ㅤ花の蜜のような、甘い香りがしたとき。
ㅤ少し離れた場所から視線を感じたとき。
ㅤ喧騒のなかでまっすぐ姿を捉えたとき。
ㅤなんとなく声が聴こえた気がしたとき。
ㅤ僕がどきどきする、ふとした瞬間(とき)。
『ふとした瞬間』
ㅤじゃあね、今度こそ寝るから、おやすみ。
ㅤ今日もしつこいくらい言い合って、オンライの通話を終えた。転勤を言い渡されて三週間。三日と空けず話していても、いつも切る間際に寂しくなってしまう。慣れることなんか出来そうになかった。
ㅤ真っ暗になった液晶画面の前で、机に頭を懐かせた私は大きく息を吐く。
「……あいたいなあー」
ㅤどんなに離れていても愛があれば、なんて綺麗事だ。大丈夫だと思ってたのに、今日は誰とどんな話をしたのか、なにがあなたを笑顔にしたのか、もっとそばで見たくて知りたくてどうしようもない。
「ストーカーかよ」
ㅤ突っ伏したまま呟くと、微かに笑い声がした。私はバッと頭を上げる。暗転したとばかり思っていた画面に、困ったようなあなたの笑顔。
「ストーカーなんだ、咲ちゃん」
「えっ……なんで」
「接続不良かな。途切れたと思ったら繋がってた」
ㅤめちゃくちゃ恥ずかしい。どこまで声に出てたのかあまり記憶がなかった。
「連休さ、一回戻るよ。泊めてくれる?ㅤストーカーちゃん」
「え、だって休み取れないって——」
「遠い親戚に、ちょっと儚くなってもらおうかと」
ㅤ鼻の頭を擦りながらそんなこと言うのが可笑しかった。生真面目なあなたが愛おしい。
ㅤさっきの言葉は訂正かな。どんなに離れていても、あなたの愛があれば私は絶対大丈夫。……だけど、やっぱり、時々は戻ってきて。
『どんなに離れていても』
「こっちに恋」「愛にきて」
ㅤ見れば見るほどクソダサなキャッチコピーだった。
ㅤ短いフレーズがいくつも並んだプリントを机上に戻し、俺は眉間を指先で揉んだ。
ㅤ初夏のキャンペーンのキャッチフレーズを社内公募してみたのだ。いわゆるブレストという手法だった。
ㅤ募集時点では良い悪いはジャッジしない。とにかくできるだけ数を出すこと。誰とも被らない案を多く提出した上位5名にギフトカードを与える、と。そしたら、予想を軽く超えたえげつない数が集まった。
「まだ見てらしたんですか?」
ㅤ春から経理部に異動になった小柳君が半笑いで話しかけてきた。受け取った決済依頼の書類を手に、俺も半笑いを返す。社内便で送付も出来るのだが、彼女はこうして直接書類を持ってくることが多かった。元部署の様子が気になるのだろう。
「いや、よくもここまでと思ってさ。見てよ最後のやつ、オヤジギャグかよ」
ㅤ昭和の終わり生まれの俺でも使わない。
「ふーん。私はこれ、嫌いじゃないですけどね」
ㅤ大きな瞳がキョロリと動く。
「愛に雪、恋を白。なんてスキーのコピーもありましたしね。古すぎて新しいというか。恋と愛の境目ってなんだろうなあとか、ちょっと考えちゃいました」
「へえ……」
ㅤその発想はなかったな。
「まあ、このまま使うのは無理がありそうですけど。もしかしたら著作権的にも——」
「小柳君、ありがとう。他の人にも意見聞いてこの方向考えてみる」
ㅤ俺のなかに、とあるイメージが浮かんできた。うまくハマれば面白いことになりそうだ。
「部長のその顔、あたし結構好きですよ」
「……へ?」
ㅤ小柳君が、うふふと笑う。
「遠く経理から応援してますね~」
ㅤびっくりする台詞を残して小柳君が去っていくのを、しばし呆然と俺は見送った。
『「こっちに恋」「愛にきて」』
ㅤ思い出しては何度も考えた。なんであんな言い方をしてしまったのか。ほかに言いようがあったはずなのに。
ㅤ君と離れたあの時以来、逃げるように仕事に打ち込んで過ごした。寂しい気持ちに必死で背を向けていた。
ㅤなのに、信号待ちで立ち止まった時、月の光が街路樹の雨粒をキラキラと輝かせるのが見えたんだ。普段は気づきもしない光景。遠い夕闇に、星がひとつ。
ㅤああ、そうか。人はそんなに変われない。そんな言葉が泡のように立ちのぼる。
ㅤ想像のなかで何度も謝った。弁解して言い訳して、離れていくこころをつなぎ止めようとしたあの日。
ㅤたとえ上手くやり過ごせたとしても、根本的な解決にはならなかったのだ。
ㅤ本質はそんなところにはなかったんだな。
ㅤ青に変わった信号を、急に新しくなったようや世界を見晴るかす。
ㅤ初めて素直に思えた。
ㅤ何はともあれ、巡り逢えてほんとうによかったと。
『巡り逢い』
「一週間休みがあったらなにする?」
ㅤ夕飯の支度をしていたら、算数ドリルに集中しているとばかり思った息子が、そんなことを訊いてきた。
「そーだなあ、みんなで旅行とか?」
ㅤ洗い物の手を止めず、私は考える。
「りょ、こ、う」
広げたノートに、息子が書き付けている。今日最後の宿題はそれか。休暇インタビュー?
「旅行って、『う』?『お』?」
「『う』だね」
息子は春から二年生だ。字の練習を兼ねて、作文とも言えないほどの小さな宿題が毎日出されているた。四月の今は健康診断などの行事も多く、授業らしきものはまだ始まっていないようだ。
親にインタビューするというお題は比較的多かった。考えてみたら旅行なんて随分してない。本当に休みがあったら。ひとりでどこへでも行けたなら……さて、どこへ行こうか。
「どこ行きたい?」
母の心を読むな、息子よ。訂正しますから。
「そうだなあ。家族で行くなら北海道かな。それか沖縄」
息子の知っていそうな名前を挙げてみる
「すごいね! 一週間で日本の端から端まで?」
ㅤわかっているのかいないのか、いまいち掴めない返事に笑いが漏れた。
「一週間あれば行けるんじゃないかな?」
そうだね。きっと思い浮かべた時から、心だけは旅に出られる。寝かしつけの前に少しだけ、ふたりで旅行サイトを覗いてみようか。
『どこへ行こう』