。
ㅤ信号が変わる。四方から人並みが押し寄せて、僕は歩き出す。あさっての方向を見たままで。不自然なほど顔を背けて。
ㅤすれ違う瞳から、僕は目を逸らす。この中の誰よりも近くで、見つめ合う未来を夢みながら。
『すれ違う瞳』
ㅤここまでかと観念した。もはや全てが暴かれて、復讐も終わるかと。思いつくまま必死に弁明した言葉は、無為に滑っていくように思えて。
ㅤしかし、気づけば私は貴方にしがみつかれていた。シャツを握る白い手が震え、疑いを向けた弱さを悔いる涙が私の袖を濡らす。
「信じてくれて、ありがとう」
ㅤ優しく髪に触れながら、心から感謝を伝えた。この人を壊せるという甘美な幸せが背筋を這い登り、私は内心舌なめずりをする。
ㅤ——まだまだ、青い青い。
『青い青い』
ㅤ解除しないままの通知設定が、時折きみのつぶやきを運んでくる。
ㅤ待ち受けに浮かび上がるいくつかの「お気持ち表明」の中からそれを見つけると、そのまま毎度三回くらい頭の中で音読して指先で横にふっ飛ばす。楽しそうでもしんどそうでも、辛くなる。
ㅤいつもヘラヘラしていると思っていた新人に言われた一言が、じわりと胸の奥に刺さっていた。
「そこまで言うなら、柏木さんも一度やってみて欲しいっすよ」
ㅤ結構大変なんすよ?ㅤこーゆー修正。
ㅤきみの紡いだ言葉をスライドしかけた指が止まる。
『仕事頑張ったので今夜は奮発!』
ㅤ見覚えのあるテーブルの角。
ㅤその時には苦いことが後に甘くなるなんて、初めて知ったよ。
『sweet memories』
ㅤ窓に雨が打ち付ける音で、パソコン画面から顔を上げた。カーテンレールの隙間が、一瞬明るく光り、私は頭の中で数を数える。いち、にい、さん、しい、ご……。
ㅤドーンと音が響いた。意外と近くに落ちたようだ。外で「わー、こわいよー!」と子どもの叫び声がした。
ㅤ座ったまま出窓のほうに腕をのばし、カーテンを少しめくってみる。灰色を纏った住宅街を、びしょ濡れになった小学生が走り抜けていくのが見えた。風がかなり出てきたらしい。街路樹の枝先がしなる。
ㅤ家の中から眺める雨は、昔から好きだった。こんなふうに風と混じった雨模様なら、なおのこと。
ㅤ遠くで細い線のようになった雨が、風に煽られて斜めに傾き、舞台緞帳の動きでくねっていく。何かと共に在ってはじめて、意識できることがある。
ㅤたとえば今日みたいな風と雨のように。あなたと共に在れたらと思ってみる。それはどこか乱暴で、刹那的な願いかもしれない。
『風と』