ㅤ解除しないままの通知設定が、時折きみのつぶやきを運んでくる。
ㅤ待ち受けに浮かび上がるいくつかの「お気持ち表明」の中からそれを見つけると、そのまま毎度三回くらい頭の中で音読して指先で横にふっ飛ばす。楽しそうでもしんどそうでも、辛くなる。
ㅤいつもヘラヘラしていると思っていた新人に言われた一言が、じわりと胸の奥に刺さっていた。
「そこまで言うなら、柏木さんも一度やってみて欲しいっすよ」
ㅤ結構大変なんすよ?ㅤこーゆー修正。
ㅤきみの紡いだ言葉をスライドしかけた指が止まる。
『仕事頑張ったので今夜は奮発!』
ㅤ見覚えのあるテーブルの角。
ㅤその時には苦いことが後に甘くなるなんて、初めて知ったよ。
『sweet memories』
ㅤ窓に雨が打ち付ける音で、パソコン画面から顔を上げた。カーテンレールの隙間が、一瞬明るく光り、私は頭の中で数を数える。いち、にい、さん、しい、ご……。
ㅤドーンと音が響いた。意外と近くに落ちたようだ。外で「わー、こわいよー!」と子どもの叫び声がした。
ㅤ座ったまま出窓のほうに腕をのばし、カーテンを少しめくってみる。灰色を纏った住宅街を、びしょ濡れになった小学生が走り抜けていくのが見えた。風がかなり出てきたらしい。街路樹の枝先がしなる。
ㅤ家の中から眺める雨は、昔から好きだった。こんなふうに風と混じった雨模様なら、なおのこと。
ㅤ遠くで細い線のようになった雨が、風に煽られて斜めに傾き、舞台緞帳の動きでくねっていく。何かと共に在ってはじめて、意識できることがある。
ㅤたとえば今日みたいな風と雨のように。あなたと共に在れたらと思ってみる。それはどこか乱暴で、刹那的な願いかもしれない。
『風と』
ㅤ思った以上に風が強かった。頬に当たる髪が不快で、手首に掛けていたヘアゴムで縛る。こぼれた毛筋を何度か手で払った。意味が無いと知りながら。
ㅤ船尾に近い場所を選んで座っている。小さな渡し船だった。前の方には若者の集団がいて、なにやら騒がしかったからだ。
ㅤ目線の下で白波が立つ。顔を上げると、白い泡が真っ直ぐな線を描いていた。
ㅤ同じほうを向いたまま、あなたがなにか呟いた。その顔を覗き込むように、私は「なに?」と聞き返す。びゅうびゅうと吹き付ける風に、すべて飛ばされてしまいそう。
ㅤあなたは目を剥いてから、ちょっとだけ私を見た。聞こえているとは思わなかったのか、声を出したつもりがなかったのか。
「人の来た道も、見えたらいいのに」
ㅤゆっくりと噛み締めるように、あなたが言った。
「どんな速度で、どこに向かうのか。こんな風に、分かりやすく」
ㅤ真っ直ぐに伸びていた船の軌跡は、あなたが指差したと同時に、斜めにキュッと進路を変えた。
#100
『軌跡』
ㅤ電話の向こうから、小さく溜息が聴こえた。私に向けたものなんじゃないだろうかって、まためんどくさい考えが浮かぶ。
「もうさ、いい加減考えんのやめたら?」
ㅤ疲れない?ㅤもう二年だよ?
ㅤわざとらしいほど冷たく、舞が言い放つ。
「……まだ一年と、八ヶ月」
ㅤ弱々しく答えて、私は鼻をかむ。
「もう好きになれない、でも、それ以上に嫌いになれない。そんなこといつまでも考えてないで、次に進みなさいっつってんの!」
ㅤ舞が私のために言ってくれてるのは、わかる。一年八ヶ月経っても、こんなに話を聞いてくれてることも。
「そうだよねえ……」
ㅤ言葉を濁す私の視線の先には、あの人にもらったハーブティのパッケージ。未開封のまま賞味期限が切れていた。
「好きにも嫌いにもなれないなんてのは、もう友だちですらないってことでしょ」
「……わかった。今から飲む!ㅤ抹消する!」
ㅤ一年以上期日切れの袋を引き裂いて、私は高らかに宣言した。
「なに?ㅤ話がまったく見えないんだけど?ㅤなにが始まんの?」
「好きにも嫌いにもなれない気持ちの、供養~!」
ㅤマグカップに勢いよくお湯を注ぎ、続いて氷をいくつかぶち込んで、私は思い切り変な音をたて、どす黒い液体を喉の奥に流し込んだ。
『好きになれない、嫌いになれない』
「待って外明るくなってる!」
ㅤ間の空いた受け答えをしていた君が、急にはっきり喋りだして驚いた。言われて窓の方を向くと、カーテンの隙間から微かに光が漏れている。ちっとも気づかなかった。
ㅤだれかと喋っている間に夜が明けたなんて、初めてだ。なんか嬉しい。
ㅤ深夜ノリの妙なテンションですっかり眠気がさめてしまったのだが。
「そんなこと言って。忘れてるでしょ?」
「へ?」
ㅤ隣の顔が悪戯っぽく歪む。
「あんたのクラスの一限、田中だよ」
ㅤ出欠確認代わりにミニレポートを書かせる教授だ。マジかよ、よりによって!!
「あー……寝るわ」
ㅤ違うゼミなのになんでそんなに詳しいんだろうと思いながらも、鮮やかになる夜明けの光と共に、私は勢いよく床に突っ伏し、薄くなる意識に身を任せたのだった。
『夜が明けた。』